詩の中庭

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『はなやかな追伸』日原正彦詩集(ふたば工房2021.7.15)感想

 多彩な版画のような装画がとても美しい、ハードカバーのずしりと持ち重りのする一冊。レイアウトには十分な余白があるが、ぎっしり詰まっている詩集だというのが第一印象である。17行詰めなので見開きの文字数は多めの印象だが、視覚的な要因よりも、作品数の多さと(7部に章分けしてはあるが)多彩さによる印象だろう。

 いわゆる正攻法で記述された詩作品だが、比喩の巧みさに加え、ユーモアや軽さへの志向が感じられる。内容的には決して軽くはないが、明るさや軽やかさ、言葉がもたらす新たな視点やひらめきの面白さにも心が及んでおり、読んでいると日常のどこにでも詩の種は潜んでいるのだ、という豊かさがじわじわと伝わってくる。

 

 冒頭の「水玉」は、机上に落ちた水玉に〈極小の 青空〉を見つけるところから始まる。〈なめてみる〉と〈水の味がする〉という、そらとぼけた展開に思わず笑いそうになるが、最後に不在の人の影がかすめる。続いて置かれた「ふたしずく」は、〈螢を 見た/闇も こうやってためいきをつくんだな〉と始まる。実景、もしくは幻想の螢かと思って読み始めるのだが、〈翌朝の目は/消されたままだった〉〈ふと 黒猫の無心にみつめられた〉・・・ふたしずく、ふたつの光とは、もしかしたら黒猫の瞳が闇の中で照り返す光だったのか、と気づかされる。螢は不在の人の魂を暗示する。叶わない〝来訪〟の願望が〝見誤らせた〟光の気配が濃厚に漂う作品だ。そして、一度そのように読み始めてしまうと、次に配された「返信」も(言葉の上では)〈だれでもない自分〉に宛てての投函であり、〈青い空の底から/白い羽毛のような返信〉が戻ってくるかもしれない、と期待する姿勢を示しているのだが・・・先に天界に旅立った人からの返信を待っている詩人(書き続けるのは、届かない返信を待ち続けるということであり、その返信を受け取るのは〈死んだ あとで〉だと、実はわかっている)の姿をそこに〝見て〟しまう。

 本詩集の冒頭、《鳥》の章(のとりわけ前半)には、こうした不在の人の気配を濃く薄くたなびかせる作品が集められている。「青」に描かれた、〈空の奥から〉のびてくる〈視えない手〉の気配。「鳥」には〈遠い昔/わたしだけが見送った〉〈わたしだけの鳥〉と記される。見送った鳥は〈光り輝くような重さ〉を持つものになり、〈それは宇宙へ沈んでゆくほどの不思議な重さ〉を持つと語られるとき、そこには星のイメージが重なっていく。この詩は〈鳥〉に見守られている感覚ではなく、その鳥の帰還を予告する詩だ。〈いつか おまえは帰ってくるだろう/おまえが/わたしのひとみに 産みつけていった 卵が割れて//一羽の 死が/孵るころに〉・・・自身が死んで〈鳥〉のそばに行くときのことを、〈鳥〉の帰還としてとらえ直しているようにも見える。

「鳥」は観念やイメージが優位に立つ作品だが、「天使」では日常の景の中で不在の人の気配を感じ取る瞬間を描いている。ぼんやりと部屋の中に居る語り手が、生に倦んだようなつぶやきを漏らした瞬間、窓の外の〈ひかりのなかを 蝶のようなものがよぎって〉いく。〈小さいけれど 大切な/かおのない/追憶のひとつのように〉と感じる心の動き。

 「あ」はユーモラスで巧みな一作だ。〈思い出したいひとつのためいきが〉ある・・・え、そんなことが詩になるの?という驚きから始まり、〈あ〉の行方を追いかける軽妙なとぼけた眼差しを追ううちに、〈あ〉が、実は〈七年前K大病院前のバス停で手前の薬局から出てきたあなた〉がついた〈ためいき〉であったことを読者は知らされる。

 鳥や蝶は、夢や情熱の喩と読み替えることもできるだろう。あるいは語り手がひそかに待ち望む死を、告げ知らせてくれる解放者、という天使のような存在と読んでもよいのかもしれない。しかし、詩行の軽やかで柔らかな展開を追っていくと、邂逅を待ち望みながら果たし得ない、そんな亡き人の影というものがじわりと浮上してくるのだ。

 軽めにとぼけたような語り口で綴りながら、最後に〈こころも/決して/汀だけではないのだ〉と締める認識の鮮やかさや、〈あの ねむりとねむりの間に 傷のように/口をあけた小さな別の時間の扉を/何かが そっと/たたいたような音〉という比喩の巧みさ(「空とこころ」、「ほんとうにあったコト」)。「坂」で静かにつぶやく、〈あらゆるものはいずれは消えてゆく/そのさびしい傾斜を 赦す〉という達観。

 ちょっとカッコつけすぎている感もある、小粋なフレーズも魅力のひとつかもしれない。たとえば、「春の雨」の〈女はいつも濡れていて/男はときどき乾きたがる〉・・・この詩は〈一本だけ/骨の折れた傘をさして散歩する〉とさりげなく始まるのだが、骨が含意するものは〝女=イブ〟だ。そこから、寂しさや悲しみに濡れそぼつ〈傘〉と、その〈傘〉に守られている〈男〉という感受へと展開していく。感情を〝濡らす〟ことをためらわない女と逃れたがる〈男〉。代わりに泣く〈女〉に守られているのが〈男〉ということでもあるのかもしれない。

 《鳥》の章の後半には、ウィットに富んだ、書くことそのものが楽しい、といった作品も収められている。「はむし」の、〈とんでもなく難しい書〉と格闘している昼下がり、重層的な意味を持たされた助詞の〈は〉の上にとまった羽虫が〈とてもかるい/でもとんでもなく深い真実をさらってゆくかのように〉飛び去った、という〝かろみ〟に逃していく作品や、「し」のような一文字から展開する一篇も面白い。

 

 ・・・以上が、第一章にあたる「鳥」19篇の感想なのだが。この詩集は全部で53篇(!)の作品を収めている。中でも強く胸に響いたのは第二章の《残酷な秋》9篇。「鳥」に濃く薄く漂う〝不在の人〟〝非在の気配〟と真正面から向き合った作品群でもある。(同じ一人の人について描かれているのか、あるいは死、非在、という共通項で連なる詩篇であるのかは不明だ。)音楽のイメージが章の前半をまとめている。〈少ない音符の 散らばった/さびしいメロディーのような/君の横顔のラインを/ぼくの貧しい無言で なぞってゆく〉(「よこがお」)。あるいは、〈死んでゆく人に会いに行く〉「残酷な秋」。〈赤く 黄色く/もみじした二本の 男と女の木の 葉が風のなかで/混声合唱 秋 をうたっていた/そのとなりに ぽつんと/休止符のように立っていた 枯木の/曳いている影に 去年の今日が微かに混じっていた〉〈今日は 秋/残酷な秋//死んでゆくあなたの息に/私の息を重ねようとしても/あなたの息は それにやさしく抗うかのように/はらはらと/はらはらと/落葉して 落葉して〉。

 「息」にも、息=生きの感覚が現われる。〈君の息はまだ十年汚れただけ〉〈ぼくのはゆうにその七倍〉とあるので、ここでの〈君〉は愛猫(別の作品でその死が暗示されている)などをうたっているのかとも思うのだが、〈君の フェルマータのような目が/ぼくの不安を 濃く長びかせる〉、〈たえず息を新しい昔にしてゆく 君の延髄が/ぼくの延髄と共鳴しようとする〉というような表現に惹かれる。

 「告知」の・・・おそらくは不治の病の告知を受けた〈君〉を前にした〈ぼく〉の無言の重さが胸に迫る。〈無言というものがこんなにも頑丈な牢獄だなんて と/唇を結〉んでいる〈ぼく〉、〈その長い長い五、六秒ほどの/黒い土砂のように埋もれてしまった時間〉のこと・・・。あるいは「都会の雪」に書き留められた、〈あなた〉の頬を伝う涙ともとけた雪の雫ともつかぬ一滴の記憶。「夜のひまわり」に記されている、〈わからなさが でも すっと入ってくるような/風もないのに草がゆれるように いつのまにか/私の心をゆらしている/不思議な表情〉を浮かべた〈君〉のこと、その〈君〉が〈私 ではなく/私の不安ではなく/夜の灯りのなかで さまざまに瘦せ細ったさびしい可能性のような/青く細い枝を伸ばしている 枯木を/そっと抱きしめながら〉つぶやいた〈さよなら〉という一言・・・。

 第三章にあたる《囀る欅》は、〈君〉亡き後の日々を描いた詩群のように思われる。〈美しい気がかりのように〉〈私〉の周りを廻る蝶、〈私は世界中のすべての人のかわいた無言に種を蒔きたいと願うものだ〉と語るヒマワリ(亡き人を思わせる花)の決然とした声(「このように」)。一篇のみで読めば道端に落ちた髪留から連想を膨らませた詩にも見える「午後のかみどめ」も、詩集全体の流れの中に置かれると〈どんな髪を放念したのか〉〈その人はどんな運命を握りつぶしたのか〉その意味合いが強く迫ってくる。病の痛みに苦しんでいる友人を見舞う「唸る」という詩は、〈北方の濃い青空色の/コントラバス〉の上を〈鈍い光沢の弓〉が〈はるか南方の水平線のような 静寂と 平行に〉〈苦い失意の終わりから〉〈甘い不安の初めへと〉擦過するような〈音調〉で彼が唸った・・・と描写される。音調を〝恩寵〟と読まされてしまう描写でもあるのは、〈苦しむことは必ずしも不幸ではない/それは 何らかの明るみへと生を跳躍させるための/踏み板なのだから〉と思う〈わたし〉の姿を最初に捉えているからだろう。〈わたし〉は〈彼〉を見舞いながら、自身の死をそこに見ているのかもしれない。

 

 ここまでの32篇で、充分に一冊の詩集と成り得ていると思うのだが、この詩集にはさらに《春の土(短歌付詩篇)》4篇、《蝉》7篇、《旗》8篇、そして《はなやかな追伸》2篇が一冊に編まれている。〈広場は まるで/大きな白いあくびをしているようだった〉〈黙ったままで きみは/まるで 時間のない顔/になろうとしている〉〈いのちを0.001ミリほどスライスしては僅かに死んで/それで0.001ミリ生き延びた人だったりする〉〈ある日/とても用心深い耳と/油断ばかりしている耳が路上ですれちがう〉〈たとえば 彼は半分しか生きてはいない/彼女は三分の一死んでいる/それは死ぬまでの時間の量ではない/今/この 今の 深さのこと〉〈巣立ち鳥のようなダイヤモンド色の目をした子ども〉・・・など、印象に残るフレーズが随所にある。《鳥》の章のウィットに富んだ数篇と共に、この後半の詩篇をもう一冊、別の詩集に編んでもよかったのではないか、という気持ちも残る作品群ではあった。「青空」や「ノイズ」、「冬の噴水」などに記された社会批評的な視点も気になるところだ。

 最終章の《はなやかな追伸》は、ブルックナーのフィナーレのように粘り強く重厚に言葉を重ねていく二篇。畳みかけていく声調と共に、詩は〈あなた〉に語りかけるものですよね、と再確認を迫られているような印象を覚えた。この最終章は、日原の今後の創作の方向性を暗示しているのかもしれない。

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