詩の中庭

日々の読書、詩集や詩書の書評、覚書など。

「女性詩」成立の過程と周辺

〈私〉の物語をこそ――女性が女性の詩を読むということ

             (初出『詩と思想』2016年8月号 2020年3月加筆修正)

 「男女雇用機会均等法」の前段となる「勤労婦人福祉法」が制定されたのは、1972年。それから約半世紀後の2016年4月、今なお続く格差を是正するため、「女性活躍推進法」が施行された(1)。男女ともに既成の役割にとらわれない多様性を認め合う社会の早期実現を切に願う。

 〝現代詩〟の世界を見渡した時、この〝希望〟は既に実現されつつあるように見える。しかし今の状況に到るまでには、「女流詩人の詩」「女性詩」「いわゆる女性詩」「女性性の詩」と目まぐるしく“呼ばれ方”を変えながら(あるいは変えさせながら)、様々な抑圧や課題を克服してきた先達の奮闘があり、実作による説得力によって男性の意識を変革してきた歴史があるという事を忘れてはならないだろう。八〇年代「女性詩」の登場に到るまでの経緯とその後の展開を概観し、未来の詩の向かうべき方向を展望してみたい。

 

 《現代詩戦後六〇年年表》(2)を見ると、1945年の10月には《新潮》や《文芸春秋》などが復刊、翌月《鵬(FOU)》、12月には《爐》が創刊。翌年は《純粋詩》《新詩派》《コスモス》など、二十三もの詩誌が続々と創刊されている。この中に、詩誌《女性詩》の名が見える。

 《女性詩》創刊時のアンケートに対する男性詩人の回答が興味深い(3)

 〈私は感情の一時的衝撃による声帯や皮膚の詩が再び女性たちによつて作られることを望まない……詩が貴女たちの人生を通してその性格の宿命的なものとなるまで、永く執拗な執着を持続して頂き度いと思ひます〉(村野四郎)

 〈新しい女性詩は『女性らしい詩』なぞといふ言葉で甘やかされてはならない……女性は男性にくらべて神経が繊細で愛情が博愛的で観察が意地悪く出来てゐるからよい詩が作り易い筈である〉(近藤東)

〈女の詩人はこれからいい詩を書くことが出来るやうになるでせう……女の人は女の人の言葉で、そして女性特有の感じ方を正確に捉えれば『源氏』のやうな独自な作品も生まれるでせう〉(北園克衛

 このような激励を受けて、女性詩人たちは47年に「日本女詩人会」を創立させ、53年には『女性詩選集』を出し、54年の9月、アンソロジー『星宴』の刊行に到る。刊行5日後には早くも再版。期待の大きさがうかがい知れる。その中の一つの傾向に注目したい。

 

飛ぶ鳥を

一つの小石で落すのが

私の恋人はうまかった

でもおきき

あまい風に毒を盛ったことなんか

一度だってない

 

跳ねる魚を

ぐさりと刺すのが

私の恋人はうまかった

でもおきき

美しい海を辱めたことなんか

一度だってない                  (茨木のり子土人の証言」)

 

地球を反れる

西風(ゼフィール)のたより

 

赤い玉子にも

当てるガイガー・カウンター

 

もはや魚の形の

描けない指                (深尾須磨子「復活祭(一九五四)」)

 

1954年3月、第五福竜丸ビキニ環礁被爆している。悲惨さへの共感もさることながら、鮪など海産物の汚染は台所を預かる女性たちにとって切実な問題だった。53篇の寄稿作品のうち、直接水爆や放射能に触れた作品が7点。暗示的にうたうものを含めると、約2割の作品がこの事件に触れている。時局便乗的な反水爆スローガンのような生硬なものもあるが(現代詩人会が全国に公募した反原水爆詩のアンソロジー死の灰詩集』が同年10月に刊行されている)、〈小鳥らも放射能雨に翼を濡らして/暗い空を 飛びまどう〉(小山銀子「一九五四年の悲劇」)〈今日からは/私の のどは/人のことばを失いました/私ののどには/ふる里の/鳥や魚の片ことが刺さったまま/ひりひりと生きています〉(港野喜代子「故郷の使者」)などの作品からは、傷つけられた自然の代弁者たろうとする女性詩人たちの意欲が伝わってくる。

 戦後の〝男性詩〟が、多かれ少なかれ戦争の影を引いており、過去からの、あるいは絶望からの出発という傾向を持つのに対して、『星宴』に寄せられた女性たちの詩は過去ではなく今、あるいは未来の問題を、切実に率直に歌うものが多い。永瀬清子が『星宴』に寄せた詩は、〈私は一本の鎌/この野に燃えたっているものを刈るのは/私がこの世に抱いている/すべての情熱と憤りをしづめるためだ〉と始まる。白いブラウスの腕をまくり、〈わたしの国は戦争で負けた/そんな馬鹿なことってあるものか〉と〈卑屈な町をのし歩いた〉茨木のり子のように、絶望よりも怒りを伴う前進のエネルギーに満ちている(4)

 女性性の無意識的発現といわれる海や川、水のイメージも頻出する。

 滝口雅子の「歴史」は、海へと流れ入る川に自らの生と性の〝歴史〟を託しつつ、上質の官能をうたっている。〈岩にぶつかって のけぞって……しるされた傷の重たさだけが水底に沈む……幾度かその面にやさしい愛が燃え/落葉と共に流れた女のからだの思出……ばくはつする濃さで しびれる夢の短かさで……流れつづけることで海への遠い/ひそかな支度をする〉

 内山登美子の「愛」は、〈夜の翳りのような黒い愛〉をドラマチックに歌い上げる。〈女はしなやかな二つの腕をのばし/冷たく光る海のうろこを招びよせる/非情な刻の流れは/男と女を埋める落差にのたうち/密(ママ)をためた唇が/いま黒い海岸線を二つに割る〉

 編者の一人、一柳喜久子の詩は、妊もった鱒が艱難辛苦をものともせず、〈未来とは かくも遠く源にあるのか〉とため息をつきながらも〈鱒の緋血をうみつける/力泳の湖〉を目指して泳ぎ登るという力強さに溢れている。女性たちの活躍の場を、という熱い滾りが生んだ詩だろう。だが、想いの強さに比して、女性の詩の認知はなかなか進まなかった。

 〈女性詩人だけの集団というようなものにも、今日では全般には首肯できませんが、それが必然とされるところに、プロセスとしてもなお多くの理由があると思います……わけても、困難な実験を重ねて詩の新領土に邁進し、成果をあげている若い女性詩人達の態度に激励されつつ、その進路が無限に開かれるよう念願してペンをおきます。〉という深尾須磨子による『星宴』序の一節に、〈あのころは、私の場合、どこに投稿しても自分の場所がないという感じがありました。……女ばかりが集まるということに違和感もありました。だけど現実の場所として女の人がどんどん漏れてしまう。どこにも引っかからない。そういうもがきがあって、だからいびつだけれども、そこを掬ってくれる、詩の世界の底に網をかけるような感じで「ラ・メール」は機能していたと思うんです〉という小池昌代の所感を重ねてみる(5)。《ラ・メール》の創刊は83年。創刊号の編集後記には、〈発表と同時に各方面から予想外の関心を寄せられ、行く先々で創刊号はいつ出るのかと期待にみちた質問を受けた〉(新川和江)〈会員名簿が予想外の速度でふくれ上るにつれ、嬉しさと同時に緊張がつのる。こんなに多くの方たちから、われわれは〝未来〟の一部を預けられたのだ〉(吉原幸子)と記されている。30年前に一柳が〈かくも遠く〉と慨嘆した〝未来〟が、女性たち自らの手により、ようやく目前に拓かれようとしていた。

 

 《ラ・メール》創刊までに、社会にどのような変化が起きていたのか。1951年9月に結ばれたサンフランシスコ講和条約から83年までの間の社会状況を概観しておこう(6)

 〝朝鮮特需〟の追い風と共に、先人たちの血のにじむような努力によって成し遂げられた日本の戦後復興は、50年代半ばから70年代初頭までの高度経済成長をもたらした。50年代後半から60年代にかけての「家電」の普及は一般主婦層の家事の重圧を軽減し、社会進出を促すと共に、学ぶ意欲、表現する欲求も呼び覚ましていった。

 高田敏子が朝日新聞の家庭欄に「月曜日の詩」を連載し始めたのは、ちょうどこの頃のことだった。編集担当者から〈ほんとうの詩を書きたいでしょうが、当分はこのようなやさしい、お母さんたちにも分かる詩を書いてください〉と依頼されたという(7)。当時の連載詩をまとめた『月曜日の詩集』1962はベストセラーとなる。やがて高田は共感する女性たちのために、詩誌《野火》を創刊(1966~1989)。常時八百名もの会員を数えた。当時の高田の詩を一篇挙げたい。

 

花のつぼみの開くところがみたいと思っていた

小鳥がたまごからかえるところを

蝶がはじめてはばたくところを

 

そんな幼い願いを

いまも持ちつづける私の視線の中で

いま一りんのばらの花が

静かにくずれ落ちてゆく

いくにちかむきあい親しんだ花の

いのちの終り

ほどけ くずれ 散る姿を見ている

 

家族のもの眠る 夜のしじまに       (高田敏子「つめたい夜」『藤』1967)

 

 60年安保から70年安保のいわゆる「政治の時代」は、戦争を〝正義〟と信じた世代、成す術なく〝やり過ごした〟世代と、直接的に心身共にダメージを受けた世代、戦争を直接体験していないとしても親族などに生々しい記憶が残る世代の思想的な位相の差異が顕在化した時代ではなかったか。思春期、青年期の知的、身体的経験の差異を基盤として、自らの生き方、政治の在り方、日本の未来そのものへの思弁と共に烈しく自己を問い詰めていった先に現れる、激しい議論や批判の中から生み出された50年代〝戦後詩〟に続く60年代、70年代詩の時代。当時の〝前衛詩〟は、あらゆる既成概念を言語で覆そうとするかのような先鋭性を強めていた。その一方で、日常生活を深く見つめ、その底から浮上する普遍をとらえようとする作詩姿勢もまた、特に女性詩人たちを中心に堅持されていたといえる。

 男性詩人(前衛詩人)たちが烈しく時代と切り結んでいた頃に刊行された石垣りん『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』1959と白石かずこ『虎の遊戯』1960は実に対照的だ。〝書く〟ことで生の一端を刻んでいった石垣と、〝声〟に発することで新たな文体を獲得していった白石。白石かずこが「女性」や「婦人」の枠、いや、文学そのものの既成概念を突破しようとしていた頃、石垣りんは生計においても家事においても担い手であることを受容しつつ、逃げずに…むしろ諷刺やユーモアの力で書き手としての〝私〟の位置を保ちながら、赤裸々に家族を、家庭を見つめていた。

 石垣は働く女性として暮らしを見つめ、そこから社会をとらえようとした。高田は、妻として、母としての暮らしを詩においても実践しながらも、社会的役割に従属しない一人の人間として立つために必要なひとときの自由を、詩の言葉に書き留めていく。それは、社会が求める〝婦人〟の役割を果たしつつ自らの表現を探ろうとする困難な道でもあった。

 アメリカのビート・ジェネレーション(8)の影響を色濃く受けた白石かずこの『虎の遊戯』や『今晩は荒模様』1965等は、まさに〝家庭〟と対極にある。まるでメイ・ポールや御柱(おんばしら)のようにコスモス(花野のイメージと宇宙(コスモス)のイメージが重なる)の中に直立する男根(ファルス)の放つ祝祭性(「男根」)、アウトサイダー的男女の生活を弾むようなリズムで歌いながら、父性/母性といった根源的なものを問う思想性(「父性 あるいは 猿物語」)は、今読み返すと生々しい肉体性からはむしろ遠く、舞台をニューヨークの下町に設定した神話劇のような性格すら帯びている。白石の詩から、胎児が語るかのような「あっちの岸」の一節を引く。〈まだ人にならないぼくは/母の子宮の宿で 混沌と生命を創る作業をしているのだ/この母でさえよく知らない やわらかな/血のドームの内部は/外の世界より明るく 潮の満ちた宇宙だ……夜の闇の深みの中で/父はあるけどみえない目で/あるけど ふれえない母の心に/手さぐりで にじりよっていくのだ……ぼく まだ/誕生すらしたことない ぼく/子宮のせまいノドより いきなり死に/下水管を流れる汚水のように/永遠に名づけられることなく/罪をおかすことすらなく/光と空気の甘さを知らず/いくのだ//いきなり あっちの岸に/年へた死者たちの霊魂の森へと〉

 白石の詩からは、〝婦人〟の枠内に押し込められて葛藤したり、その壁を突破しようというような破壊衝動が感じられないことも大きな特徴だろう。最初から〝枠〟の外にいるのだ。白石が突破しようとしているのは文学の既成概念であって、そこには男女の差はそもそも存在していない。

 〝家庭婦人〟の親しむ詩は、生活に彩を添えたり、人生をより深くとらえる、自然を新しい視点で感受する、など、教養として俳句をたしなんだり、稽古事として和歌を学んだりする文化と通底している。精神的に充実した生活のために、このような「趣味」や「教養」としての詩の世界は、男女を問わず今後とも大いに拡大されるべきだと思う。一般主婦層の間に詩を愛好する土壌を提供し続けた高田の功績も、今一度検証されねばならないだろう。しかし同時に、〝婦人〟にはその範囲の自己表現しか許されないのか。あるいは〝婦人〟であることの外部においてしか、それは成し得ないのか、という疑問が生じるのも否めない。

 〈……わたしを名付けないで/娘という名 妻という名/重々しい母という名でしつらえた座に/坐りきりにさせないでください/わたしは風/りんごの木と/泉のありかを知っている風……わたしは終りのない文章/川と同じに/はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩〉(新川和江「わたしを束ねないで」《地球》42号1966)

 〝婦人〟の枠の内か外か、という立ち位置とは関わりなく、さらには性差にも関わりなく、自由な自己表現をするために必要な基盤は、まず何よりも〝個〟の確立である。わたし、とは何か。どのように生きたいのか、〝女性〟とは、何か……。高度経済成長期の日本を生きながら、女たちは、自分たちの在り方を自ら問い始めたのだった。

 心理学者の波多野完治によって生涯教育の理念が紹介され、(『生涯教育論』小学館1972)カルチャーセンターが続々と開講していくのもこの頃である(9)。「女性学」の理念が移入されたことも、女性たちの模索を後押しすることになった(10)

 その当時の女性の状況を、高良留美子は次のように端的に表明している。〈日本の女性は、これまであまりにも自分を意識することを、世間や社会通念の側に委ねてきた。それらによって「名づけられた」自分、「見られ、期待された」自分に同化することに満足してきた……ほんとうの自分、自分らしい自分などはとうの昔にどこかへ失ってきてしまっていた……それらの規範は、子どもを産むことができるという女の「自然」に依拠してはいるかもしれないが、女の「自由」に依拠してはいない。そしてその「自然」もまた、ほんとうの人間的な自然ではなく、他の活動や可能性から切りはなされた抽象的な自然に過ぎないのだ〉(11)

 男性(とりわけ青年層)が60年代、70年代に激しく改革を希求し、新しい生き方を求めつつ挫折していく一方、経済は順調に発展を遂げ、理念よりも利益、精神よりも物質が求められる時代になろうとしていた。職業婦人、家庭婦人の〝新しい生き方〟〝新しい価値観〟を求める流れが一気に加速し、旧来の枠組みを突き破ろうとするとき(12)、〝女であること〟を極端に突き詰めていく勢いが強まるのも自然な成り行きだったのかもしれない。

 80年代はいわゆるポストモダンの時代である(13)。(リオタール『ポストモダンの条件』1979年など。)世の中は消費推奨、明るい現世肯定の色彩が強まっていく。

 政治思想的な面についてみるならば、53年のスターリンの死以降も続いたスターリニズムも、やがて経済的混迷や強権政治などの政治的諸問題を露わにし、日本の左派イデオロギーにも懐疑がもたらされていった。思想的な潔癖さや純粋性の追求は、運動方針の衝突や党派的内紛の悲惨な隘路へと青年たちを追い込んでいく。1972年の「あさま山荘事件」は、その象徴となる事件だったろう。現状打開や抵抗の担い手としての左派への期待が失墜すると共に、学生運動は終焉を迎える。

 当時の前衛的男性詩人たちが、80年代半ば以降のバブル景気を先取りするかのように「ポップ」な時代性を詩において(作者の自己表現としてよりも、時代の肖像として)描き出していくのは、政治的抑圧(イデオロギッシュな立場表明を強いられるストレス)から解放されたゆえであったろうか。その分、言葉は浮力を増し、軽妙、饒舌に流出していく。それもまた、時代の肖像であったのかもしれない(14)。それに対して、女性はまだ、抑圧解放というエネルギーを(残念ながら)有していた時代だった。

 吉田文憲が〈八〇年代の伊藤さんたちの詩からは、なまなましい身体性が、それを男たちに対して挑発的に戦闘的に押し出すようなところが強く感じられた〉(15)と振り返るように、当時の「女性詩」には、〝女性特有のなにか〟を男性に叩きつけるような気迫がこもっていた。たとえば、伊藤比呂美の「きっと便器なんだろう」は、性を描きながらも、快感や官能の謳歌とは全く逆の即物的な描写を連ねつつ、〈あいしてなくたってできる、といったよね/このじょうのふかいこういを〉と、悲憤とも諦念ともつかぬ言葉を男に突きつける。女は〈体重と体温がわたしのしりを動き/畳の跡をむねに/きざみながらわたしはずっとIを/わすれていたIを忽然とIを〉想い出し、別の男との行為の間中想い続けている。(Iはかつての恋人の頭文字を装いつつ、私(アイ)/愛と同音でもある。)そして、〈あたしは便器か/いつから〉とつぶやくのだ。男の欲望の排泄の場所、としての便器。冷徹な自己批判もそこには含まれている。

 あるいは、『テリトリー論2』の「蠕動」や「霰がやんでも」。古今の文体、という時間の枠を飛び越え、文学の言葉と実用の言葉、卑語や詩語といった領域の枠を踏み越えて、うねるように増殖していく言葉の流れに圧倒されつつ――「大便みたいに」赤ん坊を産む、という率直さに心底納得してしまう。大きさや〝価値〟は月とスッポンだが、出産を体験した者なら、筋肉の使い方や身体の使い方といった最も生理的なレベルで、この言葉が真実であることを体感しているだろう。フェミニズム的には「母性(神話)の解体」などと価値づけられる作品であるが、それは後付けの〝意味〟に過ぎない。伊藤はフェミニズムという枠に取り込まれることすら拒否しているからだ。自己の感性に徹底的に正直である事が生む伊藤のラディカリズムは、既成の「女性」という枠を破壊し、文学における〝自由〟を、最も先鋭的な形で展開して見せたと言えるのではないだろうか。伊藤や井坂洋子らの「挑発」は多くの若者に影響を与えずにはおかなかった(16)

 〈八〇年代の投稿欄はどうか……知にからめとられない感受性全開の詩、あられもない性的描写、生々しい胎児や血やゴミ、家族や幼児期への執着、直喩やリフレインやオノマトペ、物語性、土俗性、差別語、在日の実存主義、生きることの罪悪感、ニューミュージックまがいの恋愛詩……そこからは、資本主義のブルドーザーがめくり続ける地面の、悲しく湿った匂いがする〉(17)

(男女を問わず)多くの投稿者たち、そして女性詩人たちが、時に戦闘的に、時に〈自分の身近にある性を詩のなかに入れてもいいんだ、お行儀悪くてもいいんだっていう〉(18)

 開放感を謳歌しながら生み出していく作品は、概念化されようとする「女性詩」という枠を逸脱し続けた。男性読者(評者)に対する戦闘的(挑発的)な姿勢には、例えば鈴木志郎康が(他者の対象化と、羞恥を踏みつけて他者に至ろうとする現在の性表現の方向性は、観念に基づくのではなく、身体的関係の中での自己否定であるから)〈セックスの表現を行うものは、その意味を自覚して、一層観念的にならなくてはいけないのではないか〉と述べたり、石川逸子が(万葉における性は、心の愛と離れることがないから)〈卑俗でなく、気高さがある〉と記すように男女を問わず疑問の声が投げかけられたが(19)、そうした相互批判や激しく変動していく「女性詩」の実相をとらえ直す場として《ラ・メール》は機能を果たしていく(20)

 〈女性の詩を巡る問題として、女性の文学作品を「権威をもって読み、判定し、分類し、位置づける仕事は、ほとんど男性の批評家や研究者の手に委ねられてきた。そしてその結果、しばしばテクストそのものが充分に解読されないまま、〈女流〉文学として文学という制度の周縁部に置かれてきた〉(21)という歴史がある。先にも述べたように、「女性学」が日本に紹介されたのは70年代初頭だった。ようやく、女性自身が女性とは何か、と問い、社会における立ち位置や状況を分析し、創作活動との関わりにおいて捉えるという環境が整ったのである。それは同時に、「女性」、「私達」という概念から解放されて(あるいは解除されて)、「私」を問う事でもあった(22)

 《ラ・メール》に対して、女性の囲い込みである、という批判もあったようだが、異性の目を意識しないことで、むしろ本来の女性性――押し付けられた既成概念や、男性に対する肩ひじ張った反発ではなく、女性の自然に根差した女性の力――が目覚める、という大きな成果があったと考える。そして、女性の詩の多様性という〝事実〟が、新井豊美『[女性詩]事情』1994、麻生直子編『女性たちの現代詩』2004、水田宗子『モダニズムと〈戦後女性詩〉の展開』2012、たかとう匡子『私の女性詩人ノート』Ⅰ、Ⅱ2014、2017など(その他、多くの詩誌で現在も続いている女性が女性の詩を読む、という意識的な試み)を生む原動力ともなり、女性による批評に照射されてまた新たな詩が生まれる、という能動的な循環をもたらしたのではなかろうか。性差よりも個々人の歴史や価値観の差異が重視されることにより、男女が共に持つ「女性性」という、より根源的なものが露わになってきたのである。

 今さら「女性」というくくりは必要ない、という考え方もあるかもしれないが、日の浅い均衡は危うい。女性が自らの自然の声を聞きながら、女性の作品を読む、という行為は継続されねばならない。女性の視点で男性の詩を読む、という行為の中から、男性が見落としていた新たな発見が生まれるのではないか、という予感も強く抱いている。

 90年代以降、性差を越えた、本来の身体性に焦点があてられるようになった。とりわけ震災後は〝個〟の生存の奥深いところから発せられる生命の声が、強く求められているように思う。身体感覚、五感、あるいは詩的第六感と結びついた、肉体が感じ取る「声」「気配」のようなものを感じる力。対立ではなく共感や共苦、つながることを志向する力。支配ではなく共生、共存。柔軟な許容性。女性や民族という集団ではなく、個としての「私」の歴史を思うこと、物語ること。〈どこにいるかわからないけれども、「あなた」という一人に呼びかけること〉(23)

 具体的に作品を例示するなら(あくまでも一例、であるが)歴史や血脈、土地の息吹を直に感じ取り、そこから発しているような言葉が鮮烈な新井高子『ベットと織機』(2013)、時空を超えた死者たちと交信するような野木京子『明るい日』(2013)、魂だけが訪問することのできるような異界を鮮やかに現前させる草野理恵子『パリンプセスト』(2014)、流れるような語りのリズムの中から過去の「私」がにじみ出ると同時に、想像力の力によってのみ存在するもう一つの町からやって来る、生命力や突破力の象徴のような〝虎〟をリアルに体感させる川口晴美の『Tiger is here』(2015)、主婦の孤独、冷え冷えとした心象を大胆かつ象徴的に描き出した荒川純子『Viva Mother Viva Wife』(Viva Womanではないことに注目したい。2015)などを挙げたい。一冊一冊深く読みこみつつ紹介したい作品ばかりだが、紙幅の都合上、名を挙げるに留めておく(2016年現在)。

 心の目や耳で感受した主観的な〝真実〟を、肉体の感官で習い覚えた伝達可能な言葉で他者に手渡していくことが、今、求められている。仮に男性的/女性的という区分に理性的/感性的、論理的/感情的、という言葉を充てるなら、詩は本来女性的なものだ、ともいえる。男性の中の女性性、女性の中の男性性を目覚めさせることによって、相互に読む力/感じる力を呼び覚まし、新たに書く力へとつなげていくことが出来たら、さらに豊かな詩の地平が拓けていくに相違ない。男女が共に読み合い、相互触発的な批評性を内に秘めた詩が生まれ続けることを願ってやまない。

 追記:2019年、『詩と思想』3月号の新川和江特集座談会で、高良留美子は(現代は)「近代」が壊れてしまった、と発言していた。人間性の尊重、自由や平等の重視といった「明」である近代的価値観と、合理性、機能性、経済性を重視し、多数者が小数者を抑圧するという「暗」を生み出す近代的社会システム。高良は、「明」の価値観が建前に過ぎないことがわかってしまった・・・いわば、「暗」の近代が時代を食い破ってしまったことを「近代が壊れた」と表現していたように思う。マジョリティーが詩を生み出すエネルギーをなくしていて、マイノリティーの方が面白い詩を書いている、という指摘もあった。社会的抑圧を跳ね返そう、突き破ろうとするエネルギーが生み出す詩に期待を抱いているということか。精神的抑圧、社会的抑圧を突き抜けて生まれてくる詩。生きづらさとどう向き合っていくのか、そこに文学はどう向き合うのか、という課題、近代社会システムが産み出した人間の疲弊について、これからも考えていかねばならないと思う。

 

1)2012年度WHOの統計によると、日本の自殺率は世界で9位、〝先進国〟の中ではワースト1。内閣府の「自殺対策白書」によると、日本は男性が2.5倍女性より高いものの、他国に比して女性の比率が高い。男女比で換算すると、日本の女性の自殺率は世界5位、男性は12位となる。

2)深澤忠孝編「現代詩戦後60年年表1945・8~2004」『戦後60年〈詩と批評〉総展望』思潮社2005

3)中村不二夫「戦後詩研究Ⅴ女性詩の主張と展開」『廃墟の詩学』土曜美術社2014より転載

4)「わたしが一番きれいだったとき」より。

5)「性差を越えたゆらぎ 女性の詩、この10年」新井豊美×吉田文憲×小池昌代鼎談《現代詩手帖》11月号2004

6)そもそも、辞書的な意味での「戦後」について考えるならば、日本は「戦後」だったが、世界はそうではなかった。50年朝鮮戦争、55年ベトナム戦争(~75)、61年ベルリンの壁着工・・・40年代末から、ほぼ10年周期で繰り返された中東戦争(第1次~第4次)。75年~90年のレバノン内戦(第5次中東戦争)。

7)久冨純江『母の手 詩人・高田敏子との日々』光芒社2000

8)1950年前後、ニューヨークのアンダーグラウンド社会で生きる、非遵法者の若者たちを総称する語として生まれた。

9)50年代に産経学園、毎日文化センターが既に開講されていたが、朝日(73年)、NHK(79年)、読売(81年)など、70年代以降に盛況を呈している。

10)婦人公論読者詩を関根弘が編集した『詩集 女の机』土曜美術社1973の宣伝文は〈本書は家庭の中に「島流し」されている女たちの絶望の深さから生まれた…女たちを家庭に「島流し」している男たちもまた独占の管理体制から「島流し」されているのである〉だった。

11)高良留美子『高群逸枝ボーヴォワール亜紀書房1976

12)円地文子ら8名の女性が編んだ『近代日本の女性史』シリーズ(集英社1980~)の宣伝文は〈女から女へ、新しい灯は掲げられてきた〉〈73とおりの「女の一生」をおさめました〉

13)先がけて、ロラン・バルトの『作者の死』1967、入沢康夫『詩の構造についての覚え書』1968が刊行されていることも記憶にとどめておきたい。

14)やがて、冷戦構造自体が消滅し(89年ベルリンの壁崩壊、91年ソ連崩壊)、 〝理想〟や〝正義〟といった表面的な善に糊塗された衝突が、経済格差や覇権争いという実相の生々しさを露呈していくことになる。(90~91年湾岸戦争、90~94年のルワンダ内戦、2001年9.11アメリ同時多発テロ、2001年~アフガニスタン紛争etc.)

15)《現代詩手帖》11月号2004

16)「売り出すときは「女」で売り出せるのだ。とくに詩は。女の感性、女の生理、このコトバで男たちはよーいに感動してくれる。でも問題はその後だ。……女の詩を読んでいいなーと思っているのは、まず男だ。それがみんな同じ読み方で読んでいる……くやしい。不満がいっぱいある」伊藤比呂美「みんなひっくるめてA子なのだ」《ラ・メール》創刊号1983

17)河津聖恵「現代詩システム」を食い破るバブル・身体性・大文字の他者――80年代投稿欄再見『パルレシア 震災以後、詩とは何か』思潮社2015

18)「身体性/批評性の行方 前世紀の女性詩人達」新井豊美×井坂洋子×河津聖恵鼎談《現代詩手帖》2月号2002 井坂洋子の発言より引用

19)第二次『詩と思想』10号特集「詩と性」1980

20)〈〈女性詩〉の概念はいつごろから流通するようになったのだろうか。カルチャー・センターなどを通じて、詩を書く女性が多くなり、また、二十代の若い女性詩人たちの活躍が目立つようになった、ここ数年のことだと思う……いまから十年ほど前に……『現代女性詩人叢書』(78巻)の全巻解説を書いた大岡信の文章のなかには、この概念はなかった……これから〈女性詩〉の概念が、女性詩人たちの実際の作品営為とともに、どう熟すのか、廃れるのか……詩における〈おんな性〉とは、それを越えることによって輝くものであり、そこに〈女性詩〉が生まれてしまったら終りではないか〉北川透「〈おんな性〉を読む」《ラ・メール》創刊号1983

21)岩淵弘子・北田幸恵・高良留美子編『フェミニズム批評への招待 近代女性文学を読む』學藝書林1995 高良留美子による「はじめに」より引用

22) 河津聖恵「わたし」から「世界」へ、「世界」から「わたし」へ 九〇年代末、「女性詩」はどうなっているか《現代詩手帖》9月号1999

23) 「ラクダが針の穴を通るとき 3.11後の時代と女性の言葉」シンポジウム誌上採録 パネラー河津聖恵 岡島弘子 中村純《詩と思想》9月号2015