詩の中庭

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『百年の鯨の下で』早矢仕典子 詩集(空とぶキリン社 2021.5.20)感想

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早矢仕さんの詩は、静かに始まる。そして、中盤でふわりと飛翔する。誰もが“見ることができる”はずなのに、見ていないもの、見えていないもの。感じることができるのに気づいていないものに、心の肌を添わせるように触れていく、気がする。私も静かに読んでいく。一行ごとに感心したり、うなずいたり、浮かんでくる景を眺めたりしながら。

 

 たとえば、巻頭に置かれた「十月の鯨」。

 

 十月/私たちの街の上を/時間がひと跨ぎでわたっていく季節

 

秋の抜けていくような空の感じ、高い空に浮かぶ巻雲の素早い流れ。秋を感じ始めると共に急速に冬に向かっていくことを感じ取った心が、急かされ呆然とするような感覚を掬い取った巧みな比喩だと思う。同時に実に静かな始まりだとも思う。詩は西日に照らされた校舎を描きだし、

 

 あれは 六十年前に見たはずの影だったか/それとも 六十年後に見るはずの影だろうか と記憶をたどる

 

急に時間がほどける。子供時代のことか、生まれる前のことか。あるいは生まれ変わった後のことか・・・。建物と、建物に当たる陽は変わらずにそこに在り続け、人だけが訪れてまた去っていくのだ。

 

 建物 アパートの階段の踊り場/その深いところにまで染みとおっていくのは光だろうか 影だろうか

 

眼が追っていくもの。ものが在る、そのことによって生まれる影。その摂理は変わることなく・・・変化し続けるという永遠の裡にある。一方、見ている私は揺らいでいるもの、訪れてまた過ぎ去りゆくもの、として永遠を観る側に回っている。

 

 ベランダの手すりや/配電線の 撓み/複雑なスクリーンの凹凸の上に結ばれる映像/私たち/それを見ている私たちもまた平らなスクリーンではありえない

 

見る者の内側で、さらに観る者がいる。見る、そして書き留めるということは、永遠のすぐそばで立会人のように立っているほかはない淋しさと明るさを、自ら意識して鎮めていくことなのではないか、という気がしてくる。

 

「驟雨の顛末」も窓際で烈しい雨脚を見ている景から始まる。音や動きは烈しいはずだが、語り口はたいへんに静かだ。ブルックナー交響曲が鳴っている、盛り上がっていく中で雨も強まり

 

 雨脚がつよくなる 風がそれをさらう/水煙があがる 屋根が叩かれる 地面が アスファルトが叩かれる/屋根の鋭角の軸先は猛スピードで 西へ さびしい別れへ

 

畳みかけていくリズムは地上のもの、物象と強く結びついたものだ。そこから急転して家が舟になる・・・まるで世界を水で降り込めたとてつもない雨と、そこで孤独に揺さぶられるノアの箱舟のように。舟になった家にいて、語り手は地上から連れ去られながら〈流したいものがある〉〈流れたいものがある〉ことに意識を集中している。

 

「生真面目な鴉」では、夏の日差しと日差しに照らされながら畑の黒土を飛び回る鴉を語り手は見ている。黒の上に落ちる黒い鴉の黒々とした影。おそらくかつて旅したであろうマドリードの日差しを思い起こしながら。

 

 こんな日の/私たちの影は 黒々と地面にはりつき/みると 力強くこの地上に張り付けられている 存在/軽々と 吹き飛ばされそうになりながら/しばしこの世に とどまっている 形あるものとして/張り付けられたものの 瞬時の重み を踵に冷たく感じながら

 

〈私たち〉は、見る者とその内面で観る者のことだろうか、それとも語り手と共に読んでいる私たち読者のことだろうか、私と鴉かもしれない。地上に在るものは影を引くのだ、重みを伴い、床の冷たさ、あるいは湿った地面の冷たさを感じるものとして影を〈地上に張り付けられている〉。

 

空豆」も面白かった。T字路に立つ三人の女、その視線を追っていく語り手。見る者は見られる者となり、さらには〈見ない〉者としてそこに立つ母親の視線に語り手は寄っていく。

 

 自転車の女は/ブレーキを掛けながらカーヴへ差し掛かる/母親も赤ん坊も 自転車には気づかないので/気づかれていないものは おそるおそる 空間のへりに近づく

 

この〈空間〉は共有項としての空間ではない。母親の観ている世界、母親の心の中に存在し始める世界といってもいいだろう。その世界の〈ヘリ〉に近づいていく・・・視界から外れる、それる対象を描くのに、視界を持つ者の外側で観る者の眼を借り、視界からそれていく者の動きを追っていく。

 

 母親が見つめているのは/矢のように駆けてくる 坊や/一身に 見つめられるために駆けてくる 数十年後の陽光のような/口のなかから ほろほろとこぼれてくる 空豆の/弾けることばを みつめている

 

この地上は、個々の人々の個々に異なる視点が重なり合って出来ているのだろうか、そんなことをぼんやりと考える。いくつものスポットライトが重なり合いながら光の濃淡を作り出し、影から舞台を浮き上がらせるように・・・光に照らされている間だけ、そのものはそこに在る、影に沈んだ時にはなかったことになる演劇のように。

 

そのほか、祖母を亡くした時のことを語る〈あなた〉を綴る「秋の深度」、物/者・・・が実際に在る、ということと、実際に居なくなる、ということ・・・そして記憶の中に在る/無い、という不思議を綴る「巻き添え」、母の“嘆き”が幻想の中で奔流となる「氾濫する」、この世に降り立った時のことを静かに思う「百舌鳥」・・・そして、物質としての影が次第に淡くなり存在が透明に澄んでいくような変容として地上に住むことと旅立つことが語られる「長い坂道のある家」などが印象に残った。