詩の中庭

日々の読書、詩集や詩書の書評、覚書など。

立木勲詩集『ウムル アネ ケグリの十二月』書肆 子午線(2023.2.1)感想

 静かで美しい、強さを持った詩集である。美しい、という印象は、抑制された言葉の選択や呼びかけ、語りかけを基調としたリズム、リフレインや一定のスピード(アンダンテのような)で進んでいく詩行の進行の安定具合などから醸し出される“うた”の印象であり、美しさへと整えていこうとする意志の姿勢がうかがわれることによるだろう。美しさへ整える、という言い方をすると技巧や細工に力を注ぐといった批判的な意味あいにも聞こえるかもしれないが、“美しさ”へと“うた”を整えずにはいられない、そうでなければ耐えられない、そんな切実なものを感じて、しばらく沈黙を強いられる詩集でもあった。

 語り手のイサオと妻のヨンヒという登場人物は、多くの部分を現実の作者とその配偶者とに負っているらしいが、湿っぽい重苦しい私小説に陥ることを免れている。それは語り手が自身の語りから離れて、主人公のイサオからの視点、あるいはイサオと相対する他者の視点から見て歌うこと、語ることが出来ているからだ。その上で、歌うテーマの具体性の度合いが測られ、出来事を語ることよりもその時の気持ちを体感的な比喩でとらえる方向に向かう。

 現実生活の中ではお互いの心を傷つけあうようなことがあったとしても、それは抑制された言葉で暗示されるにとどまり、具体的なエピソードとして説明されることはない。しかし、負の側面や心理的な閉塞感などを隠したり否定したりすることも無い。高村光太郎が智恵子を歌ったとき、光太郎は智恵子の無垢な部分が表に現れるように、見せる部分と隠す部分を意図的に整理していたように思うが、立木の詩集では見せる部分と隠す部分という仕分けではなく、二人の関係が不安定で危ういものであった所から、二人で同じ世界を見よう、という意識に転換していくまでの過程を、まず何よりも語り手自身が見出そうとしていて、そのために言葉を選んでいる。その転換点となるのが、タイトルポエムともなっている「ウムル アネ ケグリの十二月」なのだが、この詩は緩やかな5パートに分割されている詩集の中で、第4パートに置かれている。

 

あわてずに第1パートから読んでいこう。巻頭詩「君は僕の手を握り、僕は黙って強く息を吐く」は、語り手による歌うような呼びかけから始まる。

 

 妻よ 兄と弟の小さな話がここにある

 (今、世界では熱く命が壊され、この国では毎年二万人余りが死を選ぶ)

 兄というのは君に出会う前の僕なのだ

 

*(アステリスク)を挟み、横浜にいる〈俺〉が、田舎にいる弟に聞かされた話が挿入される。弟の友人が、小さなパワーショベルを一人で操縦している時に倒れた車両に挟まれ、三時間もの間苦しみながら〈たったひとり〉で死んでいった。泣きながら話す弟からの電話を、黙ったまま聞くほかなかった語り手は、〈俺、コンピューターに向かって/毎日/プログラムを書いています/プロジェクトが辛い時/誰か死んでくれないものかと/つぶやく人もいるのです〉と続ける。現実の死の重みと、あまりにも軽々しく死が語られる―粗雑に扱われる社会との乖離。(実際に現代の社会では、戦禍や自死で膨大な〈たったひとり〉の死が生まれているのだ。)〈十二月も末です/月は煌々です/俺、さっきから、ひとりで月を見ています〉という“現在形”による語りで弟の友の死の挿話は終わる。しかし、実際にこの話は“声に出して”妻に“語られた”のだろうか。再び*(アステリスク)で区切られた後、語り手と妻が共に歩いているシーンが描かれるが、この二人の会話は噛み合わない。

 

 ふたりで夜の川の土手を歩き 君は言う

「わたしにはホンモノが ないのです」

「ウソを 話しているのです」

「微笑んで いるのです」

 

 暗い空には十二月の月がある

 君は僕の手を握り

 僕は黙って強く息を吐く

 

語り手の妻は、心を病んでいるらしい。わたしにはホンモノがない、そうつぶやく妻に、語り手は返す言葉を持たない。語り手は黙って妻と並んで歩きながら、弟の電話を黙って聞いていた時のことを思い出したのではなかったか。その時のことを、傍らの妻に心の中で語りかけながら、〈黙って〉歩いていたのではなかろうか。〈たったひとり〉を恐れる〈君〉と、〈黙って強く息を吐く〉ことしかできない〈僕〉。〈君〉を決して一人にはしない、という決意か。〈僕〉は一人で死ぬことはない、という意志か。いや、〈ふたりで〉いても、月を見ている〈僕〉は〈たったひとり〉だ、という自覚か。

 同じ第1パートに置かれた「同じ風にそよがれて」も妻への呼びかけから始まるが、明らかに内声である。〈妻よ/涙を固めて種にして/母は僕の奥底に/そっと埋めたのではあるまいか//僕の涙の落ちるのは/ずっと昔に/そんな 種が託されたからではあるまいか〉アステリスクで区切り、語り手がごく幼い頃、自身の記憶なのか聞かされた記憶なのかも定かではない時分に、子猫を母と捨てに行った思い出が語られるのだが・・・〈にゃあにゃあと/鳴くお前を箱に詰め/私はお前を捨てに行く〉〈この小さな家で/なぜなのか/私は毎日泣いている//にゃあにゃあと/寄ってくるお前を箱に詰め/通る人もない橋の上〉幼年期のエピソードと現在が重なり合う。〈子猫の箱は放られたのか/危うくとどめられたのか/その顛末はわからない〉・・・。この詩はアステリスクを挟んで〈妻よ/今 僕らは横浜で/同じ風にそよがれる〉と閉じられる。

 愛おしいものを抱きしめていたい情愛と、いつか手放さねばならなくなるのではないか、という不安が同時に浮上してくる危うさは、特に第2パートにおいて顕著だ。「ヨンヒ(韓国から来た妻)」という連作。〈「ヨンはいつもイサオの味方です」/あなたは言う/「ほんとうですか」/僕は言う/「当たり前の事聞かないでください」/あなたは言って背を向ける//僕はパジャマの中の背をさする//身体がひとつここにある〉心を病む前の妻は、身も心も〈ここに〉あったのだろう。しかし今は、〈身体〉があっても、その心に触れられない。その上でなお、〈イサオ〉は〈ヨン〉と共にあろうとする。〈僕でなければ だれが/ヨンヒを必要としてくれるのだろうか〉〈君の心の名を/だれが呼んでくれているだろうか〉それは“意志”の力だ。けれども、〈僕〉の“気持ち”は?心の奥底の声のように、行を下げて記された〈妻よ/僕は疲れてしまった/もう/袖をつかんだ君を/ひいて歩けない〉という弱音の告白のような詩行も記されている。詩を“創る”という行為によって、ようやく“声”に出すこと、言葉にすることのできた“気もち”。

〈若い時/架け橋になりましょう 僕らふたりは言いました〉しかし今のヨンヒは、仕事から帰宅する〈僕〉にあなたは本当のイサオなのか、と問う。イサオが私をいじめる、と言われた時のどうしようもなさ、そんなイサオはかわいそう、とも言うヨンヒとの暮らしを、〈僕〉は高い土手を〈右にも左にも落ちないように〉歩いている緊張感に喩える。それでは、〈君〉は〈僕〉との暮らしをどう感じているのか。妻は今ここにいる〈僕〉に何を見ているのか。“わからない”まま、〈僕でなければ だれが〉と自らに言い聞かせねばならない孤独。ぽろぽろこぼれ落ちるお握りになぞらえる〈僕〉の心の有り様。

「ヨンヒ(韓国から来た妻)」と「イサオ(金曜日の午後)」からなる第2パートでは、美しい口調やリズムを持った「詩」に整えていくことによってようやく表すことのできた弱さや不安、恐れといった負の感情が、正の意志と共に描かれている。

 第3パートでは、〈「やさしさ」と「正しさ」だけで〉は〈ヒトに〉なれない(人として生きていけない)という“気づき”が現れる(「詩が生まれる街の、アトム」)。「詩」を書くことによって、その“気づき”に語り手は到達したのではないか。〈俺は釣り鐘なのかも知れぬ/男は思う/他人の「いのち」の響きによって、己を知るものではあるまいか/光もなく音もない 闇の満ちる空洞が/俺の「いのち」なのではあるまいか〉(「そして、「いのち」が眠る街」)という“気づき”。この“気づき”は二人の関係を「詩」にすることによって捉え直し、〈僕〉を〈男〉と外から見る視点を獲得することによって得られたものでもあろう。

 そして第4パートに置かれた、詩集題ともなっている「ウムル アネ ケグリの十二月」。ウムル アネ ケグリとは、韓国語で井戸の中の蛙。それは、ヨンヒが自分の感じている世界を具体的なイメージを持つ言葉で表し得た瞬間だった。本当、ウソ、というような、具体的なイメージを持つ「言葉」では“言い表し得ない”ことでも、比喩を用いれば表現することができる・・・それは、我知らずヨンヒが「詩」をつぶやいた瞬間に語り手が立ち会った、ということでもあろう。真っ暗な井戸の底からたったひとりで、小さな青空を見上げている、そんな世界に〈君〉が生きていることを、〈僕〉が朧気に“感じ得た”瞬間。長いこと、身は触れ合っていても心は別々の世界に分かたれていた二人が、ようやく「言葉」によって、お互いの世界を共感し得る可能性を開いたのだ。しかしその時の〈僕〉は、まだ事の重大性に気づいていない。電話の向うで泣く妻に〈ヨンの井戸にカエルは二匹いるのだよ〉、〈一匹はヨンで 一匹は僕なのだよ〉と語りかけながら、〈でも本当は/僕はヨンの井戸にはおりられぬ〉と自覚している。顕在意識では、気休めのウソを口にしている、とさえ思っていたかもしれない。しかし、それまでとらえどころがなく、つかみ得なかった〈君〉の世界を、真っ暗な世界から小さな丸い青空が明るく見えている、そのような世界として具体的にイメージすることが出来るようになった瞬間が、この時だったのではなかろうか。

 

 あの日から

 「ウムル アネ ケグリ」とヨンは言わない

 

 ヨンの「井戸」は深く暗く穿たれている時もあれば

 広く明るくて「井戸」であることを忘れるような

 アフリカ大地溝帯の中のセレンゲティのような

 そういう時もあるらしい

 明るく広い「井戸」の時、ふたりはヒトの姿であって

 膝を抱えて僕はヨンの隣に座っていたりするのかもしれない

 確信の目でヨンが僕の耳たぶを噛むときは

 そういう時であるらしい

 

 あの日から

 「ウムル アネ ケグリ」とヨンは言わない

 

 けれども

 時に

 僕も井戸の中のカエルであって

 そんな時

 眠るヨンにつぶやく事がある

 

 (カエルは二匹でいるのだよ 一匹はヨンで 一匹は僕なのだよ)

 

この時の〈二匹〉は気休めのウソの言葉ではない。語り手が、比喩を通じて“本当の気持ち”を語っている。茫洋として掴み得ず、従って言葉にできず、イメージの糸口を掴めなかった二人別々の世界が、具体的な言葉に表せるようになっていく過程は、イサオにはわからなかったヨンの世界が “見えてくる”過程でもある。見えるように導いたのが言葉であり、詩を書くことを通じてこの言葉は見出されたということも重要だと思う。

 やがて、僕しかいない、と思い詰めつつもヨンを放棄してしまうかもしれないという不安を抱え持っていたイサオが、〈今はもう、能動的に、ヨンの世界に出かけていかねばならないと思っている〉(「ドン・キホーテ(前夜)」)ところにまで辿り着く。「あとがき」のように置かれた第5部の「ドン・キホーテ(前夜)」は、正直なところ説明過多の印象を受ける(「あとがき」は別に設けられている)。しかしヨンの世界に降りて行こう、とするイサオの姿勢の影響でもあるのだろうか、明らかにヨンからの発信がバリエーションに富み始めている。変化の兆しがある。そのことを、実際に交わされたメッセージから取材したらしいノンフィクション的な部分に見ることが出来る。漠然と“見えて来た”ヨンの世界に自分から降りて行こう、という意志を持ったことを自己確認するためにも、詩と散文(フィクション)とドキュメント(ノンフィクション)によって明確に語られる複合的な形式が必要とされたのだ、とも言える。

 この詩集には伏線のように『星の王子さま』のイメージも流れている。〈王子さま〉は最後に薔薇の元に戻ろうとしたが(そのためには毒蛇に自らを噛ませる?という覚悟が必要だった)、それは小さな自分の世界に再び戻っていくことでもある。〈イサオ〉は〈星の王子さま〉ではなく、ドン・キホーテを自分のモデルとして選び取ろうとしている。小さな故郷の星に戻るのではなく、未知の世界に冒険に出ていくドン・キホーテのように、自分の井戸から出て〈ヨンの井戸〉に降りようとしている。

 

 井戸の底であっても、穴の底であっても

 まずはそこで生きねばならない

 そうして

 そこから、這い上がってこなければならない

 

 僕であれば詩を書くことで

 ヨンとふたりで

 ヒトとして

 

 詩集の余韻が明るいのは、これからの前途が期待されるからだろう。詩が開いた明るみに、これから二人は照らされていくだろう・・・そんな予感を感じられることが、嬉しい。