詩の中庭

日々の読書、詩集や詩書の書評、覚書など。

「地上十センチ」27号 和田まさ子さん個人詩誌 感想

和田まさ子さんの個人詩誌。表紙はいつもフィリップ・ジョルダーノさん。スタイリッシュなのにどこか懐かしい世界、壁画のような温かみと漆絵のような東洋のムードも孕む心惹かれる画家の作品です。並べるとまるで美術館のよう。f:id:poetess21:20210621213953j:plain
ゲスト詩人は若手の新鋭、詩の最前線で活躍する方がほとんどで、「いまの現代詩」の見取り図になっていると言っても過言ではありません。並べていくと詩の森の新緑、そのもっともみずみずしいところをクローズアップした図鑑のようです。

27号のゲストは石松佳さん。〈良質な夢はひとを死にたくさせる〉という内省的な一節から始まる散文詩「opus」は、"たとえば"という軽い跳躍を経て〈ユリス・モイズマン〉という画家が描いたという抽象画を講義室で観ている学生たちの情景を映し出し・・・さらに"たとえば"を重ねて、ユリスの内観、ユリスの思索的な視点からとらえた美学ーー"私の感覚" "私の発見"を描くのではなく、"他者の運動"から"私が把握し得た普遍"を描きとる、ということへの本能的な欲求ーーへと滑らかに移っていく。
ユリス・モイズマン、とは、虚構の画家だろうか。福永武彦が好きだったという画家、ニコラ・ド・スタールの、とりわけ"晩年"に近づくに連れて澄み渡り、哀しいほどに穏やかで明るくなっていった世界、アンフォルメルの濁ったグレーやくすんだ緑の混沌とした世界から、水色とシャーベットオレンジが印象的な海のような広がりの世界へと展開していき、その果てに死を選んだ画家を思い出したりしたけれども・・・石松さんの意識は留まっている景を描きとることよりも、向かっていく運動の意志、過ぎていく瞬間が与える感動、焼失していくものが見せる一瞬のきらめきをとらえること・・・に向かっているように思われた。もっとも、最後には永遠への志向ーー〈ユリスがあのとき伝えたかったのは、「水平線のようなものを見ていたい、」という、ただそれだけのことではなかったか、と思うこともある。言葉は、いつも茎の下の方から炎えているのだから。〉ーーという場所へと、再び戻ってきているようにも見えるのだが。その迷いの間の揺れ、その幅にこそ、詩があるということなのかもしれない。

和田さんの詩は三篇。コロナ禍に覆われた"今"を、その事には触れずに、自身の感覚や違和感を捉えて言葉に移しているように思う。気に入ったフレーズ、気になった一節を抜き出しておきたい。

ここが終点までのどのあたりか
新しく人に課された任務はなにか

だれかのためになにかをする
備忘録にそう書いた
その人が期待していないことをする
上手に人を照らす石の一つになって

小さなものをごっそり捨てて
探しものをみつける
(イノシシの居場所)

忘れものの人といると
肩にくもり空が降りてくる

冬になろうとする手が
幕を引き
あたらしい謎を広げるのだ
血のようなものが流れても
切岸で立っていることを約束させられて

金曜日
複数のわたしのなかの
気弱なわたしが
木の匂いのする人に
よく見えなかったきょうを語っている
大切なのは人が生きていること
(あたらしい謎)

河原、ここでも歩いている
いいものに出会うための手と足の用意をしていても
ごつごつと石のつよさに弾かれる
小さく始めたい、二○二一年
野ネズミが茅でまどろむ風景を
たぐりよせてやっと体温を落ち着かせる

再開、まだうまくいかないこともあるけれど
二月の冷たい地面に降りて
人との交信をする
(小さく始める)

2021年4月20日発行