詩の中庭

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『月の声』ヤリタミサコ詩集(らんか社2021.10.29)栞

「月の声 を読む」~橋を渡って、さあ、月の声を

  

 なにしろ“ポスト・トゥルース”の時代である。詩集案を受け取った時は、ひとつの物語を多視点から描き出すことによって固定化した一方的な視点に鉄槌を下す、そんな痛快な詩集なのでは、と予期したのだが。予測は見事に逸らされた。うねり、はずみ、時には沈潜する緩急自在な“語り”や“謡い”のエネルギーを期待していた読者には予想外かもしれない。

 26篇の散文詩と行分け詩を2篇収める第3詩集。ヤリタミサコの新境地と言ってよいだろう。展開が実に面白い。連続した物語というよりは定点観測の断章が重なっていく。文章は精緻で読みやすく、鮮やかに景が立ち上がる。奇想天外な展開なのに思わず納得させられてしまうのは、一息に作品世界に引き込まれるからか。現代社会の難題や天災、人災を映した物語もあるが、直接的な社会批判や諷刺は抑えられ、多くは寓意に満ちた譚詩。語り口は静かだ。とりわけ冒頭の連作の、さざ波のように寄せては返す語り出しは、Once Upon a Timeという繰り返しにも似て、心の深いところから懐かしさを呼び覚まされる感覚がある。オヴィディウスの『変身物語』を思い浮かべたのはなぜだろう。

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 冒頭に置かれているのは〈古い橋〉を舞台とする11篇。この橋は魂を持ち、己の上を過ぎゆくもの、渡りゆくものたちの記憶を幾重にもその身に沈めている。その物語を呼び出し語るものの声を、私たちは聞く。

 最初に登場するのは〈自分が死んでしまったことをすっかり忘れた女〉。語り手が身近に聞き取った多くの女たちの声が、橋の上を走り続ける女の目に映し出されていく。誰も観客のいない、此岸とも彼岸ともつかぬ場所で〈じっとその目を見つめて〉いるのは、古い橋ただ“一人”だ。女は記憶を、物語を再生しながら橋の上を走り続ける。いつ向こう岸に辿り着くのか、そもそも向こう岸はあるのか、女も語り手もそのことを問わない。走り続けているうちに、女の目に映る思いは怨嗟や苦痛を伴うものから細やかな喜びを数えるものへと移っていく。この橋は浄化や解放を促すところでもあるのだろう。見る者としての橋は、そのめくるめく展開にめまいを起こしながらも見ることを止めない。

 〈自分が生きていることをすっかり忘れてしまった男〉は、橋の上で動くことなく寝そべっており、思い切って橋を渡りきることを決めた「兵士」は、長い戦争の後で左右が逆転してしまった世界に直面する。橋が〈水音を高く〉してやるのはなぜだろう。男に橋の在処を思い出させるためだろうか。この男たちに鮎川信夫三島由紀夫石原吉郎の影を求める読み方もできるかもしれない。しかし特定のモデルを追うのではなくイデオロギーや戦争に翻弄された男たちの物語、その現れとして彼らの姿を受け取りたい。面白いのは「橋」が見ていた主人公たちの橋との関わり方の違いだ。

 橋は渡る者、留まる者に変容を促す場所でもある。行きつ戻りつ橋の上で逡巡を繰り返した少年は、どうも石に変容したらしい。その石に日を当ててやろうとする橋の姿が優しい。橋の上に坐り、禁経とされた男女の合一の秘儀を記した百の経典を読み続けた僧侶は、百一巻目の経典に姿を変える。橋を渡って家族のための山菜を採りに行こうとした若者は恐らく死して鳥になり、得たものを橋に残して飛び去って行く。

 橋はいくつもの物語の中で川風を主人公に吹き寄せてやったりもする。橋は川、そして水の流れと一体となって物語の舞台を支えているのだ。「ヴォーカリスト」が〈久しぶりに自分の体の中に響く自分の声〉を取り戻すのも、この橋の上だ。その時、〈橋は自分も一緒に踊っていることに〉気づく。橋は人の命を奪うこともある。教員志望だったJunko が自身の一生の物語を垣間見るのも、橋から墜落していくときだった。橋が共に見ていた生涯の夢。身代わりのように河川敷には小学校2校分もの新品の什器が現れ、家族はそれを地震(おそらく津波)の被災地に贈る。

 物語る私たちが発した声、その声が主なき後にも記憶を呼び覚まし、歌い続けるのもこの橋の上だ・・・〈主が不在のため〉新たな歌は生まれないが。連作中、唯一の固有名詞として現れるウディ・アレン――なぜ彼が特に選ばれたのか、映画に暗い私には唐突という感も否めないものの――その姿を借りて、創作者が自分のアイディアを生み出すのもその限界に気づかされるのも、やはりこの橋の上であることが明かされる。橋は励ますかのように〈涼しい川風をウディに〉吹きかける。

 橋は自ら率先して何かを生み出すことはないが、見守り、励まし、支え、時には変容を手助けする存在であるらしい。試みに川の流れを時の流れに、橋を言葉、そして文学と読み替えてみる。あるいは橋=語り手としてのヤリタミサコ。そうすると、物語世界における実景として見えていた橋が、また別の様相で見えはじめる。

 連作の最後は「橋」そのものが主人公、ここでは〈古い橋があった〉と過去形で語られている。濁流となった川の情景。――今年の夏、熱海を襲った人災としての水害を彷彿させると同時に、やはり人災である温暖化の進む地球の叫びのように毎年起きるようになった水害の実景を思い起こさずにはいられないが――決壊を防ぐために自ら選んだかのように姿を消す橋の行いにはっとさせられる。流域に暮らす人々は、橋が在ったことすら覚えていない。しかし橋は消えたわけではない、〈姿を持たない橋〉は微笑みながら人々の様子を見守っているのだ。文芸が、言葉が押し流されようとしている時代に、しかし橋の心は今も私たちを見守ってくれている、そんな語り手の声が、川風と共に吹き寄せてくるのを感じる。

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 続いて置かれた「住む」「月に歩く」そして「不思議なカメラ」の連作に触れる前に、新機軸ともいえる散文連作を受ける形で巻末に配された行分け詩を見ておきたい。

諷刺やユーモアを効かせて、男たちの見た女、男たちが規定してきた女からの解放を謳う「herstory」。ブコウスキーのキャス、オフィーリア、美禰子が歌う〈男たちはわたしを知りたがった/知ることは知らないことを知ること/わたしのわからなさはわかってもらえなかった〉という、女のもどかしさを痛快に言い当てる1節。淀君マリー・アントワネットなど歴史上の人物、あるいはベアトリーチェモナ・リザなど崇敬の対象に祭り上げられた女性たちが〈わたしは自分の生き方は自分で手に入れます〉〈男がペンで作り上げる聖女とはいったい誰のこと?〉〈見たい欲望の果てを描く男たち それはわたしではない〉と異を唱え、〈三日月の声にしたがってむずむずするからだを脱ぎ捨てた/わたしは鳥と同じく風の言葉になった〉と唱和する。彼女たちはようやく自由を得たのだ、そして“彼女たち”は“わたしたち”でもある。

 明喩で歌う「herstory」に対して、「アフターダークネス」は暗喩で歌う鏡像と見てもよいかもしれない。過去の物語に対して、これから先の予言の詩(うた)のようにも見える。「橋」が消えた後の未来、それは半減期という見えない闇が地を覆っている現在、そして未来でもあるだろう。〈ひとは呼吸する 息を吸い 吐く/呼吸の陰に 言葉が潜む わたしは わたし以上にあなたになる~言葉は 呼吸から排出される〉その大気を人は何万年、何十万年と汚染し続ける道を選ぼうとしているのか?〈星々が拒否する その後 を知りたくないから/半減期の夢を見ることにする/わたしの夢はあなたの吐息にまぎれて/未生の言葉になる〉今を生きるわたしたちから、未来の“わたしたち”に向けての、これは予言なのだと思う。その未来は、〈川の代わりに 揺らいだ地軸が横たわって〉いて、〈不完全な沈黙が取り囲んで〉いて、〈失語した魚たちがばらばらの群れで泳いで〉いるところ、なのだろうか。あるいは〈物語はいつも見知らぬところで起こっている〉そんな期待を、まだ抱いていてもよいのだろうか。この詩は〈どこへも行かないのか あなたのわたし/カナリアの声を深く埋めてから どこへ/いつまで ですか〉と問いかけて閉じられる。カナリアの声。炭鉱のカナリア

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 三日月の声、それは誰の声なのだろう。三日月を踏む女人と言えば聖母マリアだが、もっと根源的な女性性に深く関わっているように思う。それはわたしのあなたの声であり、カナリアとしての詩人の声であるのかもしれない。

 散文詩の「住む」シリーズに〈三日月に住む女〉が登場する。彼女は涙を体にため込み、やがて鳥となって飛翔する魂を〈三度の食事〉として味わっているという。あるいは「月に歩く」シリーズの中の〈月に住む女〉。彼女は地球を日々眺め暮らしながら、〈プロメテウスからもらった火だけでは飽き足らなくて、自分たちでは消せないプルトニウムの火を持つように〉なった人間界を見守っている。山火事や噴火にその都度心を留める彼女の眼差しは、グーグルアースで天災や人災を辿りながら何もできずにただ見ているしかない私たちの膨張した“視力”と重なっていく。

 〈尖った月の下に歩く〉女は呪詛の言葉を吐き続けているが、〈青い月に歩く女〉は自分の体を脱ぎ捨て、過去の桎梏からも解放されて新たなエネルギーを得ている。吐露になりがちだったり、肉体にとらわれがちだった“女”の物語そのものからの解放を謳っているようで、共感する一篇だ。〈ベージュ色の三日月に歩く〉女は、〈死んでしまった叔父たち〉が作り直した左耳を持っており、その左耳は〈かすかに月の声が聞こえる〉〈小さい力〉を持つという。叔父たちをどのように読むか、私はヤリタミサコに力やヒントを与えてきた詩人の先達たちのことを思う。(読者それぞれが自分の“叔父”を探してみるのも一興だろう。)右耳は自ずから授かった自分の耳、その耳が何を聞くのか、聞かねばならないのか。

 「不思議なカメラ」にも魅力的な挿話とイメージが散りばめられている。写真機ではなく写心機と呼びたくなる“カメラ”についても語りたい疼きを覚えるが、すでに紙幅も迫っている。この先は読者の自由な味読、解釈にゆだねたい。

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 詩集全体を通して言えるのは、ファンタジー掌編としての物語世界の層を純粋に楽しむこともできるし、モチーフから連想される物事やイメージと繋ぎながら解釈を楽しんで読むこともできる多層性を持つ詩集であるということだ。文章や文体はあくまでもクリア。情景や内容の展開に心地よく驚かされる詩集でもある。ヤリタミサコが問い続けてきた社会や文明への鋭い眼差し、くみ上げてきた女たちの声もまた異なる層で輝いているのが透けて見える。今までの軌跡を踏まえつつ、より深く大きな場所へと向かいつつある新展開をぜひ堪能してほしい。

 

月の声

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