詩の中庭

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『野の戦い、海の思い』水島英己詩集(思潮社2019.10.31 )感想

 水島英己の第六詩集、『野の戦い、海の思い』。力強い表紙装画。ざらついた紙質が、質感を添える。(装画 高専寺赫)

 読了してまず感じたのは、ぎっしり詰まっている詩集だということだった。風の通る詩集、であるにも関わらず。それから、適切な表現ではないかもしれないが、〝男っぽい″詩集だとも感じた。なぜだろう。言い切りの形や体言止めが多い文体、言い過ぎない、むしろ抑制して、時に飲み込みつつ、野太い声を〝置くように″綴っていく書き方、あるいは憤りのまっすぐな表明や、〈おまえ〉という言葉の使い方などに、そうした印象の一端があるのかもしれない。しかし、そうした細部の処理ということよりも、全体を通じて伝わってくるイメージに、それを感じたのだ。泥のついたままの根菜を丁寧に倉庫に収めて、熟成を待つ農夫の背中、あるいは、寒風をものともせず、港で黙々と漁網の繕いを続ける漁夫の背中、そこから立ちのぼる何か。戦国の世であれば、いざ事があれば、野武士として戦いに出向いていたであろう、そんな男たちと同質のもの。その由来を問いつつ、章立てごとに読み直してみる。

 

 īnterior の章が「豆が花」や「辺野古」「沖縄」という〝肉体の外部にある場所″への思いから始まることに、少なからず驚きを覚える。心の内、に確かにある場所、そこから思いが湧き上がってくる場所、ということなのか。「肖像」(モディリアニの中でも都市の洗練を拭い去った、素の人間同士としてモデルと相対しているような裸婦像)を繋ぎとして・・・御母堂に奉げる詩と出会った時、自らの源流としてのīnteriorなのだと、すとんと落ちてくるものがあった。

 〈痛みの向こうには何があるのか/生がこれほどまでに破壊されるとは。/母は母なるものを失いつつ/剥き出しの姿で戦っている〉と始まる「休息」を読みながら思い出したのは、いささか私的な述懐になるが、私がまだ学生の頃、初期の痴呆の症状が現れ、クラス担任から外れた父のことだった。良き理解者の同僚たちに恵まれ、なんとか教科担任は続けることが出来たのだが、定期テストの問題が作成できない。突然、ワープロが壊れた、と言い出した手元をのぞき込むと、文章が重複し、単語が前後し、支離滅裂になっているのだった。このまま、父は〝壊れて″しまうのか、〝父″ではなくなってしまうのか・・・衝撃だった。結局、テスト問題の作成は、父の言いたいことを聞き取りながら私が作成した。言いたいことはあるのに、それが繋がっていかない、そのように父は〝壊れて″いった。ほどなく癌が全身に散らばり、歩けなくなり、言葉を失い・・・64で旅立っていった。息子はその時、生後9か月だった。

 その時の思いを、詩に書こうと思いながら、未だに書けずにいる。冬の裸木の林、その枝々に小さな額絵や写真が、時系列もバラバラに、まばらにかかっていて、それが枝から落ちそうになっている景を言葉に写し取って見たものの、書けば書くほど遠ざかって行く。私以外の、誰が書くのだ、という思いと、書けない、書く必要があるのか、という思いがせめぎあう。「休息」の終行〈「伏せしまま空に腕あげグー握りがんばるんだぞと我に告げにき」/弟が作った短歌だ。/兄は、母のことを詩に書こうとしてまとまらない、/……まとまらないと書いている自分が恥ずかしくなる。〉に想いが重なる。

 〈ことばにならないものを何とかしてことばにするのが詩だとすると〉この、「空と園」の一節は、私が考える「詩」そのものだ。わたし、が、生まれて来た時空を考える。想いによってつながっているもの、知識や経験によってつながっているもの、それらを〈何とかして〉ことばにしようとするとき、どうにかして〝その外″に出なくてはいけない。その、少し浮遊するような地点から、わたし、の居る場所を眺めた時・・・何か、大きなやわらかな、ゼリー状の流れ、のようなものが、見えるのではなかろうか。その流れの中で、わたし、は、決して一人ではない、その流れの中で揉まれているとしても・・・そんなことを、ぼんやりと考える。

 

 exterior も、通常の用語法なら、庭やご近所の景色、家族以外の人々との出会い、といった項目に当たるのかもしれない。でも、「午後」や「徒然草」、「薔薇のつぼみ」や「地下鉄の駅で、ツェランを読みながら」などの作品は、〝外″から得られる知識が出発点であるとしても、それがいったん、作者の中で内面化されて、そこから思いや想いを発出する土壌に馴染んだ地点から語り出されている。知的体験がやってくる場所、その出所がexteriorなのだ、という気がする。「愛里のために」は、事実であるかどうかは分からないが、DVを耐える少女への共感から生まれた詩のように私には思われた。〈愛されるためには/嘘を言うしかないが/それは、本当は、ほんとうの/ほんとうでもある〉と重ねていくとき、私たちの誰もが、多かれ少なかれ感じていること、でもあるように思う。

 「ソウルの空」は文字通りのexteriorであるのかもしれないが、その場に立ち、そこに生きる人と肩を並べて話を聞く、という体験が、〝あなたたち″の事柄を、〈私(たち)〉の事柄として作者に刻み付けた、ということなのだろうと思う。

 

 dialogeの章は、「冬の道」の〈父たちの耳をやさしく噛み裂くために〉に滲む静かな怒り、〈どう償えばいいのか〉という・・・ストレートにつぶやく他にないやるせない思いが、〝あなたたち″の事柄を、〈私(たち)〉の事柄としてとらえる対話の中から生まれて来たということを考えさせられた。「倖せな結末」の〈それから長い時をかけ、おまえをのみ込む〉〈きしむベッドに散乱する声の破片〉といったフレーズには、辺野古への思いも重ねられているのだと思うが、そこから少し離れて、愛の持つ暴力的な側面といったどうしようもない切なさも、そこに込められている気がしてならない。

 

 「野戦歌仙」・・・ぎっしり詰まった詩集、という総体の印象は、この章から出てくるのかもしれない。時には、作者にしか知り得ない仄めかし的な表現もありながら、むしろ直接性を持った言葉からなる章だという印象を持つ。そこから作者が思考や思想、詩想を汲み上げる、素の土壌のようなもの。日常生活において、感銘を受けたり、感慨を得たりする、そうした心の水面を一瞬、波立たせる風が吹いたり、鳥が飛び込んだり、あめんぼうが水輪を作ったりする、そうした波立ちを、言葉ですくい取っていった、そんな感覚を抱いた。あちこちにハッとする気付きのようなフレーズがあり、付箋をたくさん付けながら読んだが、この付箋の位置も、読むときのタイミングや心理状態によって異なっていく、そんな予感もあるので、それを一つひとつ、抜き出すことはしない。どこか、ざくざくと粗い、掘り出したままそこに置かれているもの、といった印象も持ちつつ、やっぱり、ぎっしり詰まっている、という重みを感じる。

 野太い、存在感のある詩集である。

エキサイトブログ2019年12月21日に掲載したものを転載しました。)