詩の中庭

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『しろい風の中で』田中眞由美詩集(土曜美術社出版販売2021.5.16)感想

 濃紺の中に鮮血のように散る鮮やかな赤。エメラルドグリーンをしのばせたマラカイトグリーンの対比と、力強いペインティングナイフの筆致が印象深い装画は、著者の手になるものだという。題はthe earth 。そこに白抜きで「白い風の中で」とタイトルが入る。グローバルな視点から地上を吹き渡る風に思いを馳せる詩集だろうか・・・そんな予想を抱きながら詩集を開く。冒頭に置かれているのは「かどの先」、〈あまりに突然/それは落ちてきて/声をかける暇もなく/あっという間に/角を曲がっていってしまったから〉と始まる詩篇である。動きも様子も鮮明に“見える”のに、〈それ〉が何か、よくわからない。〈いま捕まえれば/まだ間に合うと教えるものがいる〉と語り手はつぶやきつつ、夕方の街角で〈途方にくれて〉立っている。その様相もよく“見える”。しかし、なぜ語り手がそのような状態に置かれているのか、何を見ているのか、それは明かされない。あたかも、見ようとしているものの位置も気配も見えているのに、具体的な姿を捉えられずに呆然としている状態そのものを描写しているかのようだ。

 この作品に限らず、詩集全体に指示代名詞が多い。〈いま〉〈あのとき〉〈明日〉のように時間を指し示す言葉も多い。確かにそこにある、とわかっているのに、具体的に描写したり名指したりすることのできない何か、について、もどかしさに抗いながら記そうとしていることが詩集全体から伝わってくる。

 

時を/ふたときも早送りすれば/たどりつく そこ//はつ夏のひかりのなかで 紫陽花が薔薇がさきみだれ しゅうめい菊がのうぜんかつらが つぼみの準備をはじめ あの人が 鋏を使っている…見るまにそこはどんどん膨張して あの人が薄まって 時間軸が巻き取られていき 地中からは えのころ草が露草がひめじおんがみるみるひっぱり出され 庭を埋め尽くす (「そこ」)

 

語り手が幻視しているのは今現在の姿ではなく、記憶を早送りするようにして遡った情景だ。美しい花に彩られた庭と、嬉々として庭木の世話をしている〈あの人〉、それが見る見るうちに茅屋へと変貌する。〈あの人〉とその庭のあった場所・・・そこがビデオを早回しするかのように(それは文体でも示されている、)変容する。そこに、いったい何が起きているのだろう。

 続く「小さいひとが言って」では、〈そこ〉に通じる扉を〈開けるたびに古い扉が現れて〉〈いつの間にかわたしはすこしずつ小さくなる〉と記される。それは過去への遡行だ。記憶と体感のはざま、夢とうつつの境のような場所での“体験”を記していく作品には、〈あのとき がそこにいる〉〈いつか がうずくまっている〉という、時を存在者のようにとらえる印象的な詩行が現われる。

 過去、それは幼少期を家族と共に過ごした家の記憶を呼び覚ます。家族の成長、人生の選択や病、時には永遠の別れによって、家という容れ物は“そこ”にあっても、〈いえ〉そのものは変貌していく。心の中にしかない〈いえ〉の記憶と実際の家が重なり、ゆがみ、姿が失われていく。それを冒頭で〈しろい風がさらっていく〉ととらえる「ひろい空の下で」。カオスを経てまっさらな場所に立ち、新たにそこから始めようとするような、寂しさと空虚、それからある種の覚悟を秘めたような開放感が作品全体を覆っている。〈帰るところだったいつもいつもどこからでも そこが嫌いで飛び出したはずだったそこ〉と息つく暇もなく一気に言い募るような第二連以降、文字が密に配された散文詩の形式による視覚的効果と、〈ひろい空〉という題名とのずれが、気持ちのずれまでをも表しているようだ。

 ここで吹きすぎる〈しろい風〉は、〈そのひと〉と名指される大切な誰かを覆っていく白い闇でもあるだろう。〈白い闇が押し寄せてきて/似たひとを覆っていく/払っても払っても/白い闇はそのひとをとりこんで/連れ戻すことはできない〉(「そのひと」)。その人が連れ出されていく場所は、たとえば「帰還」などに会話体の形で取り込まれた〈そのひと〉の言葉(ある種の譫妄状態)や、〈毎日が/知らないうちに食べられてしまうと/そのひとはいう〉(「毎日」)が暗示するような、カオスとしての忘失の白い闇なのかもしれない。〈訪ねてもそのひとが/現れないこともある〉〈行けば/いつでも会えると信じられた日は/つい昨日のように思えるのに/そのひとは/出かけてしまったようだ〉(「どこまで」)というつぶやきが切ない。

    しかし語り手は、後悔や虚脱の中に留まらない。ここで詩集の始まりに置かれた「吹き抜ける」を改めて読み直してみる。抽象度の高い作品だが、詩集を読んだ後で見直すと語り手と〈そのひと〉双方が〈白い闇〉を潜り抜けたときの実感を記している、と思われてくる。〈先に来ていた〉そのひとと、後からひとりで歩いてきた〈つもりでいた〉語り手とが二人とも同じ地平に立ち、この世に〈送り出された時から/危うい生を見守られてきたこと〉を、〈だまって向かい風を受け〉ながら気づく詩となっているからだ。

 今までの〈そのひと〉を見失い、取り戻そうとする焦りや苦悩というカオスを経て、語り手はしろい風の吹き渡る新たな地平に、二人で並んで立つ決意をする。〈そのひとは/見知らぬものを/飼いはじめていた〉いや、その人が〈飼われはじめた〉と自覚しつつ、〈しかし見知らぬものも匂いは奪えない 春の香りはそのひとを目覚めさせる 目を見開き春の香りを確かめると手が伸びてそれは口の中に納まるにっこり笑ってああ美味しい そのひとは声に出して美味しい春に手を伸ばす〉(「見知らぬもの」)ここも一気に言い募るような切迫したリズム感で語られる個所だ。

 最後に置かれた「あした」は、カオスを受け入れ、その向こうに〈そのひと〉が失われずに存在していることを確信して前に進もうとする語り手の希望を歌っている。向かい風が白いカオスを、白い闇を巻き起こし、大切な人をさらっていった後の、しろく吹き渡る風に清められた空間。そこで語り手は、いま、という状態を受容し、その場所から新たに始めることを断言するのだ。〈だからわたしは/あしたあなたに会えることを/信じている//痛みを抱えたままで/これからもずっと〉(「あした」)

 長寿社会日本。誰にでも〈白い闇〉が襲い来る可能性がある時代となった。そしてそれは、街角を曲がったら出くわすようにある日突然やってくるかもしれないのだ。この詩集の中の〈わたし〉は、私たち自身の姿でもある。〈そのとき〉をどう受け止め、どのように潜り抜けていくか。それは一人で乗り越えていく、ということではない。この詩集が孕んでいるのは、〈しろい風を並んでうける/できなくてもわからなくても/ひろい空の下で〉(「ひろい空の下で」)その空間の中に並び立つときをどう迎えるか、という一人一人への問いである。