詩の中庭

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添田馨 詩集『獄門歌』(思潮社 オンデマンド2022.7.1)感想

獄門歌、Song of Prison Gate、と日本語と英語の題名が並んでいる。うっすらと何者かが現れ出ようとしているようなモヤモヤとした白地の上に、インパクトのある文字が詩集の“顔”一面に配置されている。目の錯覚のように中央に長方形が浮かび上がる表紙は、半透明の四角い門がそこに口を開いているようにも見える。

目次を開く。一章は「獄門歌」。「ヒットレルが死んだ」「贋物のボナパルト」など、歴史に着想を得たとおぼしい作品が並んでいる。二章は「弔言歌」。「戦争」「死刑」「暗殺」「自殺」「粛清」……物々しい題が並ぶ。「自殺」のページを最初に開いた。

〈私はこれが自殺でないと証しだてるため/事後の良心でこの遺書をしたためる/上部構造による他殺だと指弾するため/私自身を殺してみせる〉〈邪心を合法的に栽培しつづける国で/へらへら笑う逆向きの首を/私は見た(いや私だけが見たのだ)〉(私だけ、に傍点)〈黒い霧は記録文書の一字一句にまで浸透し/汚れた支配者が聖別され/罪なき公僕が改竄犯に貶められた/上からの指示で職務規範は破壊され/すでにして私の背中は/官邸の未必の殺意の標的だった〉……赤木俊夫さんの名が浮かんだ。だが、繰り返される〈私〉のインパクトは、他者が散文で〈官邸〉を批判する際の、どうしても超えられない“縛り”を超えている。今までにも行われ、これからも行われるかもしれない蛮行に対する“私”の憤り、“私”の告発は、語り手の単独のものであると同時に、不正を強いられ心ならずも命を落とした者たちの複数の声でもある。一定のリズムで叩きつけるように紡がれる邪悪を暴露する声は、死後も消えず蘇り続ける無念の声そのものと聞こえてくる。慄然とする。

この“詩集”を初めて読んだとき、これは“詩”集なのだろうか、と戸惑いが起きた。“歌”集か。“叙事詩”集か。“風刺詩”集、“批評詩”集……劇詩、という名を思い出し、舞台の上でただ一人、照明の中で語る俳優の姿が浮かんで腑に落ちた。

加藤健一の「審判」を観たことがある。二時間半のモノローグドラマ。演劇、と知りながらその場に引き込まれ、戦慄し、終演後も全身に冷や汗をかきながら茫然と座っていた。俳優が“器”となって、語り手を召喚する。そこには、“体験”があった。死者がイタコの身体を借りて(通して)語るように、“その人”が語りだす。散文で他者が行う告発や批判で超えられない域が、詩を器とすることで超えられていく。

“告発”の先にあるものは何か。詩集の巻頭に置かれた「暗澹たる法廷」が、“その先”に置かれるべき場となるだろう。〈終末の世々に聳えたつ影の絞首台〉〈地獄をも配下におさめた法匪の遺伝子を/すでに血肉に刻んで果てた死後霊だけが/呪いから醒めたその顔を審問に曝して〉……いささか“芝居がかった”台詞だと感じる向きもあるかもしれない。だが、「獄門歌」というレーゼドラマが今、開幕したのだ、そう気づいた時から、野太い声が舞台から響き、観客席が闇に沈んだような感覚を覚えた。たとえ死によって地上から消えたとしても、その罪状は決して帳消しにはならない、いつか必ず裁かれねばならない……詩が、器となって無念の思いを抱えて消え去った者たちの声を語り始める。独白ではなく、語りかける、呼びかける詩。

第三章には香港の民主化運動に“心を寄せた”詩や、テニスプレーヤーの大坂なおみが人種差別の犠牲者の名前を刻んだマスクで闘ったことに“触発”され、“共感”して創作された詩も収められている。なぜ強調符を付けたか。それは、語り手(書き手)の添田馨を霊媒として、告発の当事者が内に“降りてきて”語りだすような具合に生まれた詩であるからだ。香港民主化運動の象徴的存在だったアグネス・チョウさんの語る応援演説――スポークンワーズを聞くうちに、いつのまにか中国語で詩を書いていた……大坂なおみの“闘い”に見入っているうちに、英語の詩が湧いてきた……詩集刊行後の、カフェなどでの朗読会の際に書き手本人から聞いた、詩が生まれ出た経緯の不思議。にわかには信じがたいかもしれない。論理的に(説明的に)書くならば、添田の常人を超えた共感力とこれまでの知的経験の積み重ねが、母国語ではない言葉での詩を生むという飛躍を起こさせた、ということになるだろう。(詩作品として完成させる段階で、ネイティブの方や専門家に協力を得た――推敲の助力を仰いだことも、あとがきには明記されている。)

三章には、「プーチンを終わらせる」という、まさしく激烈な作品も収められている。プーチンは言葉の詐術を用い、言葉で命じて戦争を始めた、言葉で兵士を動員し、言葉で攻撃を命じた、言葉で始まったものならば、言葉で終わらせることができるはずだ、そう考えている内にこの詩が生まれた、という――詩集刊行後に朗読会の場などで添田自身から聞いた言葉であるけれども――それを極論と考えるか、悲願が見出した究極の論理と見るか。

この作品は、感銘を受けた日本人の専門家の手によりロシア語に翻訳された。そのロシア語の詩を、ウクライナからの避難民が朗読会で読む、という機会も生まれた。「カフェ・水曜日」という上石神井にあるカフェでの出来事だったが、その時、この詩を朗読した女性は、プーチンと闘うために、私は今日、ここにこの詩を読みに来た……というようなことを語った。このようにして、今、必要とされる一篇の詩が、少しずつ手渡され、口伝えられていく現場がそこにあった。「プーチンを終わらせる」には、プーチンの演説を反転させてロシア軍の兵士に降伏を呼びかけるメッセージの部分がある。(先日、ゼレンスキーが同様のメッセージをロシア軍の兵士に呼びかけているのをテレビ報道で見たばかりだ。)

この“詩集”は寓意や風刺、批判の面もあるのだが、“予言”的側面もある。この詩集が刊行された一週間後、この詩集で批判の的になっている元首相が暗殺された。「暗殺」という詩が含まれた詩集を出した直後のことで、さすがに後味が悪かった、と添田は語っていたが……また、この「暗殺」という詩のなかには〈成功確率は五分五分だったろう/完璧な警護は存在せぬから〉〈私の背後に立ってはならぬ!〉というような、実際の暗殺を予知するような文言が含まれていることに吃驚する読み手もあったが……私には、むしろ〈歴史はそれで動いたのか?/世界はそれで変わったか?〉〈誰かが消されたあとには/誰かのいない宇宙が始まるだけだ〉〈用心しよう、罪びとたちよ/なにひとつ罪のない者だけが/お前のその引き金をひくがいい〉というフレーズの方が響く。暗殺という暴力では世界は変わらない、変えられない。必要なのは皆の怒りだ、正当な裁きだ、欺瞞や不正に対する憤りだ、そのことを我が身を借りて語れよ、と不正によって死した者たちに呼びかけ、呼び戻し、語らせようとしている。そのような特異な“詩集”なのだ、と思う。

 

獄門歌