詩の中庭

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『十二歳の少年は十七歳になった』秋亜綺羅詩集(思潮社、2021.9.30)感想

 透き通るように白い表紙に、曇りガラスのような温かみのある白でシンプルなかたちが刷り出されている。シルエットは大きなメロンと小さなスケートボードに乗った小さな犬だが、地球から宇宙へと飛び出していくようにも見える。そこに、黒字で一行、タイトルと著者名が記されている。真っ白な遊び紙を開くとグレーの見返し。見返しの黒字のタイトルは、遊び紙に反転して印字されている。純白と漆黒・・・鏡面は私たちの瞳なのだろうか。

 秋亜綺羅が東日本大震災時に、停電して地上の光も消え、余震の続く中で満天の星空を眺めていたと書いていて、胸を衝かれたことを思い出した。東京で津波の映像を呆然と眺めていた時、停電していた現地ではテレビは映らず、ラジオを聴く他はなかったのだ。あともう少し、想像を働かせれば“みえる”かもしれないこと、“かんじる”かもしれないこと、それをしていないところで、世界は反転している――そんなメッセージが伝わってくるような装幀だ。

 

 呼びかける、語りかける、ということ。目の前にいる相手に、その肩に手を置くようにして。あるいは隣り合う相手に、その背をそっとさすりながら、言葉を手渡す、ということ。それは一方通行であるのかもしれないけれども、いつかきっと届く、そう希望を持ちながら、そうあってほしい、と願いながら呼びかける、そんな祈りに似ている。

 巻頭の「十二歳の少年は十七歳になった」は、震災から五年という時期に新聞社の依頼を受け、石巻市の高校を実際に取材して生まれた詩だという。まさしく“語りかける”詩だ。

 

 海が目の高さまでやって来て

 握っていたはずの友だちの手を

 離してしまった瞬間から

 君の時間はずっと止まったままだ

               (2連)

 凍えていたね手と足と

 おにぎりも飲み水もなかった淋しさと

 叫びたかったおかあさんということば

 泣くことも忘れていた吐息の温度と

 暗闇に海の炎だけが映る瞳と

 ぜんぶ拾い集めたらきみになるかな

 きみは歩き出すかな

               (3連)

 どんな鳥だって

 想像力より高く飛ぶことはできない

 と寺山修司はいった

               (5連)

 傷はまだ癒えてないけれど

 今度はきみが

 青空に詩を描く番だ

               (6連)

 

秋が尊敬する詩人から受け取った言葉を、自らの思いと共に〈きみ〉に手渡そうとしている。散らばったままの記憶と感覚を〈きみ〉のためにぜんぶ集めてあげたい、感じ取って手渡してあげたい、と祈る言葉が、呼びかける詩であるなら。呼びかけられて〈きみ〉の中に生まれる詩は、離してしまった手をもう一度握りしめる行為であるかもしれない。自由な飛翔の中で、向こうに行ってしまった友達が彼岸でも同じように成長し続けていることを感じ取った時に、少年の思いは二つの世界の境を突き抜け、今、ここにいる自分を丸ごと受け止めることができるようになるのではないか。〈きみ〉の時間が、再び動き出しますように、そんな熱い願いが伝わってくるような作品だ。自由な心で綴る詩には、そんな力がある、そんな確信のようなものも感じる。

 「盲術」は、〈心臓が止まる音がする/ほら、こころが止まる音〉〈時計が止まる音がする/ほら、時間が止まる音〉というリズミカルな詩行から始まる。聴くということしかできないとき、聴くことに心を注ぎ、そこから見えてくるものを辿っていく詩、と言い換えてみる。肉体の眼が見ることのできないことを、心の眼がどのように“見る”のか。〈川の流れ〉が止まると虹が消え(時が止まると希望も消え)、太陽が沈むと月が消え(照らすものが消えると照らされるものも見えなくなり)・・・〈海が夕焼けを飲み込む音/夜空が海を飲みほす音//電波が消える音がする/電線に魂がとまる音//言語たちが砕ける音/真実が嘘に飲み込まれる音//影だけが近づいてくる音がする/明るすぎてなにも視えない音〉と続く。最後の一行は〈死者たちが息をひそめる音〉・・・言葉が崩れ、真実が埋もれ、夜も昼のように明るい日々が“戻ってきた”今、死者たちの息づかいを聴く耳は、どうすれば取り戻せるのか。気配に気づけなくなる、明るすぎる暗闇がある。

 「平和」は、〈生の野菜を食いちぎるとき/野菜は痛くないのかを考えたことはあるか〉という鋭い問いかけから始まる。〈施設の母を毎日見舞いに行って/励ましていた父は/新型ウイルスの流行で面会不能になった/母は父が来てくれない理由を/理解する力はすでにない/わたし、なにか悪いことをしたっけ/あのひと、病気じゃないのかしら/あいつ、そんな心配していないかな/父母の心を触ると/痛いと感じることはないか〉2連はコロナ禍の今、記された問いかけだ。身近に私自身も体験しているが、励ますことで共に生きてきた二人の思いが遮断され、揺らぎの中から生じる無力感や焦燥感は、言葉で励ましたい、共にありたいと願う詩人の思いとも重なる。人として自然な共苦の感覚から、詩はさらに遠くへ進んでいく。豚コレラで〈処分された痛みの数〉を数えたことはあるか、鳥インフルエンザで〈殺処分された鳥の数だけ/処分という言葉を並べたことはあるか〉・・・生きたアワビを〈スライスして/まだ動いているね/最高のごちそうだね/って/乾杯!/乾杯! 平和〉と詩は閉じられる。人であるがゆえに感じる痛み、感じることすら忘れている痛み、数値や合理性で心痛を麻痺させている痛み。痛覚の麻痺が平和だ、それをわかっているか、と問われているような気がする。

 「棄てる勇気」は、まるでエッセイのような一篇。オバマ大統領が広島で「核兵器のない世界を追求する勇気を!」と力説していた時、その後ろには核ミサイルの発射ボタンが入った黒いスーツケースを持つ秘書官が立っていた・・・詩の“かたち”を棄てて言いたいことを言う、というようなスタイルで、シニカルに武装解除と抑止力の問題を問う。憲法九条を守る、ということは、〈自分を棄てる勇気と、家族や恋人を、ことばと素手で守る覚悟〉を持つということではないのか・・・言葉に拠って立つ者の引き受け方が、そこに提示されているように思う。

 中盤に置かれた「馬鹿と天才は紙一重」という組詩?は、「天才」と「馬鹿」という詩が反転し、さらには落丁のようにそのページが抜け落ちる・・・(入れ替え得る)という仕掛けになっている。〈仕掛けの壮大さ〉という詩句とも相まって物理的にも皮肉が効いている。

 後半は文体の軽さで前半の重さを照らしているようにも感じられるが、「あの日は寒かった」では冒頭の十二歳の少年のことに再び思いが戻ってくる。〈文字は道具だけどことばは事件なんだよ〉という呼びかけが心に響く。「人形痛幻視」は〈これはソーセージではない/メッセージ/一卵性メッセージ〉と言葉遊びや冗談のように始まるが、〈人は一度生まれて一度死ぬ〉というような、当たり前すぎて忘れていることを改めて(大真面目に)告げられてハッとする。〈これは永遠ではない/ひとりぼっちの遠泳/きみが叫びつづける孤島までの〉泳ぐのは〈きみ〉ではない。〈きみ〉に届こうとして泳ぎ続けるのは、語り手の方だ。

 詩集全体を充たしている秋亜綺羅節、とでも呼びたい語り口・・・柔らかな語りかけ、熱い呼びかけ、音が呼びよせる律動感やリズム、ユーモアや冗句、極端なイメージによる開放感で掬い上げていく文体は、重い内容をストレートに投げかけられてもやんわりと受け止めたりかわしながら受け取ったりする余地につながっているように思う。

 コミカルな筆致で描かれた「世界村のジェンダーフリー」も、現在を捉えた上で想像力を先へ先へと伸ばしていったら何が起きるのか、そんな未来予測を描いた寓話となっていて、リアルに怖く、面白い。その後に置かれた、十二歳の少年の十年後・・・〈二十二歳の青年は/平時も平和もまだ知らない〉(「十年」)この詩集が刊行されたのが、まさにその“とき”だ、ということを考える。異様で不気味で滑稽な未来は、もしかしたらほんの目の前であるのかもしれない。そんなことを静かに、したたかに、面白くおかしく、至極真面目に、語りかけてくる詩集だ。