詩の中庭

日々の読書、詩集や詩書の書評、覚書など。

森山恵「つゆの空」感想 

森山恵「つゆの空」『ミて』163号(2023年夏号)寄稿作品

 映像の鮮やかな、神話的な作品。壮大なファンタジーの一場面を思い浮かべるが、いわゆる「ファンタジー(こどものためのおはなし)」とはならないのは、そこに思想があるからだろう、と思う。論理や文脈の整合性を第一とする散文と異なり、イメージが先行する詩文。それゆえに解釈は一つに定まらないが、その揺れ幅に読者の想像の自由と読み取る楽しみをみる。

 冒頭、緑の翼竜が爪を立て、風を、空を〈みがき上げる〉ように翼を広げると〈顕われる〉ブラッド・オレンジ色の月。地上の森は〈血色の月光〉に濡れ、〈古代紫色〉に輝いている。この色相なら鱗に覆われた竜の身体はモスグリーンが相応しい。翼は彩度の高い緑かもしれない。濃紺の夜空に映える、少し白味を帯びた薄いビリジアンの皮膜。

 月は〈山の端 半透明のうす膜を蹴やぶって〉生まれる、という。生に〈あ〉れる、とルビを振る。文体は口語だが、語法の端々に神話の荘重な語りの響きが生まれる。〈わたしの内股から果汁をしたたらせ〉空を渡っていく月。山そのものを竜と見たのか、あるいは天空を覆う巨大な竜か。月を生む竜、そんなイメージも重なる。もう一つの世界を照らす、月を生む竜。

 この“翼あるもの”に対して、二つの“翼なきもの”が対比される。ひとつは古代紫に染め上げられた森の地表を這う蝸牛、もうひとつは〈いにしえに居た〉とされる「ひ‐と」という〈直立二足歩行〉するもの。人が人と成り初めた、その原初の姿をイメージする。この「ひ‐と」が面白い。〈重力と恩寵に叛いた〉生き物で、〈わたしの鳥語を解するものも/その頃にはあったらしい〉。竜が鳥の言葉を話すというのも面白いが(鳥類の始祖は恐竜の鳥盤目なのだから、別段、不思議はないが)、人の中には〈解するものも〉いた、という部分に含みがある。なぜなら、〈かつて森の蝸牛を足裏に踏んだものは 緑の翼をうしない/この世の形相に食い千切られる〉という過去の物語が踏まえられているから。

 もう一つのこの世を照らす月を生み、世界の様相と「ひ‐と」が人と成っていく様を俯瞰している〈わたし〉は、蝸牛を踏まないことを選び、空へと飛翔した者なのだ。一方、蝸牛を踏む(踏みにじる)ことを選んだ「ひ‐と」は、〈直立のまま 集団の幻想に捉えられ〉〈集合的な夢を擲ち/暴君と暴徒の 悪夢に駆りたてられた〉という。ここで「ひ‐と」が打ち捨てた〈夢〉、そして不幸にも捉えられてしまった〈悪夢〉の数々を具体的に語り起こしていけば、それは人間が理想郷としての(平安に満たされた地としての)楽園を追われ、戦乱と搾取、それに対する奮起と弾圧の歴史を語ることになるだろう。戦勝者が綴る勝利の物語、あるいは生き残った者が語る悲哀と破滅の物語、旅路に物語を聞いた語り部の語る戦記の数々ということになるだろう。それはつまり、かつて在り、今も続く人間の物語、歴史に他ならない。

 〈わたしは二度と 緑色の翼を閉じることは/しない〉と決意を持って語る翼竜が、最後に見るのは蝸牛が〈血色の月下に這う〉情景だ。kとgの鋭い音が余韻に残る。もうひとつのこの世を照らす〈月〉が無ければ、蝸牛の生きる痕跡、月光にてらてらと光る足跡を知ることは出来ないだろう。その痕跡を見る意志を持つか、持たないか。蝸牛という柔らかな桃色の生き物に託されたイメージ、「つゆの空」というタイトルに預けられたイメージにも夢想が膨らむが、それは個々の読者が考えること、であるのかもしれない。(〈夕顔の花は扇のうえ〉というイメージが入り込むのは、作者が精魂込めて長期間携わってきた源氏物語の影響もあるのだろう、)〈つゆ〉はむろん〈梅雨〉であろうけれども(黒雲の重なる暗鬱な空!)〈露〉と消え去る人の命もイメージされているに相違ない。 “翼あるもの”から“翼のない生きもの”である「ひ‐と」となり、〈集団の幻想に捉えられ〉〈悪夢に駆りたてられ〉ついには「人」に成り下がってしまったその先に、どのような物語が描き出されるのだろう。そんなことを考えさせる作品だった。