詩の中庭

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橘しのぶ詩集『道草』(2022.11.10)七月堂 感想

道草、という白抜きのタイトル文字が、藪椿の茂みの上に置かれている。庭植えではない、枯れ蔓の絡まった路傍の、あるいは公園の片隅の茂み。丸く切り取られた写真が地球のようだ、と思う。

読みながら、悔恨、という言葉の意味を考えていた。悔いが残る、悔いを残す、クイ、喰い、杭。撃ち込まれる杭は深く傷を残すだろう。しかし、その杭に繋ぎ留められ、あるいは地に突き刺されることによって、流されずに身を留めることもできる、そんな痛みと裏腹の‶救い〟をもたらすのもまた、杭の鋭さなのではなかろうか。

奔放な想像力と、その情景を具体化する筆力がある。柔らかな筆致の中に、羽根布団の中に隠された釘のように鋭く、読者を―何よりもまず作者を―刺す一言が置かれる。その展開が自然で巧みだ。

 

巻頭作品、「おねがい」。〈ゆめのような小春日和〉眠気を誘われるような出だしに油断し、ひらがなで柔らかく記された「おねがい」の文句に気を許し、街騒のように響いてくる選挙カーの「おねがいします」の音声、足もとにまとわりつく愛してやまない猫の甘え声に口元が緩み‥‥‥たった一度だけ、発作的に(可愛くて愛しくてたまらない)愛猫に発した「死ね」という一言が、猫の逝ってしまった後になって深い‶くい〟と化し、語り手をその場に打ちつける。続けて置かれた「告白」は、幼児期の思い出を喚起するように語り出される。〈十かぞえるあいだに泣きやんだら、この耳をあげる〉という〈あなた〉。想像力の中で実際に掌に〈耳〉を乗せてしまう〈わたし〉は、かつての一言から数十年の時を経た現在の〈わたし〉なのだろうか。あるいは、思いの中で自在に記憶を遡り、〈あなた〉の後を追っている〈わたし〉なのか。〈しずかにあつくゆれながら、かかとからあかく染まってとけていった、ろうそくみたいな娘は、わたし。〉という美しい比喩に気を許した矢先、〈ことばで人を殺すことはできるが、ことばでは人を愛せない。視姦されたところで孕まないように。〉という一節が打ち込まれる。

待つことと諦めることが夢物語のように歌われる「ラプンツェル」に翳る亡き父への想い、「亀鳴くや」に寓意的に描き出された、父を恋う想い。「花葬」、「鏡葬」と続けて置かれた二篇にも、幻想と現実を混ぜ合わせていく調べの中に、肉親を見送る際にいつまでも残る空虚が刻印されている。

蛹、あるいは‶死〟からの再生や変容がキーワードとなる「きわ」、「ポーズ」、「道行」にも現実から立ち上るものと空想が招き寄せるもう一つの現実とが混在している。婚姻届け、出産届け、そして離婚届け……ライフヒストリーを無機質に凝縮したような書類を〈提出した帰り〉にいつも通り抜けた〈区役所の裏の公園〉で、〈私〉は初めて、〈ももいろの侏儒〉を見かける。童話の世界ではないもう一つの現実が、語り手の中で目覚めた瞬間だろうか。この作品は「啓蟄」と題されている。何かが〈私〉の中で目覚め、羽化するように言葉を再び、綴り出したのかもしれない。

豊かな筆力に裏付けられた、リアリティーのある想像世界が展開していく22篇。近頃では珍しくなった「あとがき」に胸を突かれるものがあるが、その思いもまた詩に昇華されていくことを願い、今、ここでは触れずにおきたい。

 

道草

道草

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