詩の中庭

日々の読書、詩集や詩書の書評、覚書など。

立木勲詩集『ウムル アネ ケグリの十二月』書肆 子午線(2023.2.1)感想

 静かで美しい、強さを持った詩集である。美しい、という印象は、抑制された言葉の選択や呼びかけ、語りかけを基調としたリズム、リフレインや一定のスピード(アンダンテのような)で進んでいく詩行の進行の安定具合などから醸し出される“うた”の印象であり、美しさへと整えていこうとする意志の姿勢がうかがわれることによるだろう。美しさへ整える、という言い方をすると技巧や細工に力を注ぐといった批判的な意味あいにも聞こえるかもしれないが、“美しさ”へと“うた”を整えずにはいられない、そうでなければ耐えられない、そんな切実なものを感じて、しばらく沈黙を強いられる詩集でもあった。

 語り手のイサオと妻のヨンヒという登場人物は、多くの部分を現実の作者とその配偶者とに負っているらしいが、湿っぽい重苦しい私小説に陥ることを免れている。それは語り手が自身の語りから離れて、主人公のイサオからの視点、あるいはイサオと相対する他者の視点から見て歌うこと、語ることが出来ているからだ。その上で、歌うテーマの具体性の度合いが測られ、出来事を語ることよりもその時の気持ちを体感的な比喩でとらえる方向に向かう。

 現実生活の中ではお互いの心を傷つけあうようなことがあったとしても、それは抑制された言葉で暗示されるにとどまり、具体的なエピソードとして説明されることはない。しかし、負の側面や心理的な閉塞感などを隠したり否定したりすることも無い。高村光太郎が智恵子を歌ったとき、光太郎は智恵子の無垢な部分が表に現れるように、見せる部分と隠す部分を意図的に整理していたように思うが、立木の詩集では見せる部分と隠す部分という仕分けではなく、二人の関係が不安定で危ういものであった所から、二人で同じ世界を見よう、という意識に転換していくまでの過程を、まず何よりも語り手自身が見出そうとしていて、そのために言葉を選んでいる。その転換点となるのが、タイトルポエムともなっている「ウムル アネ ケグリの十二月」なのだが、この詩は緩やかな5パートに分割されている詩集の中で、第4パートに置かれている。

 

あわてずに第1パートから読んでいこう。巻頭詩「君は僕の手を握り、僕は黙って強く息を吐く」は、語り手による歌うような呼びかけから始まる。

 

 妻よ 兄と弟の小さな話がここにある

 (今、世界では熱く命が壊され、この国では毎年二万人余りが死を選ぶ)

 兄というのは君に出会う前の僕なのだ

 

*(アステリスク)を挟み、横浜にいる〈俺〉が、田舎にいる弟に聞かされた話が挿入される。弟の友人が、小さなパワーショベルを一人で操縦している時に倒れた車両に挟まれ、三時間もの間苦しみながら〈たったひとり〉で死んでいった。泣きながら話す弟からの電話を、黙ったまま聞くほかなかった語り手は、〈俺、コンピューターに向かって/毎日/プログラムを書いています/プロジェクトが辛い時/誰か死んでくれないものかと/つぶやく人もいるのです〉と続ける。現実の死の重みと、あまりにも軽々しく死が語られる―粗雑に扱われる社会との乖離。(実際に現代の社会では、戦禍や自死で膨大な〈たったひとり〉の死が生まれているのだ。)〈十二月も末です/月は煌々です/俺、さっきから、ひとりで月を見ています〉という“現在形”による語りで弟の友の死の挿話は終わる。しかし、実際にこの話は“声に出して”妻に“語られた”のだろうか。再び*(アステリスク)で区切られた後、語り手と妻が共に歩いているシーンが描かれるが、この二人の会話は噛み合わない。

 

 ふたりで夜の川の土手を歩き 君は言う

「わたしにはホンモノが ないのです」

「ウソを 話しているのです」

「微笑んで いるのです」

 

 暗い空には十二月の月がある

 君は僕の手を握り

 僕は黙って強く息を吐く

 

語り手の妻は、心を病んでいるらしい。わたしにはホンモノがない、そうつぶやく妻に、語り手は返す言葉を持たない。語り手は黙って妻と並んで歩きながら、弟の電話を黙って聞いていた時のことを思い出したのではなかったか。その時のことを、傍らの妻に心の中で語りかけながら、〈黙って〉歩いていたのではなかろうか。〈たったひとり〉を恐れる〈君〉と、〈黙って強く息を吐く〉ことしかできない〈僕〉。〈君〉を決して一人にはしない、という決意か。〈僕〉は一人で死ぬことはない、という意志か。いや、〈ふたりで〉いても、月を見ている〈僕〉は〈たったひとり〉だ、という自覚か。

 同じ第1パートに置かれた「同じ風にそよがれて」も妻への呼びかけから始まるが、明らかに内声である。〈妻よ/涙を固めて種にして/母は僕の奥底に/そっと埋めたのではあるまいか//僕の涙の落ちるのは/ずっと昔に/そんな 種が託されたからではあるまいか〉アステリスクで区切り、語り手がごく幼い頃、自身の記憶なのか聞かされた記憶なのかも定かではない時分に、子猫を母と捨てに行った思い出が語られるのだが・・・〈にゃあにゃあと/鳴くお前を箱に詰め/私はお前を捨てに行く〉〈この小さな家で/なぜなのか/私は毎日泣いている//にゃあにゃあと/寄ってくるお前を箱に詰め/通る人もない橋の上〉幼年期のエピソードと現在が重なり合う。〈子猫の箱は放られたのか/危うくとどめられたのか/その顛末はわからない〉・・・。この詩はアステリスクを挟んで〈妻よ/今 僕らは横浜で/同じ風にそよがれる〉と閉じられる。

 愛おしいものを抱きしめていたい情愛と、いつか手放さねばならなくなるのではないか、という不安が同時に浮上してくる危うさは、特に第2パートにおいて顕著だ。「ヨンヒ(韓国から来た妻)」という連作。〈「ヨンはいつもイサオの味方です」/あなたは言う/「ほんとうですか」/僕は言う/「当たり前の事聞かないでください」/あなたは言って背を向ける//僕はパジャマの中の背をさする//身体がひとつここにある〉心を病む前の妻は、身も心も〈ここに〉あったのだろう。しかし今は、〈身体〉があっても、その心に触れられない。その上でなお、〈イサオ〉は〈ヨン〉と共にあろうとする。〈僕でなければ だれが/ヨンヒを必要としてくれるのだろうか〉〈君の心の名を/だれが呼んでくれているだろうか〉それは“意志”の力だ。けれども、〈僕〉の“気持ち”は?心の奥底の声のように、行を下げて記された〈妻よ/僕は疲れてしまった/もう/袖をつかんだ君を/ひいて歩けない〉という弱音の告白のような詩行も記されている。詩を“創る”という行為によって、ようやく“声”に出すこと、言葉にすることのできた“気もち”。

〈若い時/架け橋になりましょう 僕らふたりは言いました〉しかし今のヨンヒは、仕事から帰宅する〈僕〉にあなたは本当のイサオなのか、と問う。イサオが私をいじめる、と言われた時のどうしようもなさ、そんなイサオはかわいそう、とも言うヨンヒとの暮らしを、〈僕〉は高い土手を〈右にも左にも落ちないように〉歩いている緊張感に喩える。それでは、〈君〉は〈僕〉との暮らしをどう感じているのか。妻は今ここにいる〈僕〉に何を見ているのか。“わからない”まま、〈僕でなければ だれが〉と自らに言い聞かせねばならない孤独。ぽろぽろこぼれ落ちるお握りになぞらえる〈僕〉の心の有り様。

「ヨンヒ(韓国から来た妻)」と「イサオ(金曜日の午後)」からなる第2パートでは、美しい口調やリズムを持った「詩」に整えていくことによってようやく表すことのできた弱さや不安、恐れといった負の感情が、正の意志と共に描かれている。

 第3パートでは、〈「やさしさ」と「正しさ」だけで〉は〈ヒトに〉なれない(人として生きていけない)という“気づき”が現れる(「詩が生まれる街の、アトム」)。「詩」を書くことによって、その“気づき”に語り手は到達したのではないか。〈俺は釣り鐘なのかも知れぬ/男は思う/他人の「いのち」の響きによって、己を知るものではあるまいか/光もなく音もない 闇の満ちる空洞が/俺の「いのち」なのではあるまいか〉(「そして、「いのち」が眠る街」)という“気づき”。この“気づき”は二人の関係を「詩」にすることによって捉え直し、〈僕〉を〈男〉と外から見る視点を獲得することによって得られたものでもあろう。

 そして第4パートに置かれた、詩集題ともなっている「ウムル アネ ケグリの十二月」。ウムル アネ ケグリとは、韓国語で井戸の中の蛙。それは、ヨンヒが自分の感じている世界を具体的なイメージを持つ言葉で表し得た瞬間だった。本当、ウソ、というような、具体的なイメージを持つ「言葉」では“言い表し得ない”ことでも、比喩を用いれば表現することができる・・・それは、我知らずヨンヒが「詩」をつぶやいた瞬間に語り手が立ち会った、ということでもあろう。真っ暗な井戸の底からたったひとりで、小さな青空を見上げている、そんな世界に〈君〉が生きていることを、〈僕〉が朧気に“感じ得た”瞬間。長いこと、身は触れ合っていても心は別々の世界に分かたれていた二人が、ようやく「言葉」によって、お互いの世界を共感し得る可能性を開いたのだ。しかしその時の〈僕〉は、まだ事の重大性に気づいていない。電話の向うで泣く妻に〈ヨンの井戸にカエルは二匹いるのだよ〉、〈一匹はヨンで 一匹は僕なのだよ〉と語りかけながら、〈でも本当は/僕はヨンの井戸にはおりられぬ〉と自覚している。顕在意識では、気休めのウソを口にしている、とさえ思っていたかもしれない。しかし、それまでとらえどころがなく、つかみ得なかった〈君〉の世界を、真っ暗な世界から小さな丸い青空が明るく見えている、そのような世界として具体的にイメージすることが出来るようになった瞬間が、この時だったのではなかろうか。

 

 あの日から

 「ウムル アネ ケグリ」とヨンは言わない

 

 ヨンの「井戸」は深く暗く穿たれている時もあれば

 広く明るくて「井戸」であることを忘れるような

 アフリカ大地溝帯の中のセレンゲティのような

 そういう時もあるらしい

 明るく広い「井戸」の時、ふたりはヒトの姿であって

 膝を抱えて僕はヨンの隣に座っていたりするのかもしれない

 確信の目でヨンが僕の耳たぶを噛むときは

 そういう時であるらしい

 

 あの日から

 「ウムル アネ ケグリ」とヨンは言わない

 

 けれども

 時に

 僕も井戸の中のカエルであって

 そんな時

 眠るヨンにつぶやく事がある

 

 (カエルは二匹でいるのだよ 一匹はヨンで 一匹は僕なのだよ)

 

この時の〈二匹〉は気休めのウソの言葉ではない。語り手が、比喩を通じて“本当の気持ち”を語っている。茫洋として掴み得ず、従って言葉にできず、イメージの糸口を掴めなかった二人別々の世界が、具体的な言葉に表せるようになっていく過程は、イサオにはわからなかったヨンの世界が “見えてくる”過程でもある。見えるように導いたのが言葉であり、詩を書くことを通じてこの言葉は見出されたということも重要だと思う。

 やがて、僕しかいない、と思い詰めつつもヨンを放棄してしまうかもしれないという不安を抱え持っていたイサオが、〈今はもう、能動的に、ヨンの世界に出かけていかねばならないと思っている〉(「ドン・キホーテ(前夜)」)ところにまで辿り着く。「あとがき」のように置かれた第5部の「ドン・キホーテ(前夜)」は、正直なところ説明過多の印象を受ける(「あとがき」は別に設けられている)。しかしヨンの世界に降りて行こう、とするイサオの姿勢の影響でもあるのだろうか、明らかにヨンからの発信がバリエーションに富み始めている。変化の兆しがある。そのことを、実際に交わされたメッセージから取材したらしいノンフィクション的な部分に見ることが出来る。漠然と“見えて来た”ヨンの世界に自分から降りて行こう、という意志を持ったことを自己確認するためにも、詩と散文(フィクション)とドキュメント(ノンフィクション)によって明確に語られる複合的な形式が必要とされたのだ、とも言える。

 この詩集には伏線のように『星の王子さま』のイメージも流れている。〈王子さま〉は最後に薔薇の元に戻ろうとしたが(そのためには毒蛇に自らを噛ませる?という覚悟が必要だった)、それは小さな自分の世界に再び戻っていくことでもある。〈イサオ〉は〈星の王子さま〉ではなく、ドン・キホーテを自分のモデルとして選び取ろうとしている。小さな故郷の星に戻るのではなく、未知の世界に冒険に出ていくドン・キホーテのように、自分の井戸から出て〈ヨンの井戸〉に降りようとしている。

 

 井戸の底であっても、穴の底であっても

 まずはそこで生きねばならない

 そうして

 そこから、這い上がってこなければならない

 

 僕であれば詩を書くことで

 ヨンとふたりで

 ヒトとして

 

 詩集の余韻が明るいのは、これからの前途が期待されるからだろう。詩が開いた明るみに、これから二人は照らされていくだろう・・・そんな予感を感じられることが、嬉しい。

 

 

 

 

森山恵「つゆの空」感想 

森山恵「つゆの空」『ミて』163号(2023年夏号)寄稿作品

 映像の鮮やかな、神話的な作品。壮大なファンタジーの一場面を思い浮かべるが、いわゆる「ファンタジー(こどものためのおはなし)」とはならないのは、そこに思想があるからだろう、と思う。論理や文脈の整合性を第一とする散文と異なり、イメージが先行する詩文。それゆえに解釈は一つに定まらないが、その揺れ幅に読者の想像の自由と読み取る楽しみをみる。

 冒頭、緑の翼竜が爪を立て、風を、空を〈みがき上げる〉ように翼を広げると〈顕われる〉ブラッド・オレンジ色の月。地上の森は〈血色の月光〉に濡れ、〈古代紫色〉に輝いている。この色相なら鱗に覆われた竜の身体はモスグリーンが相応しい。翼は彩度の高い緑かもしれない。濃紺の夜空に映える、少し白味を帯びた薄いビリジアンの皮膜。

 月は〈山の端 半透明のうす膜を蹴やぶって〉生まれる、という。生に〈あ〉れる、とルビを振る。文体は口語だが、語法の端々に神話の荘重な語りの響きが生まれる。〈わたしの内股から果汁をしたたらせ〉空を渡っていく月。山そのものを竜と見たのか、あるいは天空を覆う巨大な竜か。月を生む竜、そんなイメージも重なる。もう一つの世界を照らす、月を生む竜。

 この“翼あるもの”に対して、二つの“翼なきもの”が対比される。ひとつは古代紫に染め上げられた森の地表を這う蝸牛、もうひとつは〈いにしえに居た〉とされる「ひ‐と」という〈直立二足歩行〉するもの。人が人と成り初めた、その原初の姿をイメージする。この「ひ‐と」が面白い。〈重力と恩寵に叛いた〉生き物で、〈わたしの鳥語を解するものも/その頃にはあったらしい〉。竜が鳥の言葉を話すというのも面白いが(鳥類の始祖は恐竜の鳥盤目なのだから、別段、不思議はないが)、人の中には〈解するものも〉いた、という部分に含みがある。なぜなら、〈かつて森の蝸牛を足裏に踏んだものは 緑の翼をうしない/この世の形相に食い千切られる〉という過去の物語が踏まえられているから。

 もう一つのこの世を照らす月を生み、世界の様相と「ひ‐と」が人と成っていく様を俯瞰している〈わたし〉は、蝸牛を踏まないことを選び、空へと飛翔した者なのだ。一方、蝸牛を踏む(踏みにじる)ことを選んだ「ひ‐と」は、〈直立のまま 集団の幻想に捉えられ〉〈集合的な夢を擲ち/暴君と暴徒の 悪夢に駆りたてられた〉という。ここで「ひ‐と」が打ち捨てた〈夢〉、そして不幸にも捉えられてしまった〈悪夢〉の数々を具体的に語り起こしていけば、それは人間が理想郷としての(平安に満たされた地としての)楽園を追われ、戦乱と搾取、それに対する奮起と弾圧の歴史を語ることになるだろう。戦勝者が綴る勝利の物語、あるいは生き残った者が語る悲哀と破滅の物語、旅路に物語を聞いた語り部の語る戦記の数々ということになるだろう。それはつまり、かつて在り、今も続く人間の物語、歴史に他ならない。

 〈わたしは二度と 緑色の翼を閉じることは/しない〉と決意を持って語る翼竜が、最後に見るのは蝸牛が〈血色の月下に這う〉情景だ。kとgの鋭い音が余韻に残る。もうひとつのこの世を照らす〈月〉が無ければ、蝸牛の生きる痕跡、月光にてらてらと光る足跡を知ることは出来ないだろう。その痕跡を見る意志を持つか、持たないか。蝸牛という柔らかな桃色の生き物に託されたイメージ、「つゆの空」というタイトルに預けられたイメージにも夢想が膨らむが、それは個々の読者が考えること、であるのかもしれない。(〈夕顔の花は扇のうえ〉というイメージが入り込むのは、作者が精魂込めて長期間携わってきた源氏物語の影響もあるのだろう、)〈つゆ〉はむろん〈梅雨〉であろうけれども(黒雲の重なる暗鬱な空!)〈露〉と消え去る人の命もイメージされているに相違ない。 “翼あるもの”から“翼のない生きもの”である「ひ‐と」となり、〈集団の幻想に捉えられ〉〈悪夢に駆りたてられ〉ついには「人」に成り下がってしまったその先に、どのような物語が描き出されるのだろう。そんなことを考えさせる作品だった。

「弱さとは人をして祈りに導く使ひなり」~及川俊哉『えみしのくにがたり』を読む

1.水蛭子とは、何者か

 2017年夏、私は『詩と思想』の編集委員として詩と思想新人賞の一次選考に参加した。その際、文字通り“度肝を抜かれ”たのが、及川俊哉の「水蛭子(ひるこ)の神に戦を防ぐ為に戻り出でますことを請ひ願ふ詞(ことば)」だった。現代詩のコンクールに“祝詞(のりと)”が出現したのである。及川の一作は、口語自由詩を主体とする大量の詩作品の中でポツンと孤立した、時代錯誤の作品のように思われた。しかし、読み始めて一驚した。イザナギイザナミの愛児であるにも関わらず、神として奉られることのなかった「水蛭子」を大神と崇め、あなたが日本を離れている内に(いな、むしろそれゆえに)、私たち日本は戦争への道を辿り敗れることになった、そして、その敗戦の惨禍が、私たちに〈人類が相争ひ国と国とが戦ふことの患(うれ)ひ多きを〉身をもって教えたのだ、と述べていたからである。

 及川はさらに、3.11の大震災以降の政治情勢について、〈千歳毎(ちとせごと)の地震(なゐ)の禍(わざは)ひにより国の弱りたるを怖じおそる者の多くなり悪しき戦ごとを起こさむとしていたくさやぎてうたてかりき〉と、昨今の不安と恐れとを「水蛭子」の神に訴える。

 うたて、という言葉に立ち止まる。人智を越えた存在に救済や加護を祈り“訴ふ”ことがうたの始まりだ、と言われる。吉田文憲が評論集『「さみなしにあはれ」の構造』の中で、主に東北地方で用いられる(古語であると同時に、今もなお用いられている)うたて、という言葉にインスパイアされつつ、「うた」の由来に言及していることも思い起こす。言葉として発すると障りがあるような、そらおそろしい、なにか形容しがたい気配。辞書を引くと甚だしい、という意味が最初に出て来るが、不気味で恐ろしい、なにか嫌な予感がしてたまらない‥‥‥うたて、とは、そんな時に、人智を越えた力の発動を願って発せられる言葉なのだ。〈悪しき戦ごとを起こさむとして〉〈いたくさやぎ〉いる昨今の政情や世界情勢を水蛭子の神に訴え、及川は神の御力によって〈戦を防ぐ為(ため)に善き議(ことはかり)を作(な)しませ〉と請願する。

 それにしても、なぜ、祝詞の形式を採用したのだろう。水蛭子の神に呼びかけるためには、古事記の記された当時の言葉を用いねばならない、ということなのか。大きな災厄をもたらした歴史の歩みが、誤りであったとするなら‥‥‥その原初に戻って、語り直すことが必要だということか。日本が水蛭子の神を葦船に入れて流し去った時点にまで遡り、私たちがその時、遠くへ押しやったものを再び、取り戻す必要がある、及川は、そう言いたいのだろうか。あるいは、詩人として、現代詩の担い手として、現代詩の歴史を口語から文語、さらには日本語が発生した時点にまで遡り、その劫初の時点から再び語り直しを行おう、という創作意欲の表れなのか。いずれにせよ、強靭な思想性と方法論の強度、強い意志の力とを感じる作品として、新人賞候補に推した。

 

 以前から水蛭子が気になっていた。神世七代(かみよななよ)の後、イザナギイザナミ、二柱の神によって“日本”が生みなされていく。その第一子でありながら、国造りには “役立たない”存在として、遺棄される神。“日本”の始まりにおいて、私たちが捨て去ったものは何か。選び取った方向性は、本当に正しかったのか。私たちの歴史を考える時、水蛭子の意味を問うことによって、その答えが見えて来るのではあるまいか。しかし、この問題のとば口を見いだせずにいた。

 女神イザナミの側から声をかけ、まぐわい生をなしたのが水蛭子である。その後、改めて男神イザナギの側から声をかけ直し、国造りの“ちから”を持つ神々が生みなされていく[i]

 母権型の社会が生みなした“神/ちから”である水蛭子は、物質的な富の生産に加わることもなく、戦いに際して立つこともない。生きるためには多くの補助が必要なのだ。生まれ落ちたばかりの赤ん坊が、ありとあらゆる手助けを必要とするのにも似ている。言い換えれば、水蛭子は、助け合い、力を補いあうという共苦、共感、互助の精神の顕在化を促す存在である。人が生まれながらに持つ、思わず他者に手を差し伸べずにはいられない心性――神山睦美が『希望のエートス』や『サクリファイス』などで指摘した、震災時に露わになった日本人のエートス――を、水蛭子という存在そのものが引き出し続けることになるだろう。水蛭子とは、本来、人々に内在する“ちから”の発出を促す存在だったのではないだろうか。

 だが、日本人はその力をいったん見えないところに押しやり、男神の主導で八島を“生む”(支配下に置く)。家屋や道の整備、農業を集団的に行うための水の配分といった“ちから”を神格化した神々、物質的な豊かさを生み出す為に必要な“神/ちから”を、次々に生みなしていったことが、古事記に歌われている[ii]

 

 及川は、水蛭子をどのような存在としてとらえているのか。及川は、〈弱さとは人をして祈りに導く使ひ〉であるという。長年の懸案が一気に解けたような気がした。弱い、ということ、無力である、ということ。その自覚と受容から始まる、祈り。日本が、その始まりにおいて見えない場所に追いやったものこそ、この弱さの自覚ではなかろうか。

 及川は、この祝詞を、「古事記」「日本書紀」「ミカ書」を参考にして創作したという。祝詞に聖書の一節が参照されるというのも珍しいが、及川にとっては、聖書に記されたことも〈外つ国の神〉の語った真理なのだ(エラノス会議が志向していたものに近い、壮大な思想/理想を、私はそこに感じる)。及川が〈足蹇(あしな)へたる者(もの)をもて遺餘民(のこれるたみ)となし遠(とほ)く逐(おひ)やられたりし者(もの)をもて強(つよ)き民(たみ)となさん〉という旧約聖書の一節(終りの日に神が世界を滅ぼし、良き人々を贖うだろうという預言)を引用しているのを目にした時、私が思い出したのは新約聖書の聖パウロの言葉――「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても」満たされています、「なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです」――だった。自らの弱さの積極的な受容。弱さを自覚するがゆえに強い、という逆説。無力ゆえに侮蔑され、追われた水蛭子の神、弱さを最も象徴的に体現する神に、及川は再び戻り出でませ、と祈り、呼びかける。

 大震災の時、私たちは本当に無力だった。敗戦の時も、私たち(の父祖たち)は、自分たちの無力を自覚させられただろう。力を持って力に抗するのではなく、力を放棄することによって人々の平安を守る、弱さによって国を守る、という逆説を土台にした憲法九条を、及川は〈世の国国の悉く掲げるべき理想の法なり〉と奏上し、水蛭子の神が再び日本に戻り、その力を発揮することを願う。

 

 この作品が高良留美子、郷原宏、森田進の三選考委員の本選を経て、第25回「詩と思想」新人賞を受賞したとき、反戦を主体とした、思想色の強い詩集が生まれるのではないか、という予感(とかすかな困惑)を抱いたのも事実である。この一作のみを読んだ段階においては、戦争の悲惨を体験し、平和憲法という理想の法を獲得した日本を守り、震災の悲惨に“乗じて”日本を強い国にしよう、としている動きに対する牽制を、人智を越えた“ちから”に対して祈りあげる作品であるように思われたのだが、もし同じような方向性の作品のみによって一冊に編み上げられるならば、いささか思想性に偏りすぎるのではないか、という思いがあった。

 だが、「水蛭子(ひるこ)の神に戦を防ぐ為に戻り出でますことを請ひ願ふ詞」が組み込まれた詩集が上梓されたとき、私の浅薄な予感は悉く裏切られた――もちろん、良い意味で、予期を越える驚きを持って。

 

2.言霊に託された、東北への思い

 及川は、巻頭に波の神の歌を置く。知里幸恵がカムイ・ユカラを、現代人に伝わる易しい、しかも詩情に満ちた口語に翻訳したように、及川は〈波の神〉〈海のきらめきの神〉の歌を、私たちにもわかる歌の言葉で代弁する。さらに、そこにはかつての祖先たちの歌――万葉時代の相聞歌が編みこまれ、愛しい人同士の“別れ”の悲哀が、津波で引き裂かれた愛しい人同士の悲哀に変容しながら重なり、呼び覚まされていく。かつて、その歌を歌った肉体は滅びたとしても、歌は残り、他者の肉体を経て、読まれ、歌われ、口ずさまれることによって再生する。100年に満たない人の一生よりも、ずっと長い時を、言葉は語り継がれ、歌い継がれることによって生きているわけだが、その永続性が神の言葉として歌われる、と言っても良い。過去の死者の思いが現在の死者の思いと重なり、神の歌として幾度も再生されていく。それを、現代の生者である及川が、〈波の神、海のきらめきの神が語った〉こととして、私たち現代の読者に語って聞かせるのだ。

 “神”が、〈ナンジョニガシテヤリタクテモ ナンタニスレバイインダガ〉と、その土地の言葉で自らの無力を歌うということも、なんとも象徴的だ。神にすら、どうにもしてやれないほどの災厄が襲った地にあって、ひとりひとりの死者への思いをただ歌う事、思いやることしかできない、という無力。それほどのことがあったのに、震災後に多くの命を飲み込みながらも、いつもと変わらぬ美しさで広がっている海の姿‥‥‥。

 波の神は、過去に歌われた歌を過去の姿のまま呼び戻し、現代の私たちに歌いかける。残された者に成り代わって一人一人の死者への思いを歌い、自らの無力を隠すことなく独りごち‥‥‥それから、美しくきらめく海の上を、〈なんの不安もなくおそれもなく〉〈ただただ涙が止まらない〉まま、渡っていく。それは、波の神の心身とひとつになった震災の死者が、常世の国に運ばれていく様を神の側から歌う霊送りの歌である。神の歌でもあり、死者の歌でもあることばを、及川が聴きとり、シャーマンのように現代の我々のもとに届けようとする歌である。初出を見ると、この作品は震災後二か月の内に生まれている。その歌を、及川は詩集の巻頭に置いている。

 

 続いて始まる一章には、千年の昔、今と同様の災厄に見舞われた人々が生きていた時代に、彼らが神に語りかける際に用いた形式――そして今もなお語り継がれることによって“生き続けている”祝詞の形式による、一連の「詞(ことば)」が置かれる。最初は、「陸奥国信夫郷(むつのくにしのぶのさと)」の地霊に、福島を再び穏やかに平らかに保ってくださるように請願う詞。当地の伝説に伝わる「虎女」「おろす」を巫女として称え祀り、いわば神への執り成しを祈る。かつて旅人が新しい土地に入る際に、和歌や俳句に託してその地の神の名を詠み込んで挨拶とすることがあった。その土地で継承されてきた祭りにも、地霊の名を呼んでその地の神として称え、新たに祀り直す機能があった。現代人が長いこと忘れていた、こうした土地への畏敬の念を、及川は祝詞の形式で現代に復活させようとしているように見える。

 次に、「原子力発電所鎮め」と「放射性物質の神等を遷(うつ)し却(や)る」詞が置かれる。祖先たちが人智を越えた力や災厄を鬼神として畏れ敬い、鎮まることを一心に祈ったように、また、古代の人々が祟(たた)り神を「遷(うつ)し却(や)る」祝詞によって、その土地の平安と人々の無事を切に願ったように、我らを憐れみ、どうか鎮まってください、と祈りあげる詞。古代の人々が言霊の力に願いを託したことに倣って、及川も〈放射性物質の神等〉が祈りの力で鎮まることを願うのだが、同時に、私たち現代人に向けて、猛省を促す批評となっている。すなわち、地中深く眠っていた放射性物質を採掘し精製し”目覚めさせ”、発電の為に使役して諸々の放射性物質を生み出した挙句、水素爆発によって汚染を拡散するに至ったのは、人間の力で制御できる、という驕りのゆえではないのか。放射性物質を鬼神として畏れ敬う祈りの詞から滲むのは、痛切な悔恨と安全な未来の希求である。

 「古蝦夷神(いにしへのえみしのかみ)荒脛巾大神命(あらはばきのおほかみのみこと)」への詞は、東北地方に伝わる古代神話と東北の歴史とを振り返り、〈ヤマトの王は多くの軍勢を遣わし、私たちの祖先を鳥の群れを追うように追い散らし~日本列島の蝦夷たちはみな黙し、あなた様アラハバキの大神は説諭されて身を隠してしまわれ〉た、しかし今、震災と原発の災害によって〈あなた様(アラハバキの)大神の民たちは嘆き悲し〉んでいる、〈この国に集う民のため、千年二千年の眠りからさめて、昔のようにもう一度新たに復活して頂きたい〉と、蝦夷の神である荒脛巾(あらはばきの)大神に願う詞である。(現代語訳は、及川俊哉オフィシャルサイトhttps://syunya-oikawa.com/gendaigoyaku/から引用した。詩集の栞に付されたQRコードから、このページを簡単に参照できるようになっている)。

 「あとがき」で、及川は折口信夫を引きながら〈大和朝廷記紀神話に他の地方の神話が繰り込まれる過程で、朝廷の意向にそぐわなかったエピソードは消えて行った〉〈東北地方には蝦夷と呼ばれる先住民族がいました~彼らにも神話(折口信夫に倣って言えば「国語(くにがたり)」)があったはずです。それらは、現在は跡形もなく失われています。しかし、3.11以降の東北における諸問題に対峙するためには、いわば「蝦夷の神話」なるもの、その機能を果たすものを仮想してみる必要があるのではないか、と考え、詩集のタイトルを「えみしのくにがたり」としてみました〉と記している。水蛭子と同様、国造りの“正史”から除かれていった、もうひとつの歴史。私たちが見失ったもの、取りこぼしたもの、過ちを糺すきっかけとなるもの‥‥‥が、そこに眠っているのではないか。自らのルーツを問い、自覚を促す祈りの詞でもあるように思われる。

 続いて「三島由紀夫原作の映画「美しい星」の映画制作無事と興行成功とを祈る詞」という、なんとも不思議な祈りが置かれるのだが、及川は、三島が小説にこめた思いに〈呼応するものを感じることができるならば、現世の民衆が危機の時代を生ききる糧になる〉という三島論を展開する。三島を神格化しているとも読まれかねない作品をあえて提示することに疑念を持たないわけではないが、三島の魂に、あえて異を唱える形で及川がショーペンハウアーを引きながら〈キリスト教の核心は「共苦」である~人の世における救済の欠落こそがキリストの共苦による真の救済を生むという大逆説がキリスト教の神髄〉と述べ立てるところは、実に興味深い(現代語訳は、前出のウェブサイト)。苦悩する民に「共苦」を示した者が「犠牲」となる、という逆説の中に、震災の被災者への哀悼の念と、危機を脱するための強い意志の希求とが重ねられているのは、言うまでもない。

 水蛭子の神に再来を願う詞が置かれるのは、その後である。この祝詞だけ単独で読んでいた時は、水蛭子の意味を問い直しながら、憲法九条の意義を確かめるという平和への祈りのように思われたのだが、数々の祝詞に続けて読み込んでいくと、東北の民が身をもって体験した悲惨を、もっともよく知るであろう祖神に訴え復興を願う詞が置かれた後に、その体験から得た智慧が、より普遍的なものとして日本に、世界に受容されるように願う詞が置かれていることがわかる。水蛭子の神の運命に東北(蝦夷)の民が歴史的に被って来た状況が重なり、天災と共に人災をも負うことになった東北地方への深い共感が伝わって来る。

 

3.現代詩への方法論的な視座

 祝詞形式の作品を中心に述べて来たが、及川は現代詩の創作において、極めて意識的な方法論を駆使する作家でもある。二章の冒頭に置かれた「「『「「現在震源浴」は、記号の用い方で文字そのもの、ことばそのものが震えているような、奇妙な身体感覚を引き起こす。〈ぎゅい、ぎゅい、ぎゅい。ぎゅい、ぎゅい、ぎゅい。〉余震を想起させるような不気味な擬音から始まる作品は、歌人、田丸まひるとのコラボレーションだという。特に、〈ふれるだけでひとの表皮の細胞がこわれてしまうことは知ってる?〉という短歌の後に、ひときわ大きな文字で〈ぎゅい、ぎゅい・・・〉と記されるコントラストは、田丸の歌が放射線についての歌であるのかどうかは別として、心理的な圧迫感として読み手の側に迫って来る。ページをめくったとたんに飛び込んでくる、ラスト数行。文字の大きさや太さ自体もデコボコで、詩行が崩れているような文字組で記された〈だんだん、いまがこわれていっていませんか?〉という一行の凄み。

 「皮膚に似た感情」も、表記の実験を試みた要素が強い。縦組みの文字列にはウェブ検索の際に眼にする、奇妙な記号の羅列が組み込まれ、抒情的な詩文がウェブ空間に飲み込まれていくような視覚効果を生んでいる。〈あなたの身体を調律する。〉からの数行、数字と記号にまだらに侵蝕されたような詩行の中から飛び込んでくるのは、〈自らの精神及び身体に向かわないものを、「霊4%E3%8」と呼ぶ。〉〈また、その中でも生死に関わる反省を持つものを「魂0%8C%E5」と呼ぶ。〉〈両者をあわせて「霊3%魂」と呼ばれるが、これらが3%E3%83%88%の根源である。〉という文言。魂の重さを量ったという“実験”について叙述しているらしき詩行の間から仄見えて来るのは、体と魂、霊魂の関係性への及川の継続的な関心である。初出によると、この作品は震災前に創作されたものである。本詩集にはもう一作、震災前の作品「せいめいは じつざい しない」が収められているが、こちらもテーマは生命。物理的な身体現象に関する知識や意識と、いのちや心に関する体感との齟齬、感覚を巡る思考について、平易な言葉で問いかけている。及川が、震災前から命や生命、魂、実存といった問題に、日常感覚レベルから形而上的、観念的な次元に至るまで、常に意識していたことが伝わって来る。

 三章は、さらに平易な(児童詩にも分類し得るような)「ふゆのしごと」から始まる。草野心平を彷彿とさせる作風。続く作品にはその土地の言葉が織り込まれ、その地で生きる日常の中で感じる感慨が、やわらかな言葉とユーモラスな表現でスケッチ風に描かれている。震災後に集中して創作されたらしい土地の言葉が織り込まれた作品は、祖先たちが千年前の災厄をどう乗り越えてきたのか、その思いの強さが代々その地で使われてきた言葉を及川に選択させたように思われる。

 四章もユニーク。和讃を思わせる七五調から始まる作品、「聖☆三十三ヘンツン菩薩」に描かれているのは、愛猫の〈菩提を弔う〉ための巡礼行である。創意工夫によって過去に生み出された文体を、及川は選択し得る文体のひとつとして現代の話法と並置する。

 冒頭の和讃風の部分は、巡礼に出立するまでの縁起。ブログの記事のような軽快なタッチの横組みで巡礼記、壮絶な憤怒相の「単眼単髻羅刹女」が歌った歌が挿入され、やがて〈観音巡りはシナプスを巡る行為〉〈三十三の観音堂を結ぶシナプスの結合によって、/わたしたちはいにしえの人々の身体情報を受け取る〉行為であり、〈巡礼の道を身体まるごとでなぞりたどる〉ことは、〈信達の土地をたどること〉〈古人の野生の思考の脈絡をたどること〉そして、〈自分自身の感情が昇華される山道をたどること〉である、という認識が示される。さらに漫画のような軽妙なページを経て、失った猫との思い出が懐かしむように採り上げられ‥‥‥再び、和讃風の文体で、〈命の尊さ〉を教えてくれた愛猫への感謝を述べて、作品は閉じられる。

 

4.大きな死と小さな死

 巻頭及び一章には、震災で失われた膨大な人々の死を、ひとりひとりの肉親や愛しい人に成り代わって追悼する歌が収められていた。一人の人間には受け止め得ないような、神の次元においてしかとらえられないような、大きな死。及川は、いわばシャーマンになって神の声の中継ぎを務める。

 対して四章で扱われる愛猫の死は、猫好きではない読者には大仰とも思われるほどの、いわば小さな死だが、及川夫妻にとってかけがえのない家族だったのだろう。愛しいものを亡くすという哀しみを、いかに乗り越えていくのか、という誰にとっても切実な問いを、及川は身近で(語弊があるが)卑近な死をいかに乗り越えるか、という実践を行うことで、身をもって解決しようとする。巡礼という古来からの“行”を経て及川が辿り着いたのは、命の連鎖に触れた、という実感としての感慨ではなかったか。〈私たちは観音堂を巡りながら、/つねに彼らの身体感覚が寄り添うてきているのを感じていた。〉〈わたしたちと彼らとは、互いが互いに呼び交わす声のようなもの。〉彼ら、とは、過ぎし世の、既に肉体を失った人々、生き物である。愛猫もまた、その一員にとけこみ、現世にあるわたしたちと呼び交わすものになった、ということを、及川は巡礼を通じて感じ取ったらしい。

 その後に置かれた「にゃんこに語る正法眼蔵」は、語尾にキャラ語のような「~っち」を付したり、ラップ風の調子を付けるような「~YO」を付けたり、〈一般ピーポー〉などネットスラング的な用語を隔てなく用いたり‥‥‥真面目に不真面目、とでも呼びたいような軽妙さやユーモラスな表現を多用しているが、自らの心身で感じ取ったこと、悟り――まではいかないにしても腑に落ちたことを、愛猫への語りかけというギミックを用いて、今を生きる自分の言葉で語り直す試みだと言えよう。最後に置かれた二篇、「一瞬の自戒」は静、「わっしょい!生命!」は動の様態で、古来からの智慧を自らの身体で受け止め、語り直していく詩篇である。個々の生命が生死を繰り返しながら、大きな一つの生命体のように、いのち、を生きている。個物としての死は滅亡ではなく、この大きな生命体の一部となることであり、現世に生きる私たちは、何らかの機縁で彼らの体験に同化し、自らの体験として感じ、彼らと呼び交わすことができる。そのことを観想し、実感し言祝ぐ、静と動の詩篇である。

 

 震災の折、あまりにも多くの人が、一人一人の死を悼む時間も猶予も許されなかった。そうした人々にとって、死者は未だこの世にあって、残る想いに生者もまた、身を引き裂かれ続けているのではなかろうか。その無念、残念を、多くの死を一つの大きな命のように体現する神に託して、亡き者を哀悼し、ひとりひとりを大切に海の彼方の常世へと霊送りする。それが巻頭詩に歌われた想いであろう。及川が――愛猫という、ごく身近な死を受容する為に行った実践――巡礼行を経て心の状態を確かめつつ、死を穏やかに受け入れ、あの世へと送るに至った丁寧な服喪の時は、死者の為の時間でもあるが、これからの生を生きていく生者の為の時間でもある。誰にとっても大切な、一人の死、一つの死を悼む、という、小さな営みはきっと、あまりにも大きすぎて人には受け止めきれないような災禍となった震災を受容し、その後を生きる人々に、穏やかで不安の無い、より豊かな日々が保たれるように、と祈ることに繋がっている。

 霊送りで始まり、生命の讃歌で閉じられる『えみしのくにがたり』は、その土地に生きる者が、その土地で繰り返されてきた生死の連なりの厚みに触れる、ということの意味を問い続けた結果、生まれた詩集である。その土地に生きる言葉を用い、その土地でかつて語られた物語を語り直す時、言葉に託された過去の人々の思いは、新たに語る肉体を通じて再生される。その言葉を聞く現代の我々は、過去の積層と共にその言葉を聞くだろう。それは、過去の人々と共に、今を生きる、ということではあるまいか。

 そのことを確かめるために、及川は祝詞を奏上し、神の領域に足を踏み入れた人々に呼びかける。彼らからの声を聴き、現代に生きる私たちにも伝わるよう、語り直すことによって媒介者となる。死者と生者との間を行き交う、声の往還。『えみしのくにがたり』は、及川俊哉による、その実践記であるといえよう。

 

              『詩と思想』2018年5月号 2023年5月31日加筆修正

 

[i]私見だが、女性主導の母権的共同体から男性主導の父権的国家へと、社会体制が変化していく過程が、そこに反映されている、と私は考えている。母系、父兄/母権、父権という問題に踏み込むと議論が複雑にあるので、ここでは相互互助に基づく小規模集団の維持を志向する社会を母権的、社会的秩序や罰則などを定め、集団の拡大を志向する社会を父権的と、ゆるやかに定義するにとどめる。

[ii]その後、農具や武器を作るために必要な鉄を扱う力も手に入れ、冶金や窯業に欠かすことの出来ない火を生み出したところで、イザナミはホトを焼かれ、絶命する。オオクニヌシの国譲り譚と同様、不死である神の「死」とは、その神の体現する(象徴する)社会体制の「敗退」を暗示していると見ることができる。黄泉に下ったイザナミが人間に死を与える存在になり、地上に戻ったイザナギが、男神だけの単独の力で、アマテラスとツクヨミ、そしてスサノオを生み出すということも象徴的だ。その後は豊穣と殺戮の両面を持つ山姥伝説の中に、グレートマザーとしてのイザナミが温存されていくことになる。

 

 

「女性詩」成立の過程と周辺

〈私〉の物語をこそ――女性が女性の詩を読むということ

             (初出『詩と思想』2016年8月号 2020年3月加筆修正)

 「男女雇用機会均等法」の前段となる「勤労婦人福祉法」が制定されたのは、1972年。それから約半世紀後の2016年4月、今なお続く格差を是正するため、「女性活躍推進法」が施行された(1)。男女ともに既成の役割にとらわれない多様性を認め合う社会の早期実現を切に願う。

 〝現代詩〟の世界を見渡した時、この〝希望〟は既に実現されつつあるように見える。しかし今の状況に到るまでには、「女流詩人の詩」「女性詩」「いわゆる女性詩」「女性性の詩」と目まぐるしく“呼ばれ方”を変えながら(あるいは変えさせながら)、様々な抑圧や課題を克服してきた先達の奮闘があり、実作による説得力によって男性の意識を変革してきた歴史があるという事を忘れてはならないだろう。八〇年代「女性詩」の登場に到るまでの経緯とその後の展開を概観し、未来の詩の向かうべき方向を展望してみたい。

 

 《現代詩戦後六〇年年表》(2)を見ると、1945年の10月には《新潮》や《文芸春秋》などが復刊、翌月《鵬(FOU)》、12月には《爐》が創刊。翌年は《純粋詩》《新詩派》《コスモス》など、二十三もの詩誌が続々と創刊されている。この中に、詩誌《女性詩》の名が見える。

 《女性詩》創刊時のアンケートに対する男性詩人の回答が興味深い(3)

 〈私は感情の一時的衝撃による声帯や皮膚の詩が再び女性たちによつて作られることを望まない……詩が貴女たちの人生を通してその性格の宿命的なものとなるまで、永く執拗な執着を持続して頂き度いと思ひます〉(村野四郎)

 〈新しい女性詩は『女性らしい詩』なぞといふ言葉で甘やかされてはならない……女性は男性にくらべて神経が繊細で愛情が博愛的で観察が意地悪く出来てゐるからよい詩が作り易い筈である〉(近藤東)

〈女の詩人はこれからいい詩を書くことが出来るやうになるでせう……女の人は女の人の言葉で、そして女性特有の感じ方を正確に捉えれば『源氏』のやうな独自な作品も生まれるでせう〉(北園克衛

 このような激励を受けて、女性詩人たちは47年に「日本女詩人会」を創立させ、53年には『女性詩選集』を出し、54年の9月、アンソロジー『星宴』の刊行に到る。刊行5日後には早くも再版。期待の大きさがうかがい知れる。その中の一つの傾向に注目したい。

 

飛ぶ鳥を

一つの小石で落すのが

私の恋人はうまかった

でもおきき

あまい風に毒を盛ったことなんか

一度だってない

 

跳ねる魚を

ぐさりと刺すのが

私の恋人はうまかった

でもおきき

美しい海を辱めたことなんか

一度だってない                  (茨木のり子土人の証言」)

 

地球を反れる

西風(ゼフィール)のたより

 

赤い玉子にも

当てるガイガー・カウンター

 

もはや魚の形の

描けない指                (深尾須磨子「復活祭(一九五四)」)

 

1954年3月、第五福竜丸ビキニ環礁被爆している。悲惨さへの共感もさることながら、鮪など海産物の汚染は台所を預かる女性たちにとって切実な問題だった。53篇の寄稿作品のうち、直接水爆や放射能に触れた作品が7点。暗示的にうたうものを含めると、約2割の作品がこの事件に触れている。時局便乗的な反水爆スローガンのような生硬なものもあるが(現代詩人会が全国に公募した反原水爆詩のアンソロジー死の灰詩集』が同年10月に刊行されている)、〈小鳥らも放射能雨に翼を濡らして/暗い空を 飛びまどう〉(小山銀子「一九五四年の悲劇」)〈今日からは/私の のどは/人のことばを失いました/私ののどには/ふる里の/鳥や魚の片ことが刺さったまま/ひりひりと生きています〉(港野喜代子「故郷の使者」)などの作品からは、傷つけられた自然の代弁者たろうとする女性詩人たちの意欲が伝わってくる。

 戦後の〝男性詩〟が、多かれ少なかれ戦争の影を引いており、過去からの、あるいは絶望からの出発という傾向を持つのに対して、『星宴』に寄せられた女性たちの詩は過去ではなく今、あるいは未来の問題を、切実に率直に歌うものが多い。永瀬清子が『星宴』に寄せた詩は、〈私は一本の鎌/この野に燃えたっているものを刈るのは/私がこの世に抱いている/すべての情熱と憤りをしづめるためだ〉と始まる。白いブラウスの腕をまくり、〈わたしの国は戦争で負けた/そんな馬鹿なことってあるものか〉と〈卑屈な町をのし歩いた〉茨木のり子のように、絶望よりも怒りを伴う前進のエネルギーに満ちている(4)

 女性性の無意識的発現といわれる海や川、水のイメージも頻出する。

 滝口雅子の「歴史」は、海へと流れ入る川に自らの生と性の〝歴史〟を託しつつ、上質の官能をうたっている。〈岩にぶつかって のけぞって……しるされた傷の重たさだけが水底に沈む……幾度かその面にやさしい愛が燃え/落葉と共に流れた女のからだの思出……ばくはつする濃さで しびれる夢の短かさで……流れつづけることで海への遠い/ひそかな支度をする〉

 内山登美子の「愛」は、〈夜の翳りのような黒い愛〉をドラマチックに歌い上げる。〈女はしなやかな二つの腕をのばし/冷たく光る海のうろこを招びよせる/非情な刻の流れは/男と女を埋める落差にのたうち/密(ママ)をためた唇が/いま黒い海岸線を二つに割る〉

 編者の一人、一柳喜久子の詩は、妊もった鱒が艱難辛苦をものともせず、〈未来とは かくも遠く源にあるのか〉とため息をつきながらも〈鱒の緋血をうみつける/力泳の湖〉を目指して泳ぎ登るという力強さに溢れている。女性たちの活躍の場を、という熱い滾りが生んだ詩だろう。だが、想いの強さに比して、女性の詩の認知はなかなか進まなかった。

 〈女性詩人だけの集団というようなものにも、今日では全般には首肯できませんが、それが必然とされるところに、プロセスとしてもなお多くの理由があると思います……わけても、困難な実験を重ねて詩の新領土に邁進し、成果をあげている若い女性詩人達の態度に激励されつつ、その進路が無限に開かれるよう念願してペンをおきます。〉という深尾須磨子による『星宴』序の一節に、〈あのころは、私の場合、どこに投稿しても自分の場所がないという感じがありました。……女ばかりが集まるということに違和感もありました。だけど現実の場所として女の人がどんどん漏れてしまう。どこにも引っかからない。そういうもがきがあって、だからいびつだけれども、そこを掬ってくれる、詩の世界の底に網をかけるような感じで「ラ・メール」は機能していたと思うんです〉という小池昌代の所感を重ねてみる(5)。《ラ・メール》の創刊は83年。創刊号の編集後記には、〈発表と同時に各方面から予想外の関心を寄せられ、行く先々で創刊号はいつ出るのかと期待にみちた質問を受けた〉(新川和江)〈会員名簿が予想外の速度でふくれ上るにつれ、嬉しさと同時に緊張がつのる。こんなに多くの方たちから、われわれは〝未来〟の一部を預けられたのだ〉(吉原幸子)と記されている。30年前に一柳が〈かくも遠く〉と慨嘆した〝未来〟が、女性たち自らの手により、ようやく目前に拓かれようとしていた。

 

 《ラ・メール》創刊までに、社会にどのような変化が起きていたのか。1951年9月に結ばれたサンフランシスコ講和条約から83年までの間の社会状況を概観しておこう(6)

 〝朝鮮特需〟の追い風と共に、先人たちの血のにじむような努力によって成し遂げられた日本の戦後復興は、50年代半ばから70年代初頭までの高度経済成長をもたらした。50年代後半から60年代にかけての「家電」の普及は一般主婦層の家事の重圧を軽減し、社会進出を促すと共に、学ぶ意欲、表現する欲求も呼び覚ましていった。

 高田敏子が朝日新聞の家庭欄に「月曜日の詩」を連載し始めたのは、ちょうどこの頃のことだった。編集担当者から〈ほんとうの詩を書きたいでしょうが、当分はこのようなやさしい、お母さんたちにも分かる詩を書いてください〉と依頼されたという(7)。当時の連載詩をまとめた『月曜日の詩集』1962はベストセラーとなる。やがて高田は共感する女性たちのために、詩誌《野火》を創刊(1966~1989)。常時八百名もの会員を数えた。当時の高田の詩を一篇挙げたい。

 

花のつぼみの開くところがみたいと思っていた

小鳥がたまごからかえるところを

蝶がはじめてはばたくところを

 

そんな幼い願いを

いまも持ちつづける私の視線の中で

いま一りんのばらの花が

静かにくずれ落ちてゆく

いくにちかむきあい親しんだ花の

いのちの終り

ほどけ くずれ 散る姿を見ている

 

家族のもの眠る 夜のしじまに       (高田敏子「つめたい夜」『藤』1967)

 

 60年安保から70年安保のいわゆる「政治の時代」は、戦争を〝正義〟と信じた世代、成す術なく〝やり過ごした〟世代と、直接的に心身共にダメージを受けた世代、戦争を直接体験していないとしても親族などに生々しい記憶が残る世代の思想的な位相の差異が顕在化した時代ではなかったか。思春期、青年期の知的、身体的経験の差異を基盤として、自らの生き方、政治の在り方、日本の未来そのものへの思弁と共に烈しく自己を問い詰めていった先に現れる、激しい議論や批判の中から生み出された50年代〝戦後詩〟に続く60年代、70年代詩の時代。当時の〝前衛詩〟は、あらゆる既成概念を言語で覆そうとするかのような先鋭性を強めていた。その一方で、日常生活を深く見つめ、その底から浮上する普遍をとらえようとする作詩姿勢もまた、特に女性詩人たちを中心に堅持されていたといえる。

 男性詩人(前衛詩人)たちが烈しく時代と切り結んでいた頃に刊行された石垣りん『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』1959と白石かずこ『虎の遊戯』1960は実に対照的だ。〝書く〟ことで生の一端を刻んでいった石垣と、〝声〟に発することで新たな文体を獲得していった白石。白石かずこが「女性」や「婦人」の枠、いや、文学そのものの既成概念を突破しようとしていた頃、石垣りんは生計においても家事においても担い手であることを受容しつつ、逃げずに…むしろ諷刺やユーモアの力で書き手としての〝私〟の位置を保ちながら、赤裸々に家族を、家庭を見つめていた。

 石垣は働く女性として暮らしを見つめ、そこから社会をとらえようとした。高田は、妻として、母としての暮らしを詩においても実践しながらも、社会的役割に従属しない一人の人間として立つために必要なひとときの自由を、詩の言葉に書き留めていく。それは、社会が求める〝婦人〟の役割を果たしつつ自らの表現を探ろうとする困難な道でもあった。

 アメリカのビート・ジェネレーション(8)の影響を色濃く受けた白石かずこの『虎の遊戯』や『今晩は荒模様』1965等は、まさに〝家庭〟と対極にある。まるでメイ・ポールや御柱(おんばしら)のようにコスモス(花野のイメージと宇宙(コスモス)のイメージが重なる)の中に直立する男根(ファルス)の放つ祝祭性(「男根」)、アウトサイダー的男女の生活を弾むようなリズムで歌いながら、父性/母性といった根源的なものを問う思想性(「父性 あるいは 猿物語」)は、今読み返すと生々しい肉体性からはむしろ遠く、舞台をニューヨークの下町に設定した神話劇のような性格すら帯びている。白石の詩から、胎児が語るかのような「あっちの岸」の一節を引く。〈まだ人にならないぼくは/母の子宮の宿で 混沌と生命を創る作業をしているのだ/この母でさえよく知らない やわらかな/血のドームの内部は/外の世界より明るく 潮の満ちた宇宙だ……夜の闇の深みの中で/父はあるけどみえない目で/あるけど ふれえない母の心に/手さぐりで にじりよっていくのだ……ぼく まだ/誕生すらしたことない ぼく/子宮のせまいノドより いきなり死に/下水管を流れる汚水のように/永遠に名づけられることなく/罪をおかすことすらなく/光と空気の甘さを知らず/いくのだ//いきなり あっちの岸に/年へた死者たちの霊魂の森へと〉

 白石の詩からは、〝婦人〟の枠内に押し込められて葛藤したり、その壁を突破しようというような破壊衝動が感じられないことも大きな特徴だろう。最初から〝枠〟の外にいるのだ。白石が突破しようとしているのは文学の既成概念であって、そこには男女の差はそもそも存在していない。

 〝家庭婦人〟の親しむ詩は、生活に彩を添えたり、人生をより深くとらえる、自然を新しい視点で感受する、など、教養として俳句をたしなんだり、稽古事として和歌を学んだりする文化と通底している。精神的に充実した生活のために、このような「趣味」や「教養」としての詩の世界は、男女を問わず今後とも大いに拡大されるべきだと思う。一般主婦層の間に詩を愛好する土壌を提供し続けた高田の功績も、今一度検証されねばならないだろう。しかし同時に、〝婦人〟にはその範囲の自己表現しか許されないのか。あるいは〝婦人〟であることの外部においてしか、それは成し得ないのか、という疑問が生じるのも否めない。

 〈……わたしを名付けないで/娘という名 妻という名/重々しい母という名でしつらえた座に/坐りきりにさせないでください/わたしは風/りんごの木と/泉のありかを知っている風……わたしは終りのない文章/川と同じに/はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩〉(新川和江「わたしを束ねないで」《地球》42号1966)

 〝婦人〟の枠の内か外か、という立ち位置とは関わりなく、さらには性差にも関わりなく、自由な自己表現をするために必要な基盤は、まず何よりも〝個〟の確立である。わたし、とは何か。どのように生きたいのか、〝女性〟とは、何か……。高度経済成長期の日本を生きながら、女たちは、自分たちの在り方を自ら問い始めたのだった。

 心理学者の波多野完治によって生涯教育の理念が紹介され、(『生涯教育論』小学館1972)カルチャーセンターが続々と開講していくのもこの頃である(9)。「女性学」の理念が移入されたことも、女性たちの模索を後押しすることになった(10)

 その当時の女性の状況を、高良留美子は次のように端的に表明している。〈日本の女性は、これまであまりにも自分を意識することを、世間や社会通念の側に委ねてきた。それらによって「名づけられた」自分、「見られ、期待された」自分に同化することに満足してきた……ほんとうの自分、自分らしい自分などはとうの昔にどこかへ失ってきてしまっていた……それらの規範は、子どもを産むことができるという女の「自然」に依拠してはいるかもしれないが、女の「自由」に依拠してはいない。そしてその「自然」もまた、ほんとうの人間的な自然ではなく、他の活動や可能性から切りはなされた抽象的な自然に過ぎないのだ〉(11)

 男性(とりわけ青年層)が60年代、70年代に激しく改革を希求し、新しい生き方を求めつつ挫折していく一方、経済は順調に発展を遂げ、理念よりも利益、精神よりも物質が求められる時代になろうとしていた。職業婦人、家庭婦人の〝新しい生き方〟〝新しい価値観〟を求める流れが一気に加速し、旧来の枠組みを突き破ろうとするとき(12)、〝女であること〟を極端に突き詰めていく勢いが強まるのも自然な成り行きだったのかもしれない。

 80年代はいわゆるポストモダンの時代である(13)。(リオタール『ポストモダンの条件』1979年など。)世の中は消費推奨、明るい現世肯定の色彩が強まっていく。

 政治思想的な面についてみるならば、53年のスターリンの死以降も続いたスターリニズムも、やがて経済的混迷や強権政治などの政治的諸問題を露わにし、日本の左派イデオロギーにも懐疑がもたらされていった。思想的な潔癖さや純粋性の追求は、運動方針の衝突や党派的内紛の悲惨な隘路へと青年たちを追い込んでいく。1972年の「あさま山荘事件」は、その象徴となる事件だったろう。現状打開や抵抗の担い手としての左派への期待が失墜すると共に、学生運動は終焉を迎える。

 当時の前衛的男性詩人たちが、80年代半ば以降のバブル景気を先取りするかのように「ポップ」な時代性を詩において(作者の自己表現としてよりも、時代の肖像として)描き出していくのは、政治的抑圧(イデオロギッシュな立場表明を強いられるストレス)から解放されたゆえであったろうか。その分、言葉は浮力を増し、軽妙、饒舌に流出していく。それもまた、時代の肖像であったのかもしれない(14)。それに対して、女性はまだ、抑圧解放というエネルギーを(残念ながら)有していた時代だった。

 吉田文憲が〈八〇年代の伊藤さんたちの詩からは、なまなましい身体性が、それを男たちに対して挑発的に戦闘的に押し出すようなところが強く感じられた〉(15)と振り返るように、当時の「女性詩」には、〝女性特有のなにか〟を男性に叩きつけるような気迫がこもっていた。たとえば、伊藤比呂美の「きっと便器なんだろう」は、性を描きながらも、快感や官能の謳歌とは全く逆の即物的な描写を連ねつつ、〈あいしてなくたってできる、といったよね/このじょうのふかいこういを〉と、悲憤とも諦念ともつかぬ言葉を男に突きつける。女は〈体重と体温がわたしのしりを動き/畳の跡をむねに/きざみながらわたしはずっとIを/わすれていたIを忽然とIを〉想い出し、別の男との行為の間中想い続けている。(Iはかつての恋人の頭文字を装いつつ、私(アイ)/愛と同音でもある。)そして、〈あたしは便器か/いつから〉とつぶやくのだ。男の欲望の排泄の場所、としての便器。冷徹な自己批判もそこには含まれている。

 あるいは、『テリトリー論2』の「蠕動」や「霰がやんでも」。古今の文体、という時間の枠を飛び越え、文学の言葉と実用の言葉、卑語や詩語といった領域の枠を踏み越えて、うねるように増殖していく言葉の流れに圧倒されつつ――「大便みたいに」赤ん坊を産む、という率直さに心底納得してしまう。大きさや〝価値〟は月とスッポンだが、出産を体験した者なら、筋肉の使い方や身体の使い方といった最も生理的なレベルで、この言葉が真実であることを体感しているだろう。フェミニズム的には「母性(神話)の解体」などと価値づけられる作品であるが、それは後付けの〝意味〟に過ぎない。伊藤はフェミニズムという枠に取り込まれることすら拒否しているからだ。自己の感性に徹底的に正直である事が生む伊藤のラディカリズムは、既成の「女性」という枠を破壊し、文学における〝自由〟を、最も先鋭的な形で展開して見せたと言えるのではないだろうか。伊藤や井坂洋子らの「挑発」は多くの若者に影響を与えずにはおかなかった(16)

 〈八〇年代の投稿欄はどうか……知にからめとられない感受性全開の詩、あられもない性的描写、生々しい胎児や血やゴミ、家族や幼児期への執着、直喩やリフレインやオノマトペ、物語性、土俗性、差別語、在日の実存主義、生きることの罪悪感、ニューミュージックまがいの恋愛詩……そこからは、資本主義のブルドーザーがめくり続ける地面の、悲しく湿った匂いがする〉(17)

(男女を問わず)多くの投稿者たち、そして女性詩人たちが、時に戦闘的に、時に〈自分の身近にある性を詩のなかに入れてもいいんだ、お行儀悪くてもいいんだっていう〉(18)

 開放感を謳歌しながら生み出していく作品は、概念化されようとする「女性詩」という枠を逸脱し続けた。男性読者(評者)に対する戦闘的(挑発的)な姿勢には、例えば鈴木志郎康が(他者の対象化と、羞恥を踏みつけて他者に至ろうとする現在の性表現の方向性は、観念に基づくのではなく、身体的関係の中での自己否定であるから)〈セックスの表現を行うものは、その意味を自覚して、一層観念的にならなくてはいけないのではないか〉と述べたり、石川逸子が(万葉における性は、心の愛と離れることがないから)〈卑俗でなく、気高さがある〉と記すように男女を問わず疑問の声が投げかけられたが(19)、そうした相互批判や激しく変動していく「女性詩」の実相をとらえ直す場として《ラ・メール》は機能を果たしていく(20)

 〈女性の詩を巡る問題として、女性の文学作品を「権威をもって読み、判定し、分類し、位置づける仕事は、ほとんど男性の批評家や研究者の手に委ねられてきた。そしてその結果、しばしばテクストそのものが充分に解読されないまま、〈女流〉文学として文学という制度の周縁部に置かれてきた〉(21)という歴史がある。先にも述べたように、「女性学」が日本に紹介されたのは70年代初頭だった。ようやく、女性自身が女性とは何か、と問い、社会における立ち位置や状況を分析し、創作活動との関わりにおいて捉えるという環境が整ったのである。それは同時に、「女性」、「私達」という概念から解放されて(あるいは解除されて)、「私」を問う事でもあった(22)

 《ラ・メール》に対して、女性の囲い込みである、という批判もあったようだが、異性の目を意識しないことで、むしろ本来の女性性――押し付けられた既成概念や、男性に対する肩ひじ張った反発ではなく、女性の自然に根差した女性の力――が目覚める、という大きな成果があったと考える。そして、女性の詩の多様性という〝事実〟が、新井豊美『[女性詩]事情』1994、麻生直子編『女性たちの現代詩』2004、水田宗子『モダニズムと〈戦後女性詩〉の展開』2012、たかとう匡子『私の女性詩人ノート』Ⅰ、Ⅱ2014、2017など(その他、多くの詩誌で現在も続いている女性が女性の詩を読む、という意識的な試み)を生む原動力ともなり、女性による批評に照射されてまた新たな詩が生まれる、という能動的な循環をもたらしたのではなかろうか。性差よりも個々人の歴史や価値観の差異が重視されることにより、男女が共に持つ「女性性」という、より根源的なものが露わになってきたのである。

 今さら「女性」というくくりは必要ない、という考え方もあるかもしれないが、日の浅い均衡は危うい。女性が自らの自然の声を聞きながら、女性の作品を読む、という行為は継続されねばならない。女性の視点で男性の詩を読む、という行為の中から、男性が見落としていた新たな発見が生まれるのではないか、という予感も強く抱いている。

 90年代以降、性差を越えた、本来の身体性に焦点があてられるようになった。とりわけ震災後は〝個〟の生存の奥深いところから発せられる生命の声が、強く求められているように思う。身体感覚、五感、あるいは詩的第六感と結びついた、肉体が感じ取る「声」「気配」のようなものを感じる力。対立ではなく共感や共苦、つながることを志向する力。支配ではなく共生、共存。柔軟な許容性。女性や民族という集団ではなく、個としての「私」の歴史を思うこと、物語ること。〈どこにいるかわからないけれども、「あなた」という一人に呼びかけること〉(23)

 具体的に作品を例示するなら(あくまでも一例、であるが)歴史や血脈、土地の息吹を直に感じ取り、そこから発しているような言葉が鮮烈な新井高子『ベットと織機』(2013)、時空を超えた死者たちと交信するような野木京子『明るい日』(2013)、魂だけが訪問することのできるような異界を鮮やかに現前させる草野理恵子『パリンプセスト』(2014)、流れるような語りのリズムの中から過去の「私」がにじみ出ると同時に、想像力の力によってのみ存在するもう一つの町からやって来る、生命力や突破力の象徴のような〝虎〟をリアルに体感させる川口晴美の『Tiger is here』(2015)、主婦の孤独、冷え冷えとした心象を大胆かつ象徴的に描き出した荒川純子『Viva Mother Viva Wife』(Viva Womanではないことに注目したい。2015)などを挙げたい。一冊一冊深く読みこみつつ紹介したい作品ばかりだが、紙幅の都合上、名を挙げるに留めておく(2016年現在)。

 心の目や耳で感受した主観的な〝真実〟を、肉体の感官で習い覚えた伝達可能な言葉で他者に手渡していくことが、今、求められている。仮に男性的/女性的という区分に理性的/感性的、論理的/感情的、という言葉を充てるなら、詩は本来女性的なものだ、ともいえる。男性の中の女性性、女性の中の男性性を目覚めさせることによって、相互に読む力/感じる力を呼び覚まし、新たに書く力へとつなげていくことが出来たら、さらに豊かな詩の地平が拓けていくに相違ない。男女が共に読み合い、相互触発的な批評性を内に秘めた詩が生まれ続けることを願ってやまない。

 追記:2019年、『詩と思想』3月号の新川和江特集座談会で、高良留美子は(現代は)「近代」が壊れてしまった、と発言していた。人間性の尊重、自由や平等の重視といった「明」である近代的価値観と、合理性、機能性、経済性を重視し、多数者が小数者を抑圧するという「暗」を生み出す近代的社会システム。高良は、「明」の価値観が建前に過ぎないことがわかってしまった・・・いわば、「暗」の近代が時代を食い破ってしまったことを「近代が壊れた」と表現していたように思う。マジョリティーが詩を生み出すエネルギーをなくしていて、マイノリティーの方が面白い詩を書いている、という指摘もあった。社会的抑圧を跳ね返そう、突き破ろうとするエネルギーが生み出す詩に期待を抱いているということか。精神的抑圧、社会的抑圧を突き抜けて生まれてくる詩。生きづらさとどう向き合っていくのか、そこに文学はどう向き合うのか、という課題、近代社会システムが産み出した人間の疲弊について、これからも考えていかねばならないと思う。

 

1)2012年度WHOの統計によると、日本の自殺率は世界で9位、〝先進国〟の中ではワースト1。内閣府の「自殺対策白書」によると、日本は男性が2.5倍女性より高いものの、他国に比して女性の比率が高い。男女比で換算すると、日本の女性の自殺率は世界5位、男性は12位となる。

2)深澤忠孝編「現代詩戦後60年年表1945・8~2004」『戦後60年〈詩と批評〉総展望』思潮社2005

3)中村不二夫「戦後詩研究Ⅴ女性詩の主張と展開」『廃墟の詩学』土曜美術社2014より転載

4)「わたしが一番きれいだったとき」より。

5)「性差を越えたゆらぎ 女性の詩、この10年」新井豊美×吉田文憲×小池昌代鼎談《現代詩手帖》11月号2004

6)そもそも、辞書的な意味での「戦後」について考えるならば、日本は「戦後」だったが、世界はそうではなかった。50年朝鮮戦争、55年ベトナム戦争(~75)、61年ベルリンの壁着工・・・40年代末から、ほぼ10年周期で繰り返された中東戦争(第1次~第4次)。75年~90年のレバノン内戦(第5次中東戦争)。

7)久冨純江『母の手 詩人・高田敏子との日々』光芒社2000

8)1950年前後、ニューヨークのアンダーグラウンド社会で生きる、非遵法者の若者たちを総称する語として生まれた。

9)50年代に産経学園、毎日文化センターが既に開講されていたが、朝日(73年)、NHK(79年)、読売(81年)など、70年代以降に盛況を呈している。

10)婦人公論読者詩を関根弘が編集した『詩集 女の机』土曜美術社1973の宣伝文は〈本書は家庭の中に「島流し」されている女たちの絶望の深さから生まれた…女たちを家庭に「島流し」している男たちもまた独占の管理体制から「島流し」されているのである〉だった。

11)高良留美子『高群逸枝ボーヴォワール亜紀書房1976

12)円地文子ら8名の女性が編んだ『近代日本の女性史』シリーズ(集英社1980~)の宣伝文は〈女から女へ、新しい灯は掲げられてきた〉〈73とおりの「女の一生」をおさめました〉

13)先がけて、ロラン・バルトの『作者の死』1967、入沢康夫『詩の構造についての覚え書』1968が刊行されていることも記憶にとどめておきたい。

14)やがて、冷戦構造自体が消滅し(89年ベルリンの壁崩壊、91年ソ連崩壊)、 〝理想〟や〝正義〟といった表面的な善に糊塗された衝突が、経済格差や覇権争いという実相の生々しさを露呈していくことになる。(90~91年湾岸戦争、90~94年のルワンダ内戦、2001年9.11アメリ同時多発テロ、2001年~アフガニスタン紛争etc.)

15)《現代詩手帖》11月号2004

16)「売り出すときは「女」で売り出せるのだ。とくに詩は。女の感性、女の生理、このコトバで男たちはよーいに感動してくれる。でも問題はその後だ。……女の詩を読んでいいなーと思っているのは、まず男だ。それがみんな同じ読み方で読んでいる……くやしい。不満がいっぱいある」伊藤比呂美「みんなひっくるめてA子なのだ」《ラ・メール》創刊号1983

17)河津聖恵「現代詩システム」を食い破るバブル・身体性・大文字の他者――80年代投稿欄再見『パルレシア 震災以後、詩とは何か』思潮社2015

18)「身体性/批評性の行方 前世紀の女性詩人達」新井豊美×井坂洋子×河津聖恵鼎談《現代詩手帖》2月号2002 井坂洋子の発言より引用

19)第二次『詩と思想』10号特集「詩と性」1980

20)〈〈女性詩〉の概念はいつごろから流通するようになったのだろうか。カルチャー・センターなどを通じて、詩を書く女性が多くなり、また、二十代の若い女性詩人たちの活躍が目立つようになった、ここ数年のことだと思う……いまから十年ほど前に……『現代女性詩人叢書』(78巻)の全巻解説を書いた大岡信の文章のなかには、この概念はなかった……これから〈女性詩〉の概念が、女性詩人たちの実際の作品営為とともに、どう熟すのか、廃れるのか……詩における〈おんな性〉とは、それを越えることによって輝くものであり、そこに〈女性詩〉が生まれてしまったら終りではないか〉北川透「〈おんな性〉を読む」《ラ・メール》創刊号1983

21)岩淵弘子・北田幸恵・高良留美子編『フェミニズム批評への招待 近代女性文学を読む』學藝書林1995 高良留美子による「はじめに」より引用

22) 河津聖恵「わたし」から「世界」へ、「世界」から「わたし」へ 九〇年代末、「女性詩」はどうなっているか《現代詩手帖》9月号1999

23) 「ラクダが針の穴を通るとき 3.11後の時代と女性の言葉」シンポジウム誌上採録 パネラー河津聖恵 岡島弘子 中村純《詩と思想》9月号2015

 

今、「囚人」を読むということ―三好豊一郎「蒼ざめたvieの犬」考

 紺色の揉み紙の地に、朱の文字で 囚人 と記されている。1949年、岩谷書店刊、著者は三好豊一郎(1920~1992)。後書きによれば、前半部の総題「青い酒場」には44年以降の作が、後半の「天の氷」や「巻貝の夢」には39年より43年までの作が収められている。三好が中桐雅夫の詩誌『LE BAL』に参加した39年は、中ソ国境付近のノモンハンで日本軍が大敗を喫っした年でもあった。(三好が元号ではなく西暦を使用しているので、西暦を用いる。)

 集中、唯一年号を付した作品がある。「一九四一年冬の嘔吐」という副題のある「捧ぐ」。開戦の年、三好は何を想っていたのか。

 

(前略)

私は純粋な詭弁だけしか持つてはいない

けれど 私は誇る 乾いた豊かな沙漠を

毒物も生えず 人の通らぬ

赫熱の夢想を 沈黙の献身を

(…中略…)

かなしい権力を水に落ちた太陽のなかで

私は強く主張する

かすかにわななきながら

愛と宿命の酒精の悲哀に耐へながら

 

 言葉しか持たない者の無力を自覚しつつ、なおも心の中には、赫熱の夢想が燃えているのだ。少なくともこの時点においては、まだ……。

 その頃、三好は肺結核により徴兵を猶予されていた。同郷の詩人難波律郎の眼には、兵役忌避のための〈極端な減食による肉体破壊〉に見えた。〈当時三好の詩作は旺盛であった……足袋屋の二階の一間を借り……一連の散文詩「巻貝の夢」を、青ケイ和紙の原稿用紙に毛筆できざんでいた〉という。(「黒髪の三好豊一郎」『Poetica』9号 小沢書店1993)

 戦後の『荒地詩集』(1953年版)に載せた評論「基督磔刑図」によると、当時の三好をとらえていた「不安」は、夢や自由が断たれるという個人的な問題よりも、〈冷酷無比な自然の破壊力と同様な、否それ以上の凶暴な力の支配する人間世界は悪夢とも、地獄ともいえようが、この暗愚な力を駆使する真の源泉が人間の何所にひそむのか、私は理解に苦しんだ。〉という、より根源的な問いから発していた。三好は壮絶なリアリズムで「死」を描きだした北方ルネサンス磔刑図を見つめ、ダンテの地獄や源信の『往生要集』、ドストエフスキーの『白痴』やユイスマンスの『彼方』など、人間の善悪を問い、あるいは終末論的世界観を示す作品に傾倒しつつ、人間と時代への絶望感を強めていく。

 散文詩群「巻貝の夢」は、こうした根源的な不安を主題としている。〈あらゆる現象が急速に、破滅的に一つの終末に近づきつゝあるとき、錯乱は到る所に現れる一つの痙攣的な自我のあがきである。私のこの詩集もその一例に洩れないであらう。〉(「弁明」詩集後書き)「巻貝の夢」のパートに収められた「蜘蛛」の中で、詩人は浄らかな超俗の世界、あるいは死による安息への逃避願望を描く一方、〈自ら望んだ囚徒(・・)の運命〉を甘受し、〈肉体に還つて〉来なければならない魂の苦悩を、悪夢的幻想の内に精神的現実として示している。(傍点筆者)

 

 時代と肉体の囚人として、三好は祈らずにはいられなかった。

 

(前略)

凍つて寒い冬の夜空をひとすじ裂いて

夢におびえた犬の遠吠え

私はめざめてそれを聴いた

それは病める大地に接吻(くちづけ)ける人の

つめたい頬の方にまで流れていつた

おそれにおののく祈りのやうに

嘲笑(あざけ)りふるへる呪詛のやうに

 

噫 これら不眠の声を聴くか?

主よ イエス・キリスト。      (「夜更けの祈」)

 

 三好は、額縁の中から抜け出して〈俺の胸を踏み越えて室内を歩き廻〉り、嘆くイエスの幻影と出会いさえする。(「部屋」)

 キリストですら、嘆く他に為すすべのない終末への不安の中で、しかもなお三好は書くことへの意欲を失ってはいなかった。

 42年の秋、中桐や鮎川が出征し、〈詩を書く意欲がまったくなくな〉った田村隆一は、入営前に〈どうせ死ぬなら、モダニストらしく合理的に死んでやるんだ、詩を書かないで、詩を実行(・・)してやるんだ〉という手紙を三好に送った。三好からは〈ヤケにならないでくれ〉という返信が返ってきたという。(田村隆一「青春と戦争」『現代詩との出会い』思潮社2006)三好は詩を書き続け、43年に難波律郎と共に詩誌『故園』を創刊する。

 この頃の作品には、生者の驕りを問いかけたり、苦悩から逃れて、死の安息を願うものが多い。〈彼は死んだ。俺はこの通り歩き眺め喰ふことも出来るが彼は早冷たい一握の土くれか。彼がいかなるものであつたらうとも――人々はかくつぶやきながら、彼が再び我が生に物問ひたげに立ち現れることのないやうに。我が安眠をおびやかしに来ることのないようにと〉願いながら立ち去っていく。墓地には、〈言ふべくは口を閉され、動くべく足は埋り、風雨のなかにみじろがず、内にいつぱいの言葉を蔵しながら、凝然と眼を閉ぢて……〉死んで行った者が残される(「碑」)。〈さあ苦悩よ 静まつておくれ。様々な不安や疲労やすべて己れの無力さから 梢をもれる午後の光線のやうにわなないてゐた魂よ……俺は横たはる 孤独の臥床に さゝやかな天国に 解放された罪人のひそやかな安息に……神の与へ給える安息の御手に。……苦悩よ、静まつてお呉れ〉(「無題」)

 

 44年、ついに難波律郎も出征していき、同世代の詩を書く仲間は周囲から姿を消した。三好は詩的孤独の中で、『囚人』前半に収められた一群の作品を書き始める。かすかな希望としての祈りや呼びかけすらも姿を消し、代わりに〈死の黒い輪郭〉であるかのような自分の影、〈過ぎ去ったさまざまの夢〉を映し、しかも眼前に立ちふさがる〈壁〉、〈絶望〉、そして〈不眠〉が描き出されていく。

 〈私の左の肺の尖端には虫の喰つた穴がある〉と始まる「青い酒場」を見てみよう。自分の肺の穴から見える酒場に〈ギタアを持つたやせて小さな男がひとり〉座っている。〈風と共に這入つてくるのは、凍えつきさうな悔恨ばかり〉であり、〈床に落ちた男の影の中には、いつの間にか、/一匹の犬が住みついてゐる/男のもてあました絶望を喰つて太つてゆく、度し難い奴だ。〉

 肉体を蝕む死の不安と、時代への絶望によって肥える犬。「四月馬鹿」という詩では、ついに〈おれははひ廻つてゐる/苦痛が背中にかみついてゐる/おや 毛並がある 尻尾もある/裸だ!/(何てざまだ)/一つの声が言ふ/人間は素通りする〉と三好が犬になってしまう。まるで、犬が実体化し、三好の意識がその影に逆転してしまったかのようだ。しかも、この犬は三好ただ一人の他には、誰にも見えないのだ。

 

 犬と絶望はいつ結びついたのか。三好は当時、グリューネヴァルトの「磔刑図」を見て〈異様な感動〉に捉えられたと記している。三好は〈断末魔の苦痛をたゝえた完全な腐爛しつつある屍〉として描かれたキリストを、〈現実の苦悩があり、批判精神と時代の動乱、過渡期に生きる人間の鋭敏な感受性がみなぎっている〉作品であり、画家が時代の姿を描き出したものと見ていた。三好はユイスマンスの描写を引いて、〈忌まわしく弱々しい肉体を持って、天の父から捨てられ〉〈いやが上にも苦しみ喘ぎ、遂には山賊のように、野犬(・・)の(・)よう(・・)に(・)汚く卑しく……腐肉を曝す屈辱と膿汁に塗れる未曽有の侮蔑〉の内に死ぬ〈基督〉の図像に衝撃を受けたことを記している。〈その歪曲の虚構性を支え〉ているのは、宗教改革期を生きた画家の、〈熱狂的な信仰の幻想〉〈時代の悲劇と情熱と信仰の劇しい人間体験の血〉そして〈時代の人間としての苦悩〉を描きだそうとする〈はげしい表現意欲〉であり、〈私はここに時代の運命を生きる芸術家を見る〉(三好豊一郎「基督磔刑図」、北川透「蒼ざめたvieと自然回帰」1982『北川透現代詩論集成』1巻 思潮社2014 傍点筆者)

 

 三好も、時代を描いた詩を残すことを欲し、そのことで孤独と絶望に耐えていた。終末を予感していた三好は、黙示録からも多くの示唆を得ていたことだろう。(後に『黙示』という作品を残してもいる。)黙示録の22章に、犬が登場する。再臨の預言が宣べられた後、〈犬のような者……人を殺す者……すべて偽りを好み、また、行う者は都の外にいる。〉都の外、とは、救済を拒絶されるということである。

 迫りくる肉体の死と時代の死の不安、詩友も失った孤独の中で生まれた「囚人」を、ここでもう一度読み直してみよう。

 

真夜中 眼ざめると誰もゐない――

犬は驚いて吠えはじめる 不意に

すべての睡眠の高さに躍びあがらうと

すべての耳はベツドの中にある

ベツドは雲の中にある

 

孤独におびえて狂奔する歯

とびあがつてはすべり落ちる絶望の声

そのたびに私はベツドから少しづつずり落ちる

 

 絶望を喰って太った犬が、真夜中、孤独におびえて吠えはじめる。雲の中で眠る、死の安息を与えられた者たちの耳に、叫びは届かない。同じ場に至りたいという願いもかなわない。

 

私の眼は壁にうがたれた双ツの穴

夢は机の上で燐光のやうに凍つてゐる

天には赤く燃える星

地には悲しげに吠える犬

(どこからか かすかに還つてくる木霊)

 

 立ちふさがる壁を前に、現実を見定めねばならない眼の苦しみ。天には~地には、という歌うような一節は、「天には栄光、地には平和」と謳う讃美歌を思わせるが、地には絶望が吠えているばかり。〈赤く燃える星〉は、さそり座のアンタレスだろう。自死の幻影を描いた「室房にて」にも、それと思しき星が描かれている。〈さそり座の尾が地平に低く 強烈な光を放つとき/私は孤独の室房で安じて瞑想する……さうして人間たることの唯一の証し/己が自愛の要求に応へるに/剃刀を軽く咽喉にふれて引く〉ここには、黙示録の九章のイメージが重なる。第五の天使がラッパを吹くとき、天から星が落ち、底なしの淵から人面の怪物のようなイナゴの群れが現れ、〈さそりが人を刺したときの苦痛〉を人々に与える。人々は、〈死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く〉という一節である。

 

私はその秘密を知つてゐる

私の心臓の牢屋にも閉ぢ込められた一匹の犬が吠えてゐる

不眠の蒼ざめたvieの犬が。

 

 青春の謳歌を阻まれたという、同世代に共有されていた意識の域を超えて、三好の視野は常に世界に向かっていた。「囚人」を書いた当時、秘密とは世界の終末への予感であったろう。「基督磔刑図」でも、〈戦争は終ったが、それは新たな辛酸への出発であった。〉〈現実が益々露骨に抽象的機械主義を以て、生命をしめつけてくるに従い、人間の精神は萎縮してゆくであろう。〉と暗い予感を示している。精神は薔薇色のvieを生きるどころか、蒼ざめてやせ細っていくばかりだ。世界を崩壊させるような〈暗愚な力〉を、その出所の由来を問うことなく生きていていいのか。言葉を封じられたまま死んでいった者たちの無念を、自らのものとして引き受けなくてよいのか。

 叫んでも、誰の耳にも届かない。〈私の心臓の牢屋〉にも、悲しげに吠える事しかできない犬が閉じ込められている。犬は、三好の魂の自画像であると共に、時代の肖像でもある。生きることも死ぬことも宙づりにされ、世界の崩壊におびえ続けた青春。「囚人」はそんな魂の懊悩を、〈蒼ざめたvieの犬〉というイメージに凝縮した作品なのである。

 

 三好の「囚人」が多くの人の眼に触れるのは、戦後に創刊された第二次『荒地』誌上においてであった。この号には、戦病死した森川義信の「勾配」と三好の「囚人」が掲載され、巻末に森川と三好の詩作品を題材とした鮎川信夫の評論「暗い構図」が置かれている。戦後に創刊される詩誌に、あえて戦中に書かれた作品を載せた意図は、戦時中には見るべき詩は無かった、戦時中は現代詩の空白期だった、という先行世代の詩人たちの認識に対する、激しいアンチテーゼでもあったろう。(中村不二夫『廃墟の詩学』土曜美術社2014等)

 1951年の『荒地詩集』に、三好は「囚人」や「青い酒場」を含む十四篇の詩を寄せたが、その時の総題は「希望」であった。〈僕達と同じように現代を荒地と考えている君は……どんな言葉の甘美な表現よりも、自己の現実の悩みの方が遥かに未来を孕んでいることに気づいている筈である〉(鮎川信夫起草、荒地同人による序文「Xへの献辞」)

 暗い青春の記念であったとしても、たしかに自分が生きていたことを証する言葉。絶望の声に応じるかすかな木霊を聴く、という控えめな断言の中に、未来の読者に向けた三好の希望が託されているような気がしてならない。

 

                    『詩と思想』2015年3月号掲載原稿に加筆

今、「囚人」を読むということ―三好豊一郎「蒼ざめたvieの犬」考

 紺色の揉み紙の地に、朱の文字で 囚人 と記されている。1949年、岩谷書店刊、著者は三好豊一郎(1920~1992)。後書きによれば、前半部の総題「青い酒場」には44年以降の作が、後半の「天の氷」や「巻貝の夢」には39年より43年までの作が収められている。三好が中桐雅夫の詩誌『LE BAL』に参加した39年は、中ソ国境付近のノモンハンで日本軍が大敗を喫っした年でもあった。(三好が元号ではなく西暦を使用しているので、西暦を用いる。)

 集中、唯一年号を付した作品がある。「一九四一年冬の嘔吐」という副題のある「捧ぐ」。開戦の年、三好は何を想っていたのか。

 

(前略)

私は純粋な詭弁だけしか持つてはいない

けれど 私は誇る 乾いた豊かな沙漠を

毒物も生えず 人の通らぬ

赫熱の夢想を 沈黙の献身を

(…中略…)

かなしい権力を水に落ちた太陽のなかで

私は強く主張する

かすかにわななきながら

愛と宿命の酒精の悲哀に耐へながら

 

 言葉しか持たない者の無力を自覚しつつ、なおも心の中には、赫熱の夢想が燃えているのだ。少なくともこの時点においては、まだ……。

 その頃、三好は肺結核により徴兵を猶予されていた。同郷の詩人難波律郎の眼には、兵役忌避のための〈極端な減食による肉体破壊〉に見えた。〈当時三好の詩作は旺盛であった……足袋屋の二階の一間を借り……一連の散文詩「巻貝の夢」を、青ケイ和紙の原稿用紙に毛筆できざんでいた〉という。(「黒髪の三好豊一郎」『Poetica』9号 小沢書店1993)

 戦後の『荒地詩集』(1953年版)に載せた評論「基督磔刑図」によると、当時の三好をとらえていた「不安」は、夢や自由が断たれるという個人的な問題よりも、〈冷酷無比な自然の破壊力と同様な、否それ以上の凶暴な力の支配する人間世界は悪夢とも、地獄ともいえようが、この暗愚な力を駆使する真の源泉が人間の何所にひそむのか、私は理解に苦しんだ。〉という、より根源的な問いから発していた。三好は壮絶なリアリズムで「死」を描きだした北方ルネサンス磔刑図を見つめ、ダンテの地獄や源信の『往生要集』、ドストエフスキーの『白痴』やユイスマンスの『彼方』など、人間の善悪を問い、あるいは終末論的世界観を示す作品に傾倒しつつ、人間と時代への絶望感を強めていく。

 散文詩群「巻貝の夢」は、こうした根源的な不安を主題としている。〈あらゆる現象が急速に、破滅的に一つの終末に近づきつゝあるとき、錯乱は到る所に現れる一つの痙攣的な自我のあがきである。私のこの詩集もその一例に洩れないであらう。〉(「弁明」詩集後書き)「巻貝の夢」のパートに収められた「蜘蛛」の中で、詩人は浄らかな超俗の世界、あるいは死による安息への逃避願望を描く一方、〈自ら望んだ囚徒(・・)の運命〉を甘受し、〈肉体に還つて〉来なければならない魂の苦悩を、悪夢的幻想の内に精神的現実として示している。(傍点筆者)

 

 時代と肉体の囚人として、三好は祈らずにはいられなかった。

 

(前略)

凍つて寒い冬の夜空をひとすじ裂いて

夢におびえた犬の遠吠え

私はめざめてそれを聴いた

それは病める大地に接吻(くちづけ)ける人の

つめたい頬の方にまで流れていつた

おそれにおののく祈りのやうに

嘲笑(あざけ)りふるへる呪詛のやうに

 

噫 これら不眠の声を聴くか?

主よ イエス・キリスト。      (「夜更けの祈」)

 

 三好は、額縁の中から抜け出して〈俺の胸を踏み越えて室内を歩き廻〉り、嘆くイエスの幻影と出会いさえする。(「部屋」)

 キリストですら、嘆く他に為すすべのない終末への不安の中で、しかもなお三好は書くことへの意欲を失ってはいなかった。

 42年の秋、中桐や鮎川が出征し、〈詩を書く意欲がまったくなくな〉った田村隆一は、入営前に〈どうせ死ぬなら、モダニストらしく合理的に死んでやるんだ、詩を書かないで、詩を実行(・・)してやるんだ〉という手紙を三好に送った。三好からは〈ヤケにならないでくれ〉という返信が返ってきたという。(田村隆一「青春と戦争」『現代詩との出会い』思潮社2006)三好は詩を書き続け、43年に難波律郎と共に詩誌『故園』を創刊する。

 この頃の作品には、生者の驕りを問いかけたり、苦悩から逃れて、死の安息を願うものが多い。〈彼は死んだ。俺はこの通り歩き眺め喰ふことも出来るが彼は早冷たい一握の土くれか。彼がいかなるものであつたらうとも――人々はかくつぶやきながら、彼が再び我が生に物問ひたげに立ち現れることのないやうに。我が安眠をおびやかしに来ることのないようにと〉願いながら立ち去っていく。墓地には、〈言ふべくは口を閉され、動くべく足は埋り、風雨のなかにみじろがず、内にいつぱいの言葉を蔵しながら、凝然と眼を閉ぢて……〉死んで行った者が残される(「碑」)。〈さあ苦悩よ 静まつておくれ。様々な不安や疲労やすべて己れの無力さから 梢をもれる午後の光線のやうにわなないてゐた魂よ……俺は横たはる 孤独の臥床に さゝやかな天国に 解放された罪人のひそやかな安息に……神の与へ給える安息の御手に。……苦悩よ、静まつてお呉れ〉(「無題」)

 

 44年、ついに難波律郎も出征していき、同世代の詩を書く仲間は周囲から姿を消した。三好は詩的孤独の中で、『囚人』前半に収められた一群の作品を書き始める。かすかな希望としての祈りや呼びかけすらも姿を消し、代わりに〈死の黒い輪郭〉であるかのような自分の影、〈過ぎ去ったさまざまの夢〉を映し、しかも眼前に立ちふさがる〈壁〉、〈絶望〉、そして〈不眠〉が描き出されていく。

 〈私の左の肺の尖端には虫の喰つた穴がある〉と始まる「青い酒場」を見てみよう。自分の肺の穴から見える酒場に〈ギタアを持つたやせて小さな男がひとり〉座っている。〈風と共に這入つてくるのは、凍えつきさうな悔恨ばかり〉であり、〈床に落ちた男の影の中には、いつの間にか、/一匹の犬が住みついてゐる/男のもてあました絶望を喰つて太つてゆく、度し難い奴だ。〉

 肉体を蝕む死の不安と、時代への絶望によって肥える犬。「四月馬鹿」という詩では、ついに〈おれははひ廻つてゐる/苦痛が背中にかみついてゐる/おや 毛並がある 尻尾もある/裸だ!/(何てざまだ)/一つの声が言ふ/人間は素通りする〉と三好が犬になってしまう。まるで、犬が実体化し、三好の意識がその影に逆転してしまったかのようだ。しかも、この犬は三好ただ一人の他には、誰にも見えないのだ。

 

 犬と絶望はいつ結びついたのか。三好は当時、グリューネヴァルトの「磔刑図」を見て〈異様な感動〉に捉えられたと記している。三好は〈断末魔の苦痛をたゝえた完全な腐爛しつつある屍〉として描かれたキリストを、〈現実の苦悩があり、批判精神と時代の動乱、過渡期に生きる人間の鋭敏な感受性がみなぎっている〉作品であり、画家が時代の姿を描き出したものと見ていた。三好はユイスマンスの描写を引いて、〈忌まわしく弱々しい肉体を持って、天の父から捨てられ〉〈いやが上にも苦しみ喘ぎ、遂には山賊のように、野犬(・・)の(・)よう(・・)に(・)汚く卑しく……腐肉を曝す屈辱と膿汁に塗れる未曽有の侮蔑〉の内に死ぬ〈基督〉の図像に衝撃を受けたことを記している。〈その歪曲の虚構性を支え〉ているのは、宗教改革期を生きた画家の、〈熱狂的な信仰の幻想〉〈時代の悲劇と情熱と信仰の劇しい人間体験の血〉そして〈時代の人間としての苦悩〉を描きだそうとする〈はげしい表現意欲〉であり、〈私はここに時代の運命を生きる芸術家を見る〉(三好豊一郎「基督磔刑図」、北川透「蒼ざめたvieと自然回帰」1982『北川透現代詩論集成』1巻 思潮社2014 傍点筆者)

 

 三好も、時代を描いた詩を残すことを欲し、そのことで孤独と絶望に耐えていた。終末を予感していた三好は、黙示録からも多くの示唆を得ていたことだろう。(後に『黙示』という作品を残してもいる。)黙示録の22章に、犬が登場する。再臨の預言が宣べられた後、〈犬のような者……人を殺す者……すべて偽りを好み、また、行う者は都の外にいる。〉都の外、とは、救済を拒絶されるということである。

 迫りくる肉体の死と時代の死の不安、詩友も失った孤独の中で生まれた「囚人」を、ここでもう一度読み直してみよう。

 

真夜中 眼ざめると誰もゐない――

犬は驚いて吠えはじめる 不意に

すべての睡眠の高さに躍びあがらうと

すべての耳はベツドの中にある

ベツドは雲の中にある

 

孤独におびえて狂奔する歯

とびあがつてはすべり落ちる絶望の声

そのたびに私はベツドから少しづつずり落ちる

 

 絶望を喰って太った犬が、真夜中、孤独におびえて吠えはじめる。雲の中で眠る、死の安息を与えられた者たちの耳に、叫びは届かない。同じ場に至りたいという願いもかなわない。

 

私の眼は壁にうがたれた双ツの穴

夢は机の上で燐光のやうに凍つてゐる

天には赤く燃える星

地には悲しげに吠える犬

(どこからか かすかに還つてくる木霊)

 

 立ちふさがる壁を前に、現実を見定めねばならない眼の苦しみ。天には~地には、という歌うような一節は、「天には栄光、地には平和」と謳う讃美歌を思わせるが、地には絶望が吠えているばかり。〈赤く燃える星〉は、さそり座のアンタレスだろう。自死の幻影を描いた「室房にて」にも、それと思しき星が描かれている。〈さそり座の尾が地平に低く 強烈な光を放つとき/私は孤独の室房で安じて瞑想する……さうして人間たることの唯一の証し/己が自愛の要求に応へるに/剃刀を軽く咽喉にふれて引く〉ここには、黙示録の九章のイメージが重なる。第五の天使がラッパを吹くとき、天から星が落ち、底なしの淵から人面の怪物のようなイナゴの群れが現れ、〈さそりが人を刺したときの苦痛〉を人々に与える。人々は、〈死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く〉という一節である。

 

私はその秘密を知つてゐる

私の心臓の牢屋にも閉ぢ込められた一匹の犬が吠えてゐる

不眠の蒼ざめたvieの犬が。

 

 青春の謳歌を阻まれたという、同世代に共有されていた意識の域を超えて、三好の視野は常に世界に向かっていた。「囚人」を書いた当時、秘密とは世界の終末への予感であったろう。「基督磔刑図」でも、〈戦争は終ったが、それは新たな辛酸への出発であった。〉〈現実が益々露骨に抽象的機械主義を以て、生命をしめつけてくるに従い、人間の精神は萎縮してゆくであろう。〉と暗い予感を示している。精神は薔薇色のvieを生きるどころか、蒼ざめてやせ細っていくばかりだ。世界を崩壊させるような〈暗愚な力〉を、その出所の由来を問うことなく生きていていいのか。言葉を封じられたまま死んでいった者たちの無念を、自らのものとして引き受けなくてよいのか。

 叫んでも、誰の耳にも届かない。〈私の心臓の牢屋〉にも、悲しげに吠える事しかできない犬が閉じ込められている。犬は、三好の魂の自画像であると共に、時代の肖像でもある。生きることも死ぬことも宙づりにされ、世界の崩壊におびえ続けた青春。「囚人」はそんな魂の懊悩を、〈蒼ざめたvieの犬〉というイメージに凝縮した作品なのである。

 

 三好の「囚人」が多くの人の眼に触れるのは、戦後に創刊された第二次『荒地』誌上においてであった。この号には、戦病死した森川義信の「勾配」と三好の「囚人」が掲載され、巻末に森川と三好の詩作品を題材とした鮎川信夫の評論「暗い構図」が置かれている。戦後に創刊される詩誌に、あえて戦中に書かれた作品を載せた意図は、戦時中には見るべき詩は無かった、戦時中は現代詩の空白期だった、という先行世代の詩人たちの認識に対する、激しいアンチテーゼでもあったろう。(中村不二夫『廃墟の詩学』土曜美術社2014等)

 1951年の『荒地詩集』に、三好は「囚人」や「青い酒場」を含む十四篇の詩を寄せたが、その時の総題は「希望」であった。〈僕達と同じように現代を荒地と考えている君は……どんな言葉の甘美な表現よりも、自己の現実の悩みの方が遥かに未来を孕んでいることに気づいている筈である〉(鮎川信夫起草、荒地同人による序文「Xへの献辞」)

 暗い青春の記念であったとしても、たしかに自分が生きていたことを証する言葉。絶望の声に応じるかすかな木霊を聴く、という控えめな断言の中に、未来の読者に向けた三好の希望が託されているような気がしてならない。

 

                    『詩と思想』2015年3月号掲載原稿に加筆

2015年度回顧と展望(一年間、詩誌月評を担当して)2016年『詩と思想』1・2月合併号掲載)

進化よりも深化を

 

 季刊、月刊、隔月刊、個人誌、同人誌、総合文芸誌……この一年間、実に様々な「詩の現在」に触れることができた幸運を、読者の皆様に感謝申し上げたい。現代詩は行き詰まりを迎えているとも言われるが、私見では、むしろ新たな豊かさへの助走期間なのではないか、という印象を持ったことを、第一に記したいと思う。短期間の定点観測に過ぎないとしても、多数の批評や書評、詩論、後書やエッセイなどに見られる思想的な豊かさは、詩を生み出す土壌が、まだまだ肥え続けていることを信じさせるに足るものがあった。詩人たちが詩への情熱を失っていないこと、社会や文明、歴史に対する広い視座と知見を持っていることを、大いに賞讃したい。

 本誌が編集の柱としている社会性、地域性、国際性の三分野に沿いつつ、詩誌評におけるこの一年を振り返ってみたい。進行上、地域性の問題を最後に考える。

 

社会性

 今年は、安全保障関連法案、原発再稼働、普天間基地移設問題と、大きな政治的判断を問われる転換の年であった。詩誌にも集団的自衛権原発再稼働に対する不安や批判の言説があふれていたが、概ね、エッセイや後書などの散文が多かったように思う。時事問題や政治問題をテーマとした詩の多くは、言葉が「なま」過ぎると言うべきか、シュプレヒコールや演説、論文調の散文を、句読点に合わせて行わけにした印象のものが少なくなかった。今後の課題であろう。

 五月号『飛揚』李承淳「私は何になったのだろう?」は、ヘイトスピーチを浴びせられた人の内面を、身体的な比喩表現を用いて、他者の感情にダイレクトに伝えようとする作品だった。実際の言葉が引用されることによる衝撃と、その時の内面的なリアリティーを伝える表現との相互作用が、詩作品としての強度を生み出していた。八月号『いのちの籠』内田武司「国会議事堂前にて」は、デモに参加した母子の姿をドキュメンタリー風に記しつつ、親子の口から、将来どのような「言の葉」が生み出されるのか……そんな予感が作者の内に生じていることを伝える表現が印象的だった。

 忘れてはならない記憶、として、戦争体験を伝える作品も多かった。イラク戦争後の兵士のPTSD心的外傷後ストレス障害)が、アメリカ国内でも問題となっているが、5月号で採り上げたRAVINE』石内秀典「巡礼――記憶の深部で――」も、戦場から帰還した兵士の肉声を伝える作品の一つである。紙幅の関係で月評には載せられなかったが、若木由紀夫によるkomayumi』二七号「ペルソナ「狩り出し」」は、一九四五年六月三〇日に、秋田県の花岡鉱山で起きた中国人労務者の蜂起とその後の顛末を描いていて、忘れがたい作品である。七月一日の朝方、「花岡の支那人が脱走した」という報を聞いた村の男たちは、「鎌や鍬、棒を担ぎ、狩り出しと称し、勢い込んで飛び出して」行く。以下、部分引用する。

 六十過ぎと思われる皺くちゃの男が荒縄で電信柱につながれていた(中略)男は四方から伸びた棒で打ちすえられ、涎を垂れ流し、声をしぼりあげて泣いた。言葉らしき音声があぶくとともに吐き出され、曇り空に散っていった。村人は互いの顔を伺い、押し黙る。(中略)目の前の男に刃向かう力のないことはわかっていても、打擲はやまない。わたしも見ていた。遠巻きに見ていた。震える体を両腕で押さえつけ、いきまく村人たちのすき間からじっと見ていた。(後略)

「わたしは見ていた」と繰り返されるフレーズは、今なお作者を苛む悔いであると共に、この悲惨を伝えねばならない、という強い決意の表明でもあろう。

 四月号で採り上げた『詩創』宇宿一成ソネットは、川内原発の再稼働への不安と暗鬱な予感を描きつつ、フクシマへの祈りを重ねている。六月号『潮流詩派』麻生直子「黒の排泄物」は、実際に現地に取材した際の放射性廃棄物の印象を言葉に留めた作品。同じく六月号で採り上げた原田勇男「永遠を見つめる羊」玉田尊英「木は秋を」(『THROUGH THE WIND』)は、被災地に実際に暮らす詩人が、未来を見据え、これからを生きていく決意をうたっている。八月号で採り上げた『熱気球』『とんてんかんもまた、言葉が困難を乗り越える勇気を与えてくれることを示してくれる詩誌だと思う。十二月号で紹介した『左庭』岬多可子「すべて溶かして香る土」など土の三部作は、離農などの社会問題や、土から離れて生きる文明そのものにまで視野の広がる普遍性を備えた作品だが、汚染土の問題と浄化への祈りが、色濃く反映しているように思われてならない。

 直近に届いた詩誌の中では、『山脈』第一四号江口木綿子のエッセイ「牛飼ひの言葉」が印象に残った。警戒区域内で、「国による度重なる退去命令、殺処分を頑として拒否」し続けている牛飼い吉沢正巳さんの言葉を紹介する一節。「うちはここで牛を生かしている。この牛は全部、じゃまものとして国から捨てろ、殺せって言われてんだ。〈生きた瓦礫〉って言われてね。売れねえ牛を事故から五年も経ってなぜ飼うか。おれたちはくるってるのかもしれない、ばかげてんのかもしれない。でも、すべて経済で割り切ろうとする世の中のものさしに対して、命というものさしだってあるだろう?」立ち入り禁止区域内の牧場では病牛が増えた。東北大医学部などの協力を得て、その原因や放射能との因果関係を調べる研究も進んでいるという。「命というものさし」という一言が持つ意味を問うことこそ、詩人の仕事ではないだろうか。

 社会性という課題は、政治や経済に関わる問題だけではない。『石の森』百七十四号高石晴香「母親神話」は、良き母であろうとして「母親だから」という言葉に追い詰められていく女性の心理を描いている。「何も持たずにここに来た/与えてくれることを信じて/いいことも 悪いことも/何も知らない/何もわからないから/すべてが正しい」という冒頭の一節は、頑是ない幼子の行動に寄り添った言葉だと思う。社会的な正誤、善悪を知らない幼児は、好奇心のままに突拍子もない行動をすることがある。「何ひとつ思うようにいかないことに/イライラが止まらない/わきあがる気持ちが止まらない」「声も動きも好きなはずなのに/聞くだけでなぜかムカムカして//もう何年/まだ何年/あと何年?」孤独な子育てを強いられる「母」の心理を率直に描いた作品である。

国際性

 海外詩の翻訳紹介を、多くの詩誌が積極的に取り入れていることに国際的な視野の広さと教養の幅とを感じることが多かった。三月号『Auroraウィリアム・スタフォードの詩は、良心的兵役拒否をした者の内面の孤独を描いていて胸を打つ。一二月号『北五星』『孔雀船』『禾』『舟』などで紹介されている中国や韓国の詩作品は、詩人たちがアジアの隣人と地道に交流を続け、市井の友情を育んでいることを伝える。他者を、異文化を理解しようとすること、友情を保とうとすること、その交流を途切れさせないことが、平和への礎となる。『長帽子』七六号田村さと子のエッセイ「セーサル・バジェホの故郷への旅」は、ペルーの国民的詩人バジェホに関する国際会議に招聘された時のことを綴っている。町の入り口に〈詩の首都サンティアゴ・デ・チェーコ〉という横断幕が掲げられている、という一節に驚かされた。町ぐるみで詩人を記憶し、語り継いでいるのだ。

 国際理解ということに関していえば、子供のうちから様々な国の文化やライフスタイル、宗教などについて学んでおくことは極めて重要なことのように思われる。前田君江『千夜一夜レター』は、中東の絵本を翻訳紹介する冊子。絵本のカラーコピーに仮訳を付け、作家紹介や絵本の背景の紹介をしている。ラマダンなど、日本人には馴染みの薄い宗教的習慣などを伝えてくれる意義は大きい。五号は、トルコの絵本作家、フェリドゥン・オラル『ちがうけど そっくり』という絵本。前足の障害で歩けない山羊が、山羊飼いの工夫で車いすを作ってもらい、皆と同じように山の牧草地を駆け巡り、やがて家族を持つに到る、という物語。日本の山岳風景にも似た懐かしい景色と普遍的な内容が、丁寧に描かれる。

地域性

 詩誌評を担当することになって、共通語しか知らない筆者が期待したのは、その地で生れ、長い時間をかけて育まれてきた地域特有の言葉、いわゆる方言や地方特有の風俗、固有の歴史に触れた作品との出会いであった。しかし、全国から寄せられる詩誌には、「お国言葉」の詩は予想外に少なかった。絶対数が少ない、ということも影響しているが、言葉の面白さや響きの珍しさに眼目が置かれ、詩作品としての深みに不満の残るものも多い。響きの新奇さに頼るのではなく、生まれ育った土地の言葉を用いねばならない必然性というものを感じさせる作品として採り上げたのは、九月号『ネビューラ』山下耕平「どしこどん」十月号『二人』粒来哲蔵「うまぐねぇ蛙」PO』原子修「どったらの木」など数篇に留まる。

 この問題に関して、非常に重要な提言をしている論考を紹介したい。宮古島文学』第十一号新城兵一による「沖縄―現代詩の現在地点 その詩的言語に対する熾烈な自意識」副題「松原敏夫『ゆがいなブザのパリヤー』・市原千佳子『♂♀誕生死亡そして∞』を読む」である。全体で六十ページを超える大部の論考は、自らの批評言語への真摯な問いかけと、沖縄の詩と詩人への強靭な愛情とに裏打ちされた厳しい自己批判に満ちていて、深く納得しながら読了した。

 新城は、「本土」の読者に対して、「(自分たちの)趣向と理解の水準に見合った「沖縄イメージ」を追い求め、無意識の審級の眼として、沖縄の詩人たちに「独自」にみえる「沖縄イメージ」を期待し、「要求」し続け」てはいないか、という根源的な問いを提示し、他方、沖縄の詩人たちには、本土の眼に対して、無意識的な〈期待と饗応〉の関係が生じていないか、と自省を促す。

 オリジナリティーの探求として、方言も取り込んだ修辞的な工夫を凝らすことを「詩的言語の習慣的な用法や、ありふれた喩法、ことばの既成性などを打破して、新鮮な言語の躍動と活性化を目指す果敢な試み」として重要視しつつも、修辞的な技術に頼りすぎることを是とはしない。

 そして、修辞的な技法を駆使しし、言葉にならない「空白」へと逸れながら収斂していくような松原の詩的道程を「拮抗しあい矛盾する危険でスリリングな境域を通過しつつある」と温かく見守ると同時に、故郷に戻って詩作を続ける市原千佳子の独自性を、「池間島(沖縄)の古俗の心意世界の現代詩の言語への翻訳―その換喩的方法の結実」に見るのである。

 新城の論考を読みながら、粛然とさせられた。「本土」の読者である筆者の内にも、未知への好奇心や、新奇なものへの嗜好といった浅薄な感情、地上戦の悲惨を経た上に基地問題に揺れる沖縄に対する(語弊を恐れずに言えば)「同情」「申し訳なさ」といった心情が無いとはいえない。だが、同時に……四月号で触れた「妣たち」の国の祖型が、沖縄など南西諸島には、まだ残されているのではないか。日本が、環太平洋造山帯の一隅を成す島国である以上、そのもっとも根源的な祖型が、島の古俗に生きているのではないか、という幻想に近い憧憬もまた、間違いなくあるのである。それは沖縄に限らず、「イザナミ」として表象化された「山姥」物語への個人的興味にも連なるものであるが、論旨から外れるので、この問題はいったん脇に措く。

 ここでは、新城のオリジナリティーを巡る議論が、現代詩そのものが抱える問題とも直結していることに注目したい。

 新城の論考を読みながら、思い出す言葉が二つあった。一つは、「誰かがこれなら僕だってつくれるよ、と言うなら、それは、僕だって真似してつくれるよ、という意味だ。でなければ、もうとっくにつくっているはずだもの」という、ブルーノ・ムナーリの言葉。もう一つは、「フロイトについての会話」の中でヴィトゲンシュタインが記した「私の独創性……は土地の新しさにあって、種子の新しさではない」である。

 言語表現の修辞的な新しさ、文体や詩形の「進化」あるいは言語領域の拡大は、外形的な目新しさに注目し続ける限り、それは「真似をすればできる」範囲のものであって、口語自由詩の百年の歴史を顧みるとき、一通りのことはやり尽くされた感がある。しかし、人が生まれ育ち、生きていく土地、時代、そこで得る知的・身体的体験は、その人個人に付随するものだ。いわば、土地の新しさ、である。詩想というものがある種の普遍性を持ち、「種子」として存在し続けるなら、詩作品の独創性や詩人のオリジナリティーは、進化の結果の新奇さにあるのではなく、むしろ個人の土壌を掘り下げていく「深化」にこそ、求められるのではないだろうか。

 従来の詩形や文体ではどうしても表明し得ない、その表現意欲の切実さが、旧来の詩形を、いわば食い破るとき、そこに新しい詩形や文体が生まれるのであって、その逆ではない。もちろん、新しい詩形や文体を目指す言語実験や表現上の工夫を繰り返す中で、自分の表現し得なかったものを容れる最適な器としての文体を偶発的に発見する、ということが起きる可能性も否定できないが……。新城の議論に即していえば、外部の目を意識して新奇な作品を構築するのではなく、自分自身のルーツを探ったり、生まれてから今までの人生の中で得た知識や体験を積み重ねていく中から生まれ出た文体が、結果として「沖縄的」であるならば、むしろそこにこそ独創性が存在すると言えるだろう。結果として地域的な、個人の特色の濃い独自性の探求こそが、肝要なのではないだろうか。

 いささか、結論を急ぎすぎた。地域性という問題に戻る。詩誌『ドルフィン』一号、二号広瀬弓が記している、沖縄久高島の祭り「イザイホー」への興味や、民俗学に取材して描いた「アカラムイ」などの詩篇は、共通語圏に居住し、独自のパロルとしての「お国訛り」「ふるさとの習俗」を持たない者が、人生経験の途上で得た新しい土壌から汲み上げた作品と言えるだろう。九月号で紹介した『イリプス』八重洋一郎「まゆんがなす」は、祭りの場に立ち会うような臨場感とリアリティーを読者に提示する。こちらは、自らのルーツを掘り下げていく過程で出会った体験だろう。先ごろ届いた詩誌の中ではアリゼ』一六八号飽浦敏「帰路を忘れる」が印象深かった。「諸々の事情に疲れた県外の児童」を預かる、「受け親制」がある、という島。ゆったりと流れる南の島の時間が丁寧に描かれる。心身を傷めた子供たちの、癒しと再生の場所としての島は、異国であると同時に根源的な故郷である「常世」のイメージに、限りなく近い。「マイフナーマリリヨー」(立派な人になるんだよー)という島言葉による呼びかけは、不思議な呪文のような柔らかな響きとして読者にも届けられる。直近に届いた『潮流詩派』二四三号「沖縄特集」を組んでいることも、書き添えておきたい。

 習い覚えた「お国言葉」で詩を語る、という難題に挑戦している詩にも注目したい。六月号で紹介した『ミて』新井高子「百尋」群馬県桐生に生まれた新井は、東北弁の使い手ではない。被災地のボランティアで習い覚えた言葉や、遠野の昔語り、日本の古典芸能などから作り出した、いわば疑似「東北弁」で、独自の語りの世界を作り出している。習い覚えた言葉を使う時のためらいや戸惑い、「正しい」のかどうか、という疑問が常在する中で詩を紡ぐ、という行為は、自分の用いている言葉に疑念を抱きつつ語るという矛盾を孕むことになる。覚えたばかりの外国語で何かを伝えようとするときのエネルギーや、片言の言葉で語ろうとする幼児のエネルギーを詩に呼び込もうとする試みとも言えるかもしれない。

 東北地方の言葉に残る風俗や歴史を、連載的に書き留めている作品もあった。星野元一の個人誌『蝸牛』四九号「ふろしき賛歌」で描かれるのは、自宅での結婚式を「透き見」に行った、というおおらかな光景。五〇号「サルだった日」では、稲架に用いられた木が、東京が見えるほどに高くなったことに由来するという「トウキョウダ」と呼ばれた木を巡る思い出と、木に登る(憧れる)ことと現実との落差を、幻想の景を取り入れた余韻のある詩句で綴っている。

思想、新動向

 年間を通じて、書評や詩論、批評に優れたものが多く、豊かな時間を得ることができた。『エウメニデス』四七号から始まった京谷裕彰平川綾真智によるシュルレアリスムは、膨大な資料を基に、現代における様々な錯誤や思い違いを糺し、シュルレアリスム運動の原初の姿を浮き彫りにしつつ、改めてそこから我々が学びうるものは何か、ということを意識的に問い直そうとする、スリリングな論考。現在進行形の議論のさらなる発展を楽しみに待ちたいと思う。

 『喜和堂』第三号における連詩の試み(野村喜和夫捌き)や、鈴木漠らによって継続されている、連句によるソネットなどの現代詩の創作(『おたくさ』)、『あるところに、』Lyric Jungle『ウルトラ』等での俳句や短歌とのコラボレーションなど、領域横断的な試みが多数見られたことも特記したい。詩と写真とのコラボレーションにも、魅力あふれる物があった。(十月号『イリヤ十二月号『梨のひとり、ごと』

 年齢は詩誌では明らかでないが、ベテラン勢と思われる詩人たちの「深化」に心揺さぶられることが多かった。若手詩人の「進化」は、時代を表象するアイコンを鋭く切り取り、ミュージックビデオのように目まぐるしく並列していくことによって、多彩かつ流動的な世相を捉えていくものが多い。「饒舌体」が増える所以でもあろう。その中でも、七月号海東セラ九月号紺野とも黒崎立体など、多くの若者が「進化」から「深化」への道を歩んでいることに注目したい。

 一年間、読んで下さった皆様、詩、そして詩誌に、深謝。