詩の中庭

日々の読書、詩集や詩書の書評、覚書など。

瀬崎祐詩集『水分れ、そして水隠れ』(思潮社、2022.7.4)感想

みわかれ、みがくれ、と読ませる。見別れ、身別れ……山の下を流れ地上に沁み出し、別れてゆく水。水に流れゆく先の選択肢はあるのだろうか。みずは「見ず」という言葉にもつながる。山道や野辺の田舎道を連想させる表紙写真は、著者の撮影。砂利や土、野草が生えた前景のみが鮮明で、“その先”は濃い霧に包まれている。

 詩集はクヌギ林に囲まれた露天風呂で〈小さな人〉と湯に浸かっているところから始まる。幼い子供かと思いきや〈年老いた小さい人〉と言い直され、老親を想ったところで〈わたしが手のうえにのせている〉一寸法師のような存在であることが明かされる。私という身から離れて旅立っていく小さな冒険者が、この小さな人、であろうか。魂離れして夢想の世界や思念の世界を旅する語り手。続いて置かれた「夜の準備」は、詩集全体の構造にも関わってくる象徴的な作品である。実際の夜と、精神の夜。〈夜〉になると〈崖の上〉に戻ってくるトラック。運ぶのは〈溶けたもの〉……それは無意識の層から溶け出し、言葉になる手前の意識や感情であることが示唆される。語り手の居る〈崖の下〉では、幼い日に遊んだ玩具のトラックの記憶が呼び起こされている。その頃、荷台から取りこぼしたものは〈姉の大切なもの〉だったはずだが、既に思い出せない。姉も今では不在。語り手の記憶と寓意が融け合うような精神の深みから詩集は出発する。

続いて置かれた「水分れ」では、成人の語り手が夕刻のルーティンであるランニングに出かけようとしている。〈何も持つことを許されない〉まま走り出した〈わたし〉の身体は、次第に雨に濡れていく。〈滴るものをまとってしまったからには 身体はもはやわたしを許そうとはしなくなっている〉……〈許されない〉とは、いったい何を意味するのだろう。〈わたしの大切な人〉であるかもしれない何者かが、部屋の片隅で隠れ続けることによってのみ、居ることを“許される”「うずくまる人」では、“その人”は〈お腹がすいているはず〉なのに、〈わたし〉が何かを与えることも“許されて”いない。“その人”は〈わたし〉自身が見ることは出来ない己の精神そのものであるのかもしれない。触れようとすると阻まれるもの、見ようとすると遮られるもの。それを果敢に知ろうとすること、そのためにある種の禁忌を超えていくことが、語り手の試練となっているのだ。

「泳ぐ男」で〈男〉が泳ぎ渡っているのは死者たちの記憶が溶けて滴っている〈暗い海〉だ。〈摩天楼〉や〈赤茶けた砂漠〉を遠景とする冷たい海は、心地よい都市空間でぬるま湯につかり、陶酔境にいる男が夢想している海でもある。「拾う男」の舞台は夜の病院。〈病棟をつなぐ通路の曲がり角ごとに落ちている眼球〉を拾うのが男の仕事だ。眼球が象徴するのは、見たもの、見えたものの記憶、あるいは忘れるために記憶を捨てること、見ないでいようとすることへの問いであり、自分、そして人々の記憶の行く末についてのイメージへと読者は誘われていく。「湖のほとりで」や「水際」など、「拾う男」のいた場所よりももっと根源的な“水”の場所、生者も死者も含めて、その記憶から滴って生まれた湖のほとりの情景と、記憶の主体を象徴するような〈眼球〉が打ち寄せる水辺のイメージは、語り手の居る場所の外側に大きく水平に広がる幻想界を想起させる。螺旋階段を昇りつめた先にある病室で、原因不明の口渇に苦しむ老婆たちの……〈膿に汚れた記憶をていねいに取りのぞき、代わりに義眼をはめこんでいく〉治療を施す〈わたしたち〉を描く「塔屋にて」や、失われた〈大切なもの〉のことを思い出せないまま螺旋階段を降り続ける「忘失の人」など、記憶を巡る上下の空間運動のイメージも印象的だ。

〈わたし〉の記憶や経験から溶け出し、滴って遍満し、他者の記憶とも溶け合って、やがて雨となって降り注ぎ、湖や海に溶け込んでいくような記憶と水のアナロジー。その水に身体を濡らして “どこかに”辿り着こうとしていた語り手が、やがて〈小さなものが触れあう微かな音〉がする〈巾着袋〉というリアリティーを得るに至る作品が、「水隠れ」だ。精神が記憶の古層に辿り着くまでに泳ぎ渡らねばならなかった“水”は、ここでは姿を消している。巾着袋に入っている中身は分からないままだが、手触りのある確かさ、という記憶の源泉にまで語り手は辿り着いたことになる。語り手は、〈幼いころに老舗の温泉宿でもらったのよ〉という言葉と共に、この巾着袋を叔母から受け取る。詩集冒頭の露天風呂のイメージが呼び覚まされる。他の作品にもこの不思議な温泉宿が、藍染めの巾着袋、金魚の絵のついた金属のピルケース……など、どこか懐かしさを醸し出すイメージを伴いつつ登場する。仲居さんや女将さん、旅人など様々な人の視点を通じて、その宿の姿が現れそうになっては見えなくなる。

〈わたし〉そして人々の記憶が溶けだし、水のように広がっているイメージと、その領域を潜り抜けて語り手が辿り着く、鄙びた温泉宿。懐かしさと共に、確かな記憶が手渡され、存在していたことを実感する、そんな象徴的な“場所”がこの温泉宿なのだろう。そして、そこで “確かに、失われずにあるもの”としての記憶を再び手にする安堵は語り手個人のものだが、この詩集は個人の幸福を訪ねていく精神の旅に留まらない。むしろ、個人の旅の挿話を挟みつつ、〈眼球〉に象徴される人々の記憶の行く末、社会的記憶の還流へと全体の視野が開かれていく。「女将の出立」は、〈眼球〉の打ち寄せる湖への旅であるが、この女将の宿というのは、失われた〈眼球〉を求めて旅に出た人たちを泊める宿だったのかもしれない、そこで旅に倦んだ人々の疲れを癒し、再びの旅路への活力を養う宿であったのかもしれない。

記憶を他者に手渡していくとき、詩人は言葉を媒介とする他はない。「言葉屋」、「逡巡が渦まいて、夜が」「扉を閉ざして、人々は」など、目に見えない“言葉”が、“もの”としての手触りを持つ存在として伝わってくる作品も、作者の言葉のとらえ方を伝えていて興味深かった。いきもの、として言葉が育ってくる間に蓄えた、それを用いた人々の記憶や体験が、言葉が安易に表層的に便利な道具として用いられることによって削ぎ落されて、ことばのいのちそのものが危機に瀕しているような印象すらある昨今、言葉の手触りを求めていくような寓話が精彩を持って迫ってくる詩集だった。