詩の中庭

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『ふづくら幻影』長田典子詩集(思潮社2021.9.1)感想

 やわらかな銅版の装画に見入る。秋、実りと共に立ち枯れたつる草とその実をついばむメジロの繊細な像が、仄暗い草葉の重なりへ、その向こうへと誘いこんでいく。その上に平仮名で記された、ふづくら、の文字。帯文に失われた土地の名、とある。(装画 武田史子)

 ふづくらとは、旧津久井郡中野町不津倉、昭和30年代の終りにダム湖の底に沈んだ村の名だという。長田典子が生まれ育ち、多感な時期を過ごした場所だ。

 物語のようにスムーズに読み進めることができる詩集だ。鮮やかに情景を立ち上げる、違和感のない、しかしハッとさせられる的確な比喩が、当時の心境を感覚的に手渡してくる。たとえば「蛍」、〈草木の匂いが胸の底まで沁み込んできた〉〈青臭い蛍の匂い〉〈わたしも いっしょに/夜空を飛んだ〉や、〈雪/しーちゃんと長靴で足跡を付けて歩きまわる/聞こえない音が/かーん、かーん、キラキラ、/響きわたり〉(「かーん、かーん、キラキラ」)、〈トマトの実が赤々とゆれ/山羊は黒曜石のような美しい玉を産み落とし続けた〉(「ツリーハウス」)など。

 ときにうたい、ときに語る言葉の進行も魅力的だ。気持ちの昂揚と共に自然に歌い出す流れに乗って、揺れながら運ばれていくような読後感がある。しかし、まっすぐに物語の筋を見せてくれるわけではない。時間の伸び縮みする空間を立ち上げていくような詩集、と言えばいいだろうか。省略する部分や焦点を当てる部分のメリハリが効いていて、詩集という入口の向こうに四方八方から糸をかけ渡していく空間が現れてくるような感覚が残る。

 たくさんの製紐機が並ぶ工場、その暗がりで遊ぶ子どもの心の昂揚が、天井裏に〈青い夜空〉と〈無数の星〉を幻出させる。〈何百台もの製紐機がたてる大騒音は/大騒音を通り越して/ひたすら静かで/満点の星が/きらきら きらきら/わたしのからだに満ちていった〉(「上を向いて歩こう」)。松明や村の灯の影なのか、灯篭や盆提灯の記憶なのか、〈あかい火、あおい火、きいろい火〉歌うように火の玉と共に思い出す〈野辺送りのぎょうれつ〉は、彼らが去っていった街のネオンのイメージと重なり溶け合って、水底に今も燃える火として幻視される(「水のひと」)。

 身体でうたいながら朗読する場面も想起させる、巧みに音の記憶を織り込んで呼び出される村祭りの光景(「お祭り」)。子どもの頃、水遊びに興じた川でめだかを掬いながら、〈めだかはどこからくるの?/この川はどこからながれてくるの?〉という幼子の問いは、この土地に生きる人はどこからやってきて、どこに流れていくのか、という普遍的な問いに重なっていく(「川は流れる」)。少女の目に映り、五感を通じて記憶に残る人々の姿、生活の影。

 長田にとってふるさとの川は、もう帰れない場所、ということだけではなく・・・それだけなら、単なる郷愁と懐古に留まるだろう・・・そこに家族のように住み続けてきた人々とその生活全体を包み込む〝母〟のような場所であったのだ。その〝母〟を失って得た近代的な生活の中で、ふとしたきっかけで思い出していく〝母〟の手触りを確かめ、もう一度、その空間と時間を立ち上げる作業(「黄浦江」、「空は細長く」など)。それは失われた過去のものを懐かしんで再現するのではなく、この世に訪れ、またあの世へと去っていった人たちが暮らし続けている空間を自分の記憶の中に探し出し、言葉として見つけ直して現前させる試みだったのだ、ということに、読み終わってから気づく。

 

 構成も魅力的だ。とらえどころのないところから滴り落ちてくるものをとらえようとする「祈り」が冒頭に置かれている。全体のプロローグとなる作品は、具象性を生かした他の作品に比べて象徴性、神秘性が高いけれども、〈津久井町中野字不津倉〉の〈湖底の墓地〉から響き、伝えられるなにか、として、確かに読者の心に刻印される。最後に置かれるのは、すべてのきっかけとなる一枚の航空写真・・・記憶の宝箱のカギのようなものだと思うのだが、その写真を見たことに始まる思い出の採掘作業、その起点を描いた「空は細長く」と「巡礼」である。現在の時間感覚で過去の時空を包み込むような構成と言えばいいだろうか。終盤に置かれた〝現在〟の部分も、近年の旅行の情景を描いた「黄浦江」を先において、なぜか川筋の蛇行に惹きつけられる自分自身の発見をまず描きだし、その蛇行から故郷の川の蛇行が呼び覚まされる流れとして編むなど工夫が凝らされている。航空写真という外からのアングルが、〈あの頃/空は細長く…藍色に曲がりくねる空をなぞるように見上げながら〉という一節で川底から空を見上げている少女時代の心象風景に一気に視点を移動する展開が見事だ。旅先の――語弊があるかもしれないが〝前近代〟が色濃く残る場所を心身が体験した時、記憶の蓋が開いて少女時代の時空間を心が再び生き始める、その流れが無理なく再現されている。

 前近代というのは進歩史観から見ると否定的な表現になるのかもしれないが、魂の居場所、心の在り処が大切に守られている場所、とみるならば、むしろ肯定的な響きを持つ時空間と言ってもいいだろう。懐古としてではなく、近代が失ってきたものを再探索する場所として訪れる時空間。それは記憶を通じて辿ることができる。だからこそ〈立ち込める/霧の中を〉通って「巡礼」へと向かうのだ。

 前作『ニューヨーク・ディグ・ダグ』では多感な思春期以降の視点で批判的に描かれていた父親の像が、今作では経済観念には疎いものの人助けに率先して立ち上がる人情味の厚い人物として現れるのも新鮮だった。父親に熱く愛された少女時代、それから大人になって様々な周辺事情も含めて見えてきた姿が重層的に重なって、人物像としての厚みを取り戻したような感もある(「しらんぷり」「午前四時」など)。

 

 冒頭に独立して置かれた「祈り」の後、いわば詩集自体の始まりの最初に置かれた「夏の終わり」も考えさせられる作品だった。表現としては渇水で水の引いたダム湖の湖底を訪れた折の写実だ。けれども、そこには記憶の不思議が何重にも重なり合っているような気がする。何十年も前の、まだ水底に沈んで間もないころに家族と訪れた少女の頃には〈まだそのまま残っていた〉集落の痕跡。〈あったはずの家や庭の跡〉、つまりは更地を歩き回っているのに、住んでいた頃そのままの光景が立ち上がってくる不思議。それは、記憶を共有している家族と共に歩き回っているからではなかろうか。それが、結婚して新しい家族となった男と訪れた成人の頃には、〈道は途中から消えかかり/獣道のようになっていた〉…すでに消えかかっている。時間経過を考えれば当然のことなのだが、〈実は遭難しそうになっていた〉という語り手の心細さ、思いは共有するけれども記憶は共有できない男が励ましと慰めの意を込めるかのように〈汗ばんだわたしのTシャツの/肩甲骨の下あたりに/羽根を取り着けるみたいに/温かい両手をあてて〉くれる行為が印象に残る。それは他の誰にも書けないこと、〝わたし〟が覚えていること…失われかけている道とその先にあった暮らしぶり、今も続いている時空間を書き記さねばならない、と決意した瞬間のようにも思う。

  

 鋭い批評性も印象的だった。たとえば、「セドリックとダイナマイト」で子どもながらに不穏として感じ取ったちぐはぐさの感覚や幻聴として聞き取るダイナマイトの爆破音は、それまでの生活を一変させてしまうかもしれない保証金や立退料がもたらすコミュニティーの破壊の予兆なのだ。「水のひと」の、子どもの眼がとらえた火の玉の幻燈のような美しさと、故郷が水中に沈んだ後もその火の玉がともり続けている幻影。魂たちは水中で今も〝生きて〟いるのに対して、同じように赤青黄色のネオンの輝く都会の〝水底〟で、〈商店街のある町で/溺れたひともいるそうです〉という終連が重い。

 女性であることの差異と、差異が除外に結びつくことがあるという驚きと怒りを〈とつぜん知った/せかいのそとがわ〉ととらえる感性(「お祭り」)。「かーん、かーん、キラキラ」のしーちゃんとの素朴な交流は、祖母が幼い子にも分かるように伝えてくれた、故郷の朝鮮に〝帰れない〟隣人への思いやりである。「ツリーハウス」の終連で、路線図を〈血脈のように続く〉ととらえる感覚は、自分が生まれる前から続いてきたものがこれからも続いていくことへの確信なのだと思う。詩集を開けば、いつでもそこにある「ふづくら」。失われた故郷を持つ人だけではなく、開発で様変わりした故郷を想う多くの人の心にも響く詩集である。