詩の中庭

日々の読書、詩集や詩書の書評、覚書など。

峯澤典子詩集『微熱期 BLUE PERIOD』(思潮社2020.6.20)感想

静かで涼やかで遠くにゆらめき立つものに迎え入れられるような、“美しい時間”が広がる詩集だ。抑制された、しかし芯の立った文字を辿りながら、言葉の示す「意味」を、つい求めてしまう自身の性向を振り返る。意味を一対一に限定しない、しかしはぐらかしたり逃がしたりするのではない言葉。時間の層や場所の層、その時々の意味をにじませるような、明確な形を保ちつつ揺蕩っている言葉たち。

はるかな場所からやってきて、やがてまた(おそらくはそこへ)去っていくであろう人の営みに寄り添うように、心の奥底にしまわれている水辺の記憶、揺らいでいた思いの世界を呼び覚ましてくれる“あなた”あるいはもうひとりの“わたし”が呼び出されていく。いつかどこかにいた、あるいはこれからどこかにいるであろう人のうたを聴いているような感覚に誘われる。

 

読み進めるにつれて、いくつものイメージが重なっていく。たとえば北欧の緑と湖の世界、音楽家の別荘があるような避暑地、その湖畔を散策する人の心に意識を沁みこませ、その人の感じている世界を感じ取り、言葉として取り出していくような語り手がいる。あるいは、戦前や戦中の詩人たち、結核で早逝していった青年(あるいはその恋人)の記憶の中へと、時代の層を濾過するように意識を流れ込ませ、それを生き直しているような感覚がある。

詩情を感じる心と、その心の訪れをいつも淋しさと喜びとを共に待っている精神の、二人の道行きのような感覚に誘われるときもあれば、作者自身の幼年の記憶、しかし自分のものと定かではない……それゆえに誰のものでもありうるような、まだ言葉を持たない頃の記憶が呼び覚まされていく、その瞬間をおずおずと待ち受けているような読後感を持つ作品もある。淡いグラデーションのフィルムが景を重ねていくにつれて、少しずつ異なった景が見えてくるような印象と言えばいいだろうか。写真や映像で強度のフォーカスを当てた部分とぼんやりと霧の中にぼかしこんだ部分、そんな心のグラデーションを大切に守りつつ綴っていく言葉たち。

 

私の心が危うい均衡にあった時期に巡り合った、響き続けるグラスであるがいい、というリルケの詩句を思い出した。どこかから、闇のなかに浮かぶ器に滴ってくる水の美しさ、そのしたたりが奏でる澄んだ響き、エウリュディケ―を求めるオルフェウス(に成り代わったリルケ)が呼びかける声。

「Ripple」の、夢と現実の“あいだ”にある時間と場所。そこで過去のいつか、あるいは今、これから、体験するであろう懐かしい水辺と命の火、情熱の炎の揺らぐ影の記憶。「ヒヤシンス」の〈もう 泣きながら歩くことはない〉という静かな安堵のような、諦念と懐かしさの匂い立つ場所に触れたような感覚、「発熱」や「砂の城」の、自分自身のものであるような、それでいて誰か他の人の記憶であるかのような、いつのまにか心に沁みこんでいるような思い出を辿っていくような感覚。

「リフレイン」の〈すべてのきれいなもの やさしいもの/よわいものたちは/真っ先に腐って あかりになる〉という一節にも触発された。羊水という水辺から地上、現世という渚に打ち上げられた私たちも、あるいはその“水”の中でしか生きられない、幻の私たちも……暗闇で静かに、光っているのかもしれない。吉原幸子の、傷口は光るのだ、という鮮烈なフレーズを思い出しつつ、切なく光るほのあかりに引き寄せられていく語り手の心を想う。

「ひとりあるき」は、吉原幸子の幼年連祷のような、記憶の底の普遍的な思い出に触

れていくような感覚と、東日本大震災の日の記憶、様々な書籍や想像力の中から作者の内に流れ込んでいった記憶がないまぜになって生み出された景色の中を、思い出を辿りながら歩いているような、そんな印象があった。

短歌の調べや、心に浮かぶ景を連続するスライド写真のように白い壁に映し出していくような形を持った作品も印象深かった。高原の湖畔のそよ風をゼリーにしたら、このような詩集になるか。いや、雪嶺の雪の輝きを吸い込んだ透き通るように“硬い”風もまた、そこには含まれているような気もする。