詩の中庭

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『軸足をずらす』和田まさ子 詩集(思潮社 2018.8.1)感想

2019/03/12 22:05(「note」より転載)

 

  前作の『かつて孤独だったかは知らない』(2016)では、移動する身体が呼び込んだ感情や体感と、深い知性に裏打ちされた思索とが接点を求め、時に共鳴し、時に軋みあいながら、和田独自の一致点を求めてうごめいているように思われた。

 2018年に刊行された『軸足をずらす』では、精神が一歩先に出て、一致しようとする身体をむしろ後ろへ、後ろへと脱ぎ捨てて行こうとしているようにみえる。それにしても、軸足をずらす、とは、ユニークな題名である。軸足を、どこから、いずこへずらすのか。ずらすことで得られる、新たな地平とはどのようなものだろうか。試みに“身体”、“アジア”、そして“ニンゲン”をキーワードとして探っていきたい。
 
 詩集は「極上の秋」という作品から始まる。冒頭と後半を引用する。
 
 シュウメイギクが咲いている団地の
 角を曲がった、その角を
 同じ角度であとから曲がる人がいて
 真似られているから
 今日のわたしを一枚めくる
 もともとはがれやすい皮でできている
 おはじきのようにからだじゅうに散らばった感情が
 ひとつに集合し、かたまりのなかで
 じぶんと親密になる
 (中略)
 もう、ここに用はない
 理由があってもなくても
 靴底は新しい
 行きなさいと声がする
 角を曲がって
 にんげんが逆さに立っている野原まで
 (以下略)

シュウメイギクがもたらす晴朗な秋の気配の中を、〈用はない〉と言い切り、〈わたし〉は颯爽と歩いていく。今、居る場所から、歩み去ることから始まる詩集なのだ。皮をめくる、という身体感覚に即した表現や、〈おはじきのように〉という手触りのある鮮やかな比喩が、千々に思い乱れて自ら進路を取りかねているような心の状態を、的確に言葉に変換していく。まるで被膜のように肌を覆う過去の〈わたし〉、〈今日のわたし〉を脱ぎ捨てて、まっさらな身体で明日へと歩いていく、そんな決意が感じられる。
 〈わたし〉を取り巻く世界との軋轢・・・折り合いをつけるストレスや、他者の思惑への気遣い、人間関係のしがらみから逃れられない、今の〈わたし〉の思考回路をサッパリと脱ぎ捨て、ハンカチの上に拡げたおはじきをザーッとひとまとめに包み込むように、自分の気持ちをしっかりとホールドすることが出来たらきっと、晴れ渡る秋空のような心地がするに相違ない。続く作品にも〈昨日の雨が洗い流したから/欲望/沈滞/憂鬱/どれもわたしの身体を離れるだろう〉というフレーズがある。〈わたし〉は気持ちの“断捨離”を行おうとしているのだ。
 冒頭に現れる、角を曲がる〈わたし〉と〈同じ角度であとから曲がる人〉とは、何者だろう。〈わたし〉と同じ道を歩もうとする人と読むなら、〈じぶん〉はあえて一人の進路を選ぶ、という選択でもあるだろう。気持ちが先に立って、身体が後から付いてくるような時のもう一人の〈わたし〉と読んでみたい気もする。いずれにせよ、独立独歩の道を行こうとする〈わたし〉の歩行を促すのは、他ならぬ〈じぶん〉、つまり、〈わたし〉の精神、〈わたし〉の意志なのである。この孤独な歩行は、〈にんげんが逆さに立っている〉ような、今までの価値観が逆転するような場所、人間とはかくあるべし、というような既成概念が存在しないような地平に〈わたし〉を導くかもしれない。タイトル作品「軸足をずらす」の最後は、〈いい人だと思われなくてもいい/いつの間にかこの世にいたが/どこかに軸足をずらす/さみしい方へ傾斜するのだ〉と締めくくられる。独立独歩の歩行は、〈さみしい方〉を選ぶ、という選択でもある。
 一つ目のキーワードに“身体”を挙げた。巷間にある身体、様々な関係から逃れられない社会的身体としての肉体から、孤独な精神の歩みに重心を移すこと。〈軸足をずらす〉という試みのもたらす自由が、そこにある。
 
 二つ目のキーワード“アジア”は、「軸足をずらす」や「乗り越える」「苔玉」に現れる。アジア、と聞いた時に思い浮かべるのは、まずは東アジアから東南アジア、西アジアにかけての広い範囲の“外国”であろう。〈逃げるときは/そしらぬふうに/ゆっくりと歩く/混雑しているアジア/みんなが追っ手の目つきで並び/左右にからだを揺らして動く…平べったいからだになって/参道の流れに乗る〉(「軸足をずらす」)ここでは国名が明示されていないので、外国を訪れた時の体感の可能性が残る。しかし、〈アジアは満杯で/逃げ場を探す人たち/血がしたたる傷口が/東南アジアの地図上のどこにもあって/弟が飲み込まれていく〉と綴る「乗り越える」では、〈富士見通りの敷石〉や〈国立(くにたち)メガネ店〉と、明確に日本の固有名が登場する。「苔玉」では〈待ち合わせの鉄道の改札口の位置を探り当てられて/そこにアジアを混乱に陥れようとする人たちが迫り/またしても魚見橋のたもとで/行き場を失くした〉と、日本の橋の名前が出て来る。(※この〈魚見橋〉は、川崎市多摩区にある実際の橋の名称だろう。冒頭の詩「極上の秋」に登場する、〈五反田川〉に架かる橋である。)〈わたし〉がいるのは日本という国、という通常の概念をいったん捨てて、〈アジア〉という広範な場所の中の一地点、という視点に、〈軸足をずら〉しているのだ。日本、という枠組み、日本という構造・・・日本の中で生まれ育ったがゆえに染み付いている思考回路や既成概念の檻から逃れ、自在な視点を得るために、あえて外部に出る、外部から見る、という試み。〈わたし〉はアジアの一部でもある日本、と見ることによって、自身を客体化しているのである。
 〈混雑しているアジア〉、人で満杯の〈アジア〉は、〈わたし〉が生きるには息苦しい場所であるらしい。新たな視点を獲得した〈わたし〉が見出す〈じぶん〉の姿、〈じぶん〉の体感を見て行こう。
〈とても濃い世間に/息があがって/川の魚が口をぱくぱくしているから/人といると呼吸を整えられなくて/ときどき顔を背ける〉(「軸足をずらす」)(※〈川の魚が口をぱくぱくしているから〉という挿入句も面白い表現である。川の魚のように、という直喩を避けたのだろうが、苦し気な魚を見た瞬間、自身がその身に同化しているゆえの表現とも取れる。この、別種のものに“なる”ことについては、また後に触れる。)
〈結論を急ぐ人たちに囲まれて/姿勢を正し/人の目を見て話す/それだけのことができない〉(「突入する」)
〈世の中はあらゆることが二者択一で…二十四時間人間でいることを求められる/人間が過剰だ//アジアは満杯で/逃げ場を探す人たち~〉(「乗り越える」)
〈どのシステムでも人間は最後尾にいて/足踏みをさせられている/あるいは指に熱中して/時間を忘れさせられている〉(「生きやすい路線」)(※指が触れているのは、スマホの画面と思しい。)
〈わたしは耐えているのだろうか/いい人になるためにしなければならないさまざまなこと/世の中への参加の仕方/過ぎ去った時間の忘れ方〉(「戸が叩かれ」)
 同調圧力が強く、空気を読むことが求められ、人と呼吸を合わせること、和を乱さないことが強く求められる傾向のある、日本。自己主張を抑え、群衆に身をゆだねることが〈人間〉だというなら・・・〈人間〉とは無言で社会の為に作動する、歯車の一部、部品の一部と、どこが異なるというのだろう。和田が「極上の秋」で記した平仮名の〈にんげん〉が、〈人間〉の理想的な姿であるとするなら、〈ニンゲン〉は社会の型枠に嵌め込まれ、息を殺して生きのびることに何の疑問も感じなくなってしまった、機械のように感情を失ってしまった〈人間〉のことに相違ない。
 
 第三のキーワード“ニンゲン”は、二篇の詩に登場する。
〈体温を測ったり/身長を測ったり/人との距離を測ったり/ニンゲンは測るものが多くて/ますます生者から遠のき〉(「上手くふさいでくれる唇」)ここでは、数値ばかりを追い求め、“にんげんらしさ”を失ってしまった〈人間〉が、〈ニンゲン〉に化している。
「石を嗅ぐ」では〈部屋はニンゲンの酸っぱいにおいで充満しているので/外に出て/見上げると/屋根は二枚の袖のかたちをしている/その上は空だ/人はあふれて/住むところを探している/郊外では/屋根の傾斜が急で/ニンゲンはそれぞれの屈折角度で滑り落ちていく/すると地上の悲嘆は着物のように折り畳まれて/空の箪笥にしまわれる〉というように、空が自ら袖を広げているような大きな視野の中で、人心地を取り戻せる居場所を探し続けるたくさんの人々、ラッシュアワーの通勤地獄や企業の効率主義によって人間性を奪われ、悲嘆を訴えることもままならず〈ニンゲン〉と化していく、郊外のベッドタウンの住人達が描かれている。
 第四のキーワードとして、人間でないものに成る、という願望を挙げても良かったかもしれないが、人間、あるいは人、に合わせていくことも辛い、ニンゲンには成りたくない、出来れば〈にんげん〉のままでいたい・・・それが〈わたし〉の願い、として包括できるので、項目としては挙げなかった。『なりたい わたし』の余韻が、ここにも響いている、と言えばよいだろうか。
 やわらかな餅が切り頃になって、切断を始めた母に〈ねえ、おかあさん/それ、にんげんの腕だよ〉と語りかける「のし餅」を読むと、やわらかなまとまりの状態、不定形でどんな形にでも成り得る状態が〈にんげん〉で、規律正しく切断され、整えられていくことが〈人間〉もしくは〈ニンゲン〉になっていくことだ、と和田が考えていることがわかる。自らが芽吹く野山そのものになっていくような「内藤橋」には、〈ココロをコトバに変えないで/人と接したい〉という願いが綴られている。「石を嗅ぐ」には、〈明るい草がなびいている野原に/分身を/見つけに行く〉というフレーズが現れる。「新聞になる」は言葉を運ぶ紙面そのものに成って読まれ、滅びていきたい、という願望であり、続いて置かれた「溺れる」は、一尾の魚、それも切り身となって〈人の腹に収まりたい〉という究極の夢想が展開される。詩人としての最終的な願いは、気持ちや想いをそのまま他者に伝え、そのままに消費されてしまうこと、味わい尽くしてもらうこと、であるのかもしれない。
〈みっともないことも少ししたが/ことばでもからだでもないところが/すばらしい速度で/成長している…いまはただのにんげんのくずになろうとも/まだ新しい一ページを開こうとしている/路線バスからの眺め/きっと美しい〉(「生きやすい路線」)
 〈軸足をずらす〉ことによって得た、一人の自由と、さみしさへの傾斜。大勢の人が乗り込む高速バスではなく、客もまばらな路線バスに乗ることを選んだ詩人は、こころの・・・魂の成長を、確かに感じているに相違ない。彫刻家の舟越保武が以前、美しいものがあるのではない、美しいと感じる心があるのだ、という意味のことを語っていた。〈路線バスからの眺め〉が、確かに美しい、と感じ取れるようになったとき、和田まさ子は“ほんとうのにんげん”になるのだろう。その時に生まれる詩は、さらに素晴らしいものであるに相違ない。

 装幀もさりげないが意匠がこらされている。打ちっぱなしのコンクリート壁のような無機質で冷たい質感を、リトグラフのような描画で写し取ることによって温もりに変えた表紙カバー。ほのかに光がさした天然石のような肌合いは、和紙の風合いを持つ紙質によるものだろう。見返しにもニュアンスのあるトレーシングペーパーを用いて、光を添えている。

 装幀、組版は詩人の岡本啓