詩の中庭

日々の読書、詩集や詩書の書評、覚書など。

『おだやかな洪水』加藤思何理詩集(土曜美術社出版販売2021.9.17)感想

   少し縦長の判型、モノクロームの銅版画風の装画を辛子色の幾何学模様で縁取ったモダンなデザイン。透き通った青い鉱物をコラージュしたカバー装画が印象に残る。2010年の『孵化せよ、光』から数えて本作で8冊目となる加藤の詩集はすべて長島弘幸がデザインしており、カバーをめくった本体とのコラボレーション、横組みや幾何学的図像なども用いた本文組と合わせて、詩集を一つの総合美術ととらえる両者の意気込みが感じられる。判型は変えずに一冊ごとに多彩なヴァリエーションを施すという制作スタイルは、一人の作家の作品でありながら叢書としての書籍群を作り出しているかのようだ。

 

f:id:poetess21:20211224000613j:plain

本体表紙と見返し

 

 本文はいわゆる散文詩形式だが、断章を集積、構成した小説を読んでいる感覚に近い。〝物語〟は語り手自身の日常=現在を反映したと思しきストーリーと、語り手の過去の記憶や夢の世界を〝実在化〟させたストーリーを交錯させながら進行する。さらに作中人物としての語り手よりも作者自身に近い語り手=書き手に対するインタビュー形式の問答や、蜜蜂の繁殖と営巣に少年少女のエロティックな幻想を隠喩として重ねた幻想掌編小説が差し挟まれる。

 このように記すと大変に複雑な構造を持った物語群のように思われるかもしれないが、語り手=〈ぼく〉の日常=現在は複数のエピソードが時系列に沿って同時並行的に進行していく素直な展開なので、読み進めるうちに次第に全体像が立ち上がってくる。この詩集が作り出す詩的世界の骨格、柱の部分を、これらのエピソードが形作っているといえるだろう。

 反対に、間に挟まれる夢想的情景は現実に流れている時間軸からは自由に設定されている。幼少期の思い出や就寝時の夢、白昼夢的な幻想をベースにした物語群は五感で実際に触れているような生々しさで語られていて、鮮やかなリアリティーを有している。〈ぼく〉の日常=現在のエピソードが骨格となって支え形作っている詩的空間があり、その間を埋めていく肉質部を語り手の〈ぼく〉の過去の物語や非現実世界への夢想の軌跡が充たしている、と言えばいいだろうか。

 

 もう少し具体的に内容を見ていこう。日常を反映したストーリーは、〈ぼく〉の親友の咽頭がん放射線治療、見舞いに訪れる〈ぼく〉や親友の元恋人とのエピソード、実家に父の介護のために帰省した妻、妻が不在の〈ぼく〉の日常や旅先でのエピソード、ガールフレンドとの関係などの複数のエピソードが時系列に沿って並列的に進行していく。

 語り手の〈ぼく〉は、ミッション系の幼稚園に通い、少年時は瀟洒な洋館で育ち、長じては洒落た輸入食材を扱う商社に勤務している(いた)らしい。叔母から湖の色をしたポルシェを贈られるというような〝ええとこのぼんぼん〟がそのまま大人になったような人物で、そろそろ初老と呼ばれる年齢に差し掛かっている。日常的に上質の時計や旅行鞄を常用し、〈アードベッグタンカレイ〉といった洋酒を嗜み、〈乳清を使ったオクローシュカと、リンゴンベリイのジャムをたっぷり塗ったライ麦パンの朝食〉を取ったりする――このあたりは、まるで海外小説を読んでいるような感覚もある。

 日常的な言語の用法を決して逸脱することのない明快な語りは実に読みやすい。新幹線の「のぞみ」が「ねがい」に置き換えられていたりするが、それもまた現実の世界にイメージの世界を重ねる効果を生んでいる。札幌や神戸、長崎など実際の地名が登場するときに、語り手自身が現実の街であると同時に想像上の街でもある、と本文の中で〝解説〟するのも面白い――読者に対して、実に丁寧なのだ(読者に文体の読み解きで意識的に時間を取らせたり、通常使用と異なる言語の〝独自の意味付け〟の解読などを強いたりすることがない、言いかえれば、表現技法や修辞に気を取られることなく、作者の作り出す作品世界に触れることができる。)

 物語られている『おだやかな洪水』そのものが記されていると思しき〈ノォトブック〉のことや、加藤の過去の詩集を思わせる書影が本作の中に登場したりもする――登場人物が語る物語の層、その登場人物について語る書き手の層、その書き手を評する視点からの層、物として現れた詩集を物語世界の中に置き直す層というように、透明になったり不透明になったりしながら幾層もの語りの層で出来上がっている物語ということもできるかもしれない。

 

 差し挟まれる幻想掌編的断章は、透明感のある鉱物のイメージや思春期の少年の夢想のようなエロティックなイメージ、あるいは生き物や森、樹液、水といった無意識から湧出するようなイメージがふんだんに盛り込まれていて、美しくまた妖しい物語群となっている。この〝幻想小説〟部分は〝現実小説〟部分と同様、読みやすい平易な言葉で記されている。いわば、非現実的というより超現実的――肉体が在る現実を想像力や精神力を駆使して捉え直した上で表現し直した――物語なのだ。また、混在する〝幻想小説〟と〝現実小説〟の両者が、sequenceとして連続したナンバリングを施されている。現実も幻想も、ひとつの物語ラインの延長線上、同一平面状にある、と言えばよいだろうか。

 この〝本文〟とは別個にinterlude(幕間)としてアルファベットを付し、活字もゴチックに替えた「インタヴュウ」シリーズと「蜜蜂」シリーズが挿入されている。「インタヴュウ」部分は極めて明快に詩論的な意図を語る。一方、「蜜蜂」シリーズは意図的に暗喩的詩語を盛り込み、安易に読み解かせない物語となっている。

 このようにして現れてくる現実の時空間によって立ち上げられた物語空間と、その中を生きる語り手が縦横に夢想を駆使して作り出していくイメージの集積は、宇宙空間とそこに浮かぶ銀河や星雲の姿に似ているかもしれない。詩集の冒頭部に置かれた「星」という断章は、流星を〝咽喉〟の奥に飲み込んでしまった少年が長じて詩人となった、という神話的な物語なのだが、この詩人が語る物語として『おだやかな洪水』を読むと、なおさらこの宇宙的なイメージが強まってくる。町や駅の名前が彗星や三日月など恒星や惑星の名にずらされていたりするのも響いているだろう。

 咽喉は発話の根源に関わる器官なのだが、語り手の〈親友〉の病巣もまた、この咽喉である。親友の治療に用いられる薬は、チャンドラセカールと呼ばれている(白色矮星の質量に上限があることを見出し、恒星の終焉を予測したりブラックホールを予言したりしたという、宇宙物理学者の名であるらしい。ちなみに、吐き気を抑える薬はルバーイーだという!そういえばルバイヤートは、英訳経由で日本に紹介されたのだった・・・)この〈親友〉の治療は、実際に作者が経験したのか、身近な知人の体験を取材したのかと思う程生々しい。〈ぼく〉の〈親友〉は〈色のくすんだウィングチェアに深く沈みこんで、コイーバの葉巻を喫い、ラフロイグを飲みながら、イギリスの古いミステリィを読みかえしていた〉りする人物。〈ことごとくと言ってよいほど意見や観点が〉異なるがゆえに、〈多種多様なテーマについて何度も議論を〉重ねてきたという文字通りの親友で、〈純粋なものから煩瑣なものまで、すべてを抱え込み吞みこんだ森〉のような人物でもある。ここまで具体的に造形されているので、実際の友人とその身の上に起こった出来事の叙述であると読むのが自然かもしれないが、先にも書いたように〈ぼく〉の〈咽喉〉の奥の〈星〉に関わる出来事が、全体の基調低音となっている詩集だ。この親友の存在自体が虚構(=虚構の形を取って描き出した、もう一人の自分自身)であるのかもしれない、とも思う。

 詩集の構造についてばかり書いてしまったが、作者自身の現実に即した小説的な部分と、自由な連想や夢想を羽ばたかせる幻想小説部分、それぞれが充実した断章となっていて、一篇一篇を読み進めるのが楽しい。複数の断章が具体的な人物造形と豊かなイメージの創出につながっていく、その展開も魅力的だ。この構成は、詩集の中で〝インタヴュウ〟された〈ぼく〉が語る、〈世界と相似をなすような書物を著したい。言いかえれば、そのページを捲ると、世界の美と渾沌が同時に透けて見えるような本〉〈限りなく透明で純一な、たとえば結晶体のごとき完璧な構造を持つものももちろん美しいけれど、複雑で多種多様、しかも矛盾や誤謬に満ちた存在も実に魅惑的です。そしてそのいずれもが、世界の真の姿なんです〉という言葉によって裏書されているともいえる。

 

 この詩集に表れるモチーフが、詩集の刊行を重ねるにつれて加藤によって独自に肉付けされた意味の層を増していることにも注目したい。

 この詩集は〈生まれた途端に消え失せた神がいた〉と神話的に語り出される。〈その神が去ったあと、刺激的で濃密な樹液の匂いがあたりに漂っていた〉――樹液はもう一つの現実世界を立ち上げる〝精〟の領域、すなわち無意識に結びついた本能的情動を呼び覚ますキーワードだ。蜜、水、少女・・・これまでに刊行された詩集題名を並べてみよう。『孵化せよ、光』『すべての詩人は水夫である』『奇跡という名の蜜』『水びたしの夢』『真夏の夜の樹液の滴り』『川を遡るすべての鮭に』『花あるいは骨』・・・加藤のもう一つの現実世界を立ち上げるキーワードとそのイメージが、詩集をまたぎ、あるいは詩集と詩集との間を充たすような形で詩的空間を形成している。この詩的空間は、加藤の実人生における時間とも呼応しているだろう。詩集の制作と人生の経過、相互が大きな空間の中に配置され浮遊しつつ、加藤の詩的世界を生成させているのである。