詩の中庭

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鹿又夏実詩集『点のないハハ』(2022.10.25書誌侃侃房)感想

 詩集題名に〈ハハ〉が入っているが、いわゆる母もの、あるいは母と子の葛藤を主題にした私小説風詩集・・・ではない。象徴化されたハハ・・・母から(乳房の象形とも言われる)〈ヽヽ〉を抜き去られた〈ハハ〉は、そもそも語り手の内にあった母、記憶の中の母であり、母とは何か、という自問自答の先にある観念的な母であり、自分の肉体を生み出すものとしての生身の母である・・・以上に、己の精神、意識を生み出す自我の母体としての母、でもある。

 表題作に続いて「うつわ」という詩が置かれているが、生身の人間が母というペルソナを身に着けた折に自ずから引き寄せてしまう社会的通念としての〈母〉や、作者自身の母子関係を基底とした個人的な〈母〉の“かたち”、“あり方”といったものへの反省が見て取れる。母を拾う、という印象的な“行為”は、社会人となり母と子という関係から離れて人間同士として相対することができるようになった語り手が、母たるものを客観視するようになったことを実感させる表現だ。

 巻頭に置かれた「よろこび」や「雨の言霊」に現れる〈僕〉と〈妹〉あるいは〈イモウト〉。多様に読むことができるだろうが、私は詩を綴る主体、自我の主体としての〈僕〉と、肉体を持ち、実際に日常生活を生きている語り手自身を〈イモウト〉として読んだ。生身の自身からあえて離れること。詩を生み出していく過程で、語り手は〈母〉をもまた、そのように客観化し得たのだと思う。そのようにして外在化された〈母〉が、再び詩の書き手である〈僕〉を生み出す存在として内在化され、内にあるものとして捉え直される、そうした精神の営みが感じられる。〈僕〉の設定が奏功しているといえるだろう。

 そうした〈母〉たるものの客観化は、作者の心身に傷を生じさせることもあったろうし、日常生活のストレスが傷となって積もっていくこともあるだろう、その傷を見つめること、そこから回復していく自身を見つめることもまた、この詩集のひとつのテーマとなっている(「いたみ」など)。我と我が身を一度、葬ったかのような「記憶の影」。他者の苦悩や淋しさを汲み上げていくようでいて、自分自身をつかみ取り、保存するような「新子安の冷蔵庫」。他者の声と共に、自分自身の声をも聴き取ること・・・それを一つの創作の要として見出したような「水底」は、オーソドックスな表現ながら、特に優れた作品だと感じた。母、のイメージから広げて母音へと至り、人と人の関係から土地の関係、歴史的時空の関係へと想像を膨らませた「沖縄慕音」も、視野を広げる一篇として楽しく読んだ。

 記憶や体験の客観化、反省、回復、そして“声”の聴き取り、創作という道が光って見える詩集だと思う。

点のないハハ

点のないハハ

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