詩の中庭

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北原千代詩集『よしろう、かつき、なみ、うらら』(2022.6.20思潮社)感想

静かだけれど物凄い詩集である。すべての作品に驚きと不思議な世界への誘引力があり、しかも言葉の展開に無理がない。“現世”に居て、現世の言葉で歌われているのは確かなのに、光り輝く場所や闇に触れる場所のことが記されている。魂の居場所というものがあるならば、魂の見聞きし感じたことが現世の文字で綴られている、そんな不思議な感覚が立ち上がってくる。

作品がほぼ見開きに収められていて、それが一連の物語となっていくのも読みやすく美しい。詩集は行分け詩と散文詩を組み合わせたⅠ部と行分け詩を中心としたⅡ部に分かれるが、第Ⅰ部の前半は天上に住む人々や精霊のような人々と出会うような神秘的な物語世界(そこでは、語り手のわたし、そのものが楽器のように鳴り響いている)、後半は散文詩による、実際の留学体験を下敷きにしていると思われるリアリティーを持った連作からなっているので、実質的には3章建ての詩集だと言えるだろう。3章にあたる第Ⅱパートは、作者の父や母を見送った折の体験を重ねて透かし見るような私的な世界が展開される。舞台となるのは、作者自身が“山家”(やまが?)と呼ぶ、何代にもわたって受け継がれてきたであろう旧家。家そのものの気配を濃厚に感じながら、暮らしていた人々とその時間、息遣いを記していく。

 

巻頭の「オルガンの日」は、 “わたし”が“うたう器”であること、それを思い起こそうとしている痛みと喜びを感じさせる。天使がまるで隣人のように語りかけてくる冒頭部でディキンスンを連想したが、〈鍵盤のささくれに羽をひっかけて〉というリアリティーや新鮮で体感に迫る比喩表現などに目が留まる。心の不調の自覚が不安をもたらす中、脳ではなく身体で覚えた曲を指が奏でていく、その調べに精神は安堵を覚える。安堵の先には、〈よしろう、かつき、なみ、うらら、〉という柔らかな存在が居る――彼らは〈あるとき歌のように、くちびるに浮かんで〉来た〈架空の子どもたち〉の名だ(「あとがき」より)。

その子どもたちを主役に据えた「よしろう、かつき、なみ、うらら、」は、〈ここは滝のうらがわの家〉と始まる。冬の陽の射し込む室内が、一瞬で滝の裏側に変わるマジック。そこでは神秘的な茶会が開かれていて、集う〈客人はみな/透けることができた〉。彼らは運命がやってくることを〈知らされて頬はあをざめ〉ている。客人たちが花びらを〈生きている茎からむしり〉取る、という詩句には、客人が何事もないかのように笑いさざめく、その情景にぐさりと刺されてしまう繊細な宴主=語り手の心が映し出されているような気がする。〈それぞれたったひとり〉とはいうものの、本当は語り手のみが〈ひとり〉を感じているのかもしれない。語り手はこの美しい光景を痛みと共に感受しているが、〈ひかりの粒が降っていた〉という終行が希望へと転じている。

「記念撮影」は、満開の桜の下での花見を描いているが、〈はじまりを告げるのはいつも/見えないところのほころび〉などの詩句が不穏な気配を呼び寄せる。〈ねむっているような醒めているような〉ひとたちと共に歌う〈不滅の歌〉、〈全身砂糖菓子のように脆く〉なったひとたちと分かち合う紅茶と茶菓子。〈たましいは出かける準備をはじめる〉……祖母の車椅子を押しながら満開の桜を見上げた日のことを思い出す。続いて置かれた「春の奏楽堂」には、〈いつまでが滞在でいつからが出発でしょう〉というつぶやきも記される。〈天が銀色のチェンバロを奏で〉ているのを聞いてしまう耳、その耳を持つ人ゆえに感じとる予感――盛りを迎えたらあとは散るばかりの満開の花と、その下に集う、既に半ば天界に足を踏み入れた銀髪の人々。死期の近い人と過ごした記憶が投影されているのだろうか。

 

「f字孔」から続く散文詩群は、身が音楽と成る日々を過ごした人の物語、といえるだろう。〈借りものの楽器〉が動悸を打ちはじめ、生きている、と感じる瞬間。〈先生の内部〉にあるものが開かれ、“わたし”がいつしか楽器そのものとなって〈生まれながらの名を はじめて名乗った じぶんも知らなかった音いろで〉鳴るという驚きを支えているのは、魂の次元での深い交感である。

現実の留学体験を想起させるのは、〈たぶんわたしの姿はだれにも見えていないのだ〉という一言や、血の気の薄いように見える東洋人を気遣って?〈血のソーセージを一本〉プレゼントしてくれたというレッスン生の〈お母さん〉の人柄――ソーセージの赤とその驚きは、〈誰かを轢いてきたような赤い石畳〉という記憶に結び付いている――西洋人の濃厚さというのか、肉食を常としてきた人々の野性的な迫力のようなもの、積み上げてきた歴史的な時間の重厚さが濃縮されているような「しろいアスパラ」など、食べ物にまつわる記憶を描いた作品だろう。続けて置かれた「鯖」には、肉食文化の人たちが育んできた音楽世界の、その香気や美しさに魅せられた“わたし”のまなざしと、魚食文化の中に育った“わたし”の位置の相違、間に横たわる“森”の深さをも感じる。

 

 第Ⅱパート、「父の天窓」は明るんでいく窓の描写の美しさが印象的だ。匂うような悔恨の情と、体験が言葉になるまでにかかった時間。記憶の日差しの中にあらわれ、また去っていく〈父〉の姿を語り手と共に追いながら、〈あのたったひとつの朝のことです〉という結句に込められた痛切な思いに打たれる。

 逃れることのできない最後の旅立ちの日への思いと、断ちがたい愛慕の情、それを引き裂く運命との遭遇、その衝撃を感じさせる「琥珀」や、おそらく病床に付している〈父〉の最後の日々を留めた「楽園」など、旅立ちをこれほど美しく、また普遍的に表した作品には滅多に出会うことはないように思う。

 母を巡る記憶には、まだ癒えない傷口を抱えているような生々しさがある。 「憩いホーム」の送迎車の〈窓にはりつくたくさんのお母さんたち〉(「冬の家」)は、実際に語り手の母の他に同世代、同境遇の女性たちがたくさん乗車していたのかもしれないが、「処置」も合わせ読むと、記憶の中の母、実際の母、私の“母”ではない、と思うような女性としての母、予想外の側面をさらけ出す母……という一人の中の複数性なのかという気もしてくる。

 「夕拝」は、〈老いた母を根っこから引き抜いて〉という一句がズシンと迫ってくる。私にも、いずれは母を、施設や病院に移さなくてはならないときが来るのかもしれない。家を去らねばならない母の痛みを、私は北原さんのように感じることがあるだろうか、と自問自答する。「海のエプロン」のように、母と過ごした日々の記憶が結実して新たな像を結び育んでいるのを感じる作品もある。人ははるかな昔から繰り返し、肉親をこのように見送り、また新たに迎え入れてきたのかもしれない。終盤に置かれた「きよめられた夏」は、心の喪が明けて清々しさと共に過去を振り返っている語り手をイメージした。

 詩集は最後に「ディキンスンのように」という象徴性の高い作品を置いて幕を閉じる。〈クロッカスひとりぶんの温かさ〉〈咲いてしまうほどひとを愛したことがある〉という詩句が心に残った。