詩の中庭

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なんどう照子詩集『白と黒』(土曜美術社出版販売2022.6.5)感想

かけがえのない人を失ったとき、理不尽な死や突然の悲劇に見舞われたとき、その後の“生”を人はどうすれば生きていけるのだろうか。自らの心の動きを見つめ、心身の感受する自然や人との関わりの中にその照応を求め、生きる答えを――答えというよりも、支え、という方が適切かもしれないが――見出していく過程が、熟慮された構成によって立ち上がってくる。その感情と思索の深まりを、澄んだイメージと作品ごとにふさわしい文体を模索する中から汲み上げていくところに、この詩集の素晴らしさがあると言えるだろう。

自分の心を見つめる詩集は内向的な独白に留まりがちだが、この詩集は多くの人々のもとに開かれている。その普遍性は、自己の掘り下げの先に、押し寄せる多数の理不尽な死への気づきと“共感”があり、そこから言葉が立ち上げられていることに由来する。自らの思いを単に吐露するのではなく、他者に伝え得るものに鍛え上げること。それは、表向きはレトリックの探索と映るかもしれない。しかし、その探索は自分自身の道行きを振り返り、同じような困難に直面している人を見出していく過程であり、その人々に言葉で寄り添うために何ができるか、何を伝え得るか、と真摯に考える過程で紡ぎ出されるものであって、言葉の構築で耳目を驚かせようとか、新奇な表現で他者に強く印象付けようという意図からではない。そのことが物語(詩のテーマやシーン)の移り変わり、配列、文体や言葉の用い方、比喩の有り方によって自ずから読者に伝わってくる構成の見事さにもよるだろう。

 

詩集は、短い詩行を重ねる、夢見るような「くじらの森」から始まる。働き続け、生きることに疲れた日々、ふと見上げた夕方の空に浮かぶ〈くじら〉……それは子どもたちを乗せて悠々と空を飛ぶ「くじらぐも」のようにのびやかで明るい。しかし雲を見上げる作者は、雲の行く末に死者たちの帰る場所を見ている。そこには〈死んでしまった子供を/背中にのせたまま/いつまでも泳ぎ続ける/母くじらのように/せつない思いで/待っていてくれている〉人たちがきっといる――今は会えなくても、いつかきっと、必ずまた会える、待っていてくれる、そんな切ない“確信”から、詩集全体が始まるのだ。

続いて置かれた「空をゆくイワナ」は、〈白神の源流へと続く粕毛川を歩いている時〉に遭遇したイワナの受難を散文性の強い文体で写生するところから始まる。やがて語り手の想像力は、鳥ではなく魚の側に心を移し、〈鳥に狙われたある日/なかまの内のほかの誰でもなく/それがわたしだったことがうれしかった/魚のイワナのなかまたちは/連れ去られたわたしを仰ぎ見て/別れをおしむこともできなかったが/鳥とともに空になったわたしは/安堵のうちにさよならを言った〉と展開していく。〈死者たちはいつもイワナだ/空を飛んでいったイワナだ〉というフレーズもある。語り手に変貌した作者は、群れとして連れ去られた死者たちではなく、その死者の一人になっている。あるいは、なぜこの人が、という耐えがたい思いが、自分が代わってやりたかった、という願いに反転した後の“死者”としての実感を抱いている。しかし、なぜ……生きていることよりも、逝ってしまった者の側に、その“ひとり”に、心を寄せていくのか。

ひらがな詩の「あめ」は、子どもの死者によって語られる。雨になって津波に飲まれて消えた母が会いに来てくれる……そう思う“ひとり”の生存者の思いに寄り添っていく。続く「涙町」は一般的な行分け詩。〈水町〉という仮想の町が舞台だ。〈家々のほとりには/水がひかりながらこぼれておりました/水の子供はつぎつぎに思い出をくちずさみ/おとなたちは水のくるしみを/こころにかくしながら/うたっておりました〉〈水のねもとからは湧水が/ころころと骨のような音をたてておりました〉〈ふいに声がして/まだ水にはなれませんよ〉〈こんなにも水をふくんだ/たましいだったのかと〉……津波という現実の水、涙という現実の水。そして、命を循環させるものとしての、海から天に還流し地に降り注ぐ水。重層的な水が流れている「水町」なのだ。具体的に被災地を訪れた際の実感を記したと思われる詩もあれば、〈白い夜の真ん中で/私はふたつに裂けるだろう〉と心身を引き裂かれるような体感を象徴的に記した詩もある。しかしなぜ、語り手は、被災地のあまりにも多くの死者の、そのひとりひとりの思いにこんなにも心を重ねていくのだろう。

読者の問いは、1章の最後に置かれた行分けの「睡蓮」、そして観察と思索を凝縮した散文詩「植物」によって、ある種のカタルシスと共に解答を得るだろう。それは事実を物語ることによってもたらされる深い納得と痛切な共感である。(1章末に置かれたこの2作に、2010年末に作者が遭遇した不慮の死の衝撃が記されているが、その内容については、ここでは触れない。)

 

2章は日々の暮らしの中で見出した死や生、運命についての感受や思いが、気負いのない言葉で歌われていく。詩作を楽しんでいる雰囲気も伝わる、ユーモラスな作品もある。3章は、(現世において)私は既に死者であるのかもしれない、〈かりそめの生〉を生きているに過ぎないのかもしれない、という……生きているという実感を忘れて日々を過ごしているような日常の中で、内戦やテロ、過去の戦争、強権政府による暴虐などによって死に至らしめられた人々への思いが、リアルな実感や体感を伴って立ち上がってくる章だ。公園に置かれた「拒絶の椅子」――ホームレスが横になったり占有したりできないように、意図的に仕切りを付けられた椅子を見ながら、身近な場所でも誰かが実際に被っている悲しみや痛みに〈気にも留めずに生きてた〉自分を振り返るような、きわめて今日的、社会的な問題を柔らかな言葉で記した詩もある。このような具体的な生活実感を伴う日々の中で、語り手の思いが個人、身近な場所、日本、そして世界の様々な場所での“ひとりの苦悩”に向っていく道筋が、無理なく示されているといえるだろう。

3章の最後に置かれた散文詩、「冬の蟬」は、〈私たちはきっとだれもが だれかの生まれ変わりなのだ 幸福なうちに死を迎えた人というよりは なぜか非業のうちに果てたものの命を かわりにうけつぐために この世に使いのために よみがえったような気がするのだけれど〉というストレートな“実感”の吐露から始まるが、ここまで詩集を読み継いできた読者には、この素直な述懐がリアリティーを持って受け止められるに違いない。〈私はあの日 だれを変わってうまれてきたのだろう 非業の人はだれだったのか そう感じ思うとき 自分の中の命の熱さがひときわになる〉死者の声を呼び寄せるように、〈しらないはずなのに 命の深みからことばになって ほとばしることがある〉〈ひっそりと死んでいった冬の蟬の なくことのなかったその一生が 声にならなかったなき声が いま私の一行一行に なっているに違いないと思えてならないことがある〉命の循環を思念で理解するのではなく、内から湧きおこる命の熱さとして体感的にとらえ直すことができたとき、語り手は個人の生を孤独に生きることから、多くの死者のひとりひとりを共に生きる“いのち”の場所に開かれ、そこに置かれ直したのだと思う。

詩集の装幀は高嶋鯉水子。迸る透明な水の躍動感あふれる白いカバーは、うっすらと別の水の流れを透かし見せている。カバーをめくるとたっぷりとした水のイメージ。湛えられた命だろうか。見返しには重力に反して天に昇っていくような水の飛沫が記されている。作者の心と詩集の意図を深く汲み取った装幀家の仕事である。