詩の中庭

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北島理恵子詩集『分水』(2022.6版木舎)感想

装画がまず、印象に残る。(版木舎の装幀は見返しの色合いやカバーとの共演も含めて、いつも感嘆させられる。)裏表紙の二人の背中を照らしている日差し、長く伸びた影の余韻。逆光の中でその表情はうかがえないものの……。

 

冒頭の作品「etching」を読んで思い出したのは長谷川潔の小鳥だった。青い鳥のイメージも重なる。過去からやってくるもの、浮かび上がってくるもの。彫り付け、痛みと共に腐食させていくうちに浮上してくるもの。エッチングという手法の手順も思い描きつつ、記憶の層に刻んでいくニードルの針先、記憶を言葉として採り出していくときの微かな痛みを想起した。

「第一巻」は鮮明に立ち上がる映像に戦慄する。近代化の裏面で忍従を強いられた農村の苦悩に、アウシュビッツの写真集を閲覧した時の震えと痛みが呼び寄せられる。過去の苦難からひとりひとりを大切に救い出したい、そんな願いが込められてもいる作品のように思う。

 

第一部では、東日本大震災の追悼への思いを強く感じつつ、戦後の現代日本のそれが帰結であってよいのか、という思いがにじんでいるように感じられた。幻影というよりは幻視に近いような鮮烈な映像が印象に残る。時代や場所を変えたいくつもの映像と層になっていて、溶け合ったり一層だけが明確に現れたりする描写の美しさが見事だ。おそらくは熱意に導かれた様々な文学表現の渉猟があり、推敲を重ねる研磨の日々が著者の表現を作り上げているように思われる。

「まぶた」の、眼を見開こうとして果たし得ない蘇った死者は使者であると同時に今の私たちであり、あの時のあなたたち、であるのかもしれない。安保法案抗議集会に生々しい悔恨と共に向かう〈キヨさん〉の姿に思いを託す作品をこの位置に置く意味についても、考えさせられた。

 

家族や近親の記憶を蘇らせながら紡ぐ二章は、静かな語り口と控えめでありながら的確な喩の鮮やかさを味わえる章。一人一人の歴史ともいえる個々の歴史が、画家が記憶の底からモチーフを呼び出すように取り出されていく中で普遍性につながる記憶に変容していく。モチーフの周囲にグラデーションをかけるような光の当て方に魅力を感じた。

身体記憶と象徴性を重ねていくような三章にも、表現への果敢な意欲が感じられる。「実」の未熟で苦い青梅のような実の生ナマしさは、毒気も含むイメージと共に、言いさしたまま呑み込んでしまった言葉たちが凝って形を成したもののように思われてならなかった。果たして言葉は、豆の花のように逞しく現実と共生しながら、豊かさへと繁茂していくものであるのか、どうか……。「足音」は実際の骨折の体験から生まれたものかもしれない。私も左足の甲を骨折したことがあるが、十数年前だというのに、今でも冷えたときなどに痛み(の幻影)を感じることがある。膨れ上がった足の皮膚の内側を動く青黒い液体に辟易しながら、人は皮袋に骨や肉、臓器を収めた水の塊なのだ、と改めて実感したことを思い出す。

 

詩集のタイトルともなっている分かれゆく水の流れのイメージは、有り得たかもしれない選択とその後の行く末への想いなのか、あるいは様々な時の層を“分水”しながら流れていく意識の流れを取り出したものか。集中にも「分水」という詩があるが、作者個人の生活や日々、その中で求め続けている何かをひそやかに控えめに表している作品である。この詩が詩集全体を象徴するというよりも、分水、という言葉とそのイメージそのものがこの詩集の核となっているように感じた。

近年、環境破壊の影響なのか予想外の風雨や炎暑に見舞われているが、“大気の声”にも耳を傾け、言葉にしていくことが詩に求められているのかもしれない。流れゆく水の行く先が、再び雲に帰ることのできる豊かな大洋であり続けるように願ってやまない、そんな思いに導かれる詩集だった。