詩の中庭

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『昼の岸』渡辺めぐみ詩集(思潮社2019.9.1)感想

 彼岸が夜の岸なら、昼の岸は此岸だろうか。そのあわいを開示する詩集、と言ってもよいかもしれない。〝生活〟から断絶してはいないが、日常的な次元からは飛翔している、緊密な詩行。

 孤高の戦いを一人で挑み続ける者の静けさと覚悟が印象に残る。決然とした呼びかけにも心を揺さぶられる。32篇からなる第五詩集。マグリットに触発された連作が8篇、後半に収められているが、全体を通じてこの倫理性、使命感のようなものが芯となって貫いている・・・そしてその芯の周りを、やわらかな抒情と、読者を排除しない呼びかけの意志が取り巻いている。

 

 昼の岸という語感が昼の〝騎士〟と重なる。凛々しさのイメージは、やはり〈武器庫〉〈魂の煙〉〈硝煙のさみしさ〉(「リッスン」)、〈大陸間弾道弾〉(「指定外区域」)、〈金属質の音を破砕して〉(「消灯時間」)といった集中の言葉がはらむ緊迫感のゆえかもしれない。臨戦態勢にある精神、と言えばよいだろうか。「空 晴れて」という詩の中の〈生というロシアンルーレット〉という言葉にドキリとする。しかし詩人は、いったい何と戦っている、あるいは戦おうとしているのか。

 被災地に、なぜ私はその時いなかったのか、(たとえ外国であったとしても)被弾地に、なぜ私はその時いなかったのか、という問い。いることと、いないこと。それは、本当にささいな偶然のなせるわざであったとしても・・・いなかったことに論理を越えた自責の念を感じてしまう語り手が、そこに居る。詩人の共感力と正義感が詩人自身に突き付ける問いが、時に刃となり、時に針となって詩人の心を傷つける、その傷に負けたり酔ったりすることなく、あきらめて放置することもなく・・・いわば自ら〝手当て〟しながら、詩人はそこに立っている。その道程、過程から汲み上げられた言葉によって編まれた詩集、と言いかえることもできるだろう。

 被災の状況を〝知り〟、想像力で〝その場〟に立ち得たとしても、いったい、言葉に何ができるのだろう・・・私たちは無力だ。しかしそのことを知ってなお、虚無感や無力感そのものに抗わねばならない、いや、抗うことこそが、言葉に残された道なのだ、という強い意志を感じる。そのことを詩集そのものが読者に力強く呼びかけてくる。

 たとえば「春の窓」にさりげなく示される、ひたひたと忍び寄る不穏な気配、その空気感を感じる人は少なくないように思う。経済格差が拡大し、独裁的強権政治や恐怖政治が強まりつつある現代は、1930年代の状況と似てきているのではなかろうか。その不気味さを肌で感じ取ることと、当時生まれたシュルレアリスム再考の動きとは、恐らく精神の深いところで強く関連している。(詩集後半にまとめられているとはいえ、マグリットの絵画に詩人が強く触発されるゆえんでもあるだろう。)詩人が〝見る〟〈口無し川〉とは〈誰にも信じてもらえなかった人の涙が集まり〉生まれた川だという。その流れはまた、シュルレアリスムモダニズムの詩を生み、密かに現代まで運び続けた流れでもあるだろう。その水に触れ、流れに足を踏み入れてしまった者が黙って見過ごすことは、果たして許されるのか・・・

 「記憶」の冒頭で突き付けられる、〈心臓の油田に片時も離さず刺さり続ける記憶の針を抜いてはいけない〉という言葉の強さに打たれる。自らその痛みを激しく感じながら、まっすぐに向き合い、意志を持って書き記したような詩行の鋭さ。反対に、〈それだけのために/泣いてもいいはずだ〉(「無季」)と記す、コンパッションを秘かに自らに許すような詩行の優しさ。その両極を支えているのは、「夏至」に記されるような〈誰かのために投げ出す時間なら/この身が噛み砕かれてもいいのです〉という熾烈な祈りの言葉、その情熱(パッション)なのではなかろうか。〈誓いは夜の河を渡る/その河を/たくさんの人々の/ひらかなかったたくさんの夢が/水子のように流れてゆく〉(「夏至」)――それを〝見て〟しまった者は、その夢が再び命を得るように、再び生まれ直すように、その不可能を祈り続けるほかはないのかもしれない。あるいは、その覚悟を決める、ということが、渡辺にとって詩人として生きるという決意なのだろうか。

 

死の灰の降る街を見ました)

(乳をもらえずに飢餓で死んでゆく子供達を見ました)

(無実を叫ぶ独房の囚人を見ました)

そう語ることはなくじっと耐えているおまえが

見えてしまったわたしは

何と名付けたらいいのだろうか

翼があるなら飛ぶがいい

ヘヴンの彼方に飛ぶがいい

生き急ぐ者達にも鳥の形に見えるはずだから

(「ヘヴンは遠く」)

 

おまえ、とは、人の良心とも読み替えうるだろう。人類の理想が強い念を受けてひとの姿になろうとしている、そんな〝鳥の形〟として、何者かの魂の姿として顕現しつつあるなにか。生まれた人が、その誰しもが、 〝さいわい〟を当たり前として生きることのできる世界が、どうして未だに実現されないのか・・・。

 生き急ぐ者達とは、日本においては仕事で疲弊し、人間関係で追い詰められて自ら死を選ぶ人たちであるかもしれず、世界においては自己犠牲によって世界の変革を、不条理な世界の終焉をもくろむ自爆者たちであるかもしれない。しかし、絶望がすべてを閉ざそうとするときにおいても、〈きれいな水と/きれいな土と/言葉があれば生きていける〉(「声紋」)と、渡辺は確信をもって希望を語る。それは、〝きれいな〟言葉を、ひとりひとりが自分の言葉として持つことが出来るようになったときに訪れる〝ヘブン〟なのかもしれない。