詩の中庭

日々の読書、詩集や詩書の書評、覚書など。

高良留美子著『女性・戦争・アジア』(土曜美術社出版販売2017年2月)感想(再掲)

 『女性・戦争・アジア』の、広範で膨大、一つ一つの項目を突き詰めて考えていく高良留美子の仕事に圧倒されながら、関連書を繙きつつ、少しずつ読み進めた。高良氏の知識量と思索の深さはもちろんのことであるが、大きく包括的にとらえたり、異なった側面から光を当ててから緻密に検証していく論法からも、多くの学びを得る評論集だった。

 

 読みながら、「modern」とは何か、ということを、考え続けていた。自然界の岩も川も、動植物もすべて「神」の作りだした被造物、という西欧の考え方が、対象を「物」と観る思考を促進し、自然界の事物を遠慮なく「利用」する発想へと繋がっていくのだとしたら・・・そして、神の似姿でもある人間には、それが許されている、という思考法が、産業革命以来の文化を創り出したのだとしたら・・・人が自然から切り離されていく(世界から分断されていく)近代化の帰結は、自然界への畏怖を忘れた人間にもたらされた「報い」であるような気がしてならない。

 

 「詩における東と西」の中で、高良は〈日本人は過去一世紀以上のあいだ、西洋の文明をとり入れ、それに適応してきた。しかしそこには過剰適応の面が〉あった、と指摘している。漠然と抱き続けていたものの、言葉にならなかった違和感を、まさに言い当ててもらったような一節だった。本来アジアの一員である日本人が、「脱亜入欧」を急いだことが生み出すひずみ、自然との隔絶が生む不安や孤独、孤立感。西欧から見れば前近代的な心性の現れと認知されるかもしれない、龍神を祀ったり山の神や海の神への祭礼を行ったりするアニミズム的な伝統的な行為は、日本も含めアジア諸国において、自然への畏怖や敬意を次世代に引き継いでいく重要な役割を果たす儀礼でもあったはずだ。人も自然の事物も、自然(大地)が生み出した「もの」である、という、より大きな「全体」の中に、「物」も「者」も包含されている。意味の差異によって異なった漢字を当てられても、「もの」という音韻は同じ、おそらく発想の原点も同一。動植物だけではなく、岩や土や川などの自然の事物も人と同じように「一緒に存在するもの」である、という意識の中に、本来の平等が根差しているのではないのか。〈東と西のもつ二つの価値観の統一は、男性的なものと女性的なものの統一と共に、現代文化の緊急で本質的な課題である〉という言葉に、深く共感する。

 

 人と人だけではなく、自然界に存在するものは皆平等、共に自然(大地)から生まれ、やがてまた土に還っていく。大地どうしをつないでいる海から「命」が生まれ、やがてまた大地に戻っていく、という循環。あらゆるものが平等に存在をゆるされているならば、本来そこに「価値の差」など生まれて来るはずがないのに、人間は優劣をつけ、自らを高い所に置こうとし・・・中には、より容易に自らを相対的に高めるために、他者を貶めようとする人もいる。

 「戦争」がなぜ起きるのか、どうして「人間」「人類」は、それを防ぐことができないのか・・・文学には「起きてしまったこと」を伝えることはできても、事前に防いだり未然に留めることはできないのではないか、「現実」に対しては無力なのではないか、という、絶望的な気持ちになるが、植民地主義の原罪と文学―9.11以後を考える」などを読むと、「戦争」を引き起こす直接的、表層的な要因が欲望や野望の衝突であったとしても、その衝突に到る過程に、他者の文化への無理解や差別意識、自分たちの文化や思想を押し付けようとする独善性(正当化する宗教、思想、理念)がある、ということを鮮明に意識させられる。この段階であれば、文学は未然に戦争と関わり、防ぐことができるかもしれない、という希望を持つこともできる。もちろん、微力であり、淡い希望であるには相違ないが。

 「事実」を探り、確かめるということ、それを伝え、明らかにする、ということ・・・その時に、「出来事」を記述するのが歴史だとすれば、その時の「心情」を、同じ人間である、という普遍性を根拠として推し量り、自らのもののように感じて、心の中で再体験して、同時代の人々や後世に伝える、問いかける、その行為が文学なのだと思う。そして、同様の悲劇や苦悩を再び引き起こさない為に、人間には何が出来るのか考えさせる、自発的な行動へと促す・・・その段階における重要な役割を、文学は担っているのだと考え直す。外交交渉の現場や、国際会議の議場における弁論に、根の部分で繋がっているのが、そうした文学的な思考なのだ。

 

 「弱いもの」に寄り添う、その立場に立って考える、理不尽や悲惨な現実について抗議し、非難し、改善を働きかける・・・そのことの「正しさ」についても考えさせられた。真の同情(憐憫ではなく)、真の共感とは何か。自身の理不尽や憤りを越えて、誰かの「為に」行動する、という行為に素朴な憧憬を抱いたり、理想的な生き方を見たりもするのだが・・・それは、自分自身にも内在する「英雄願望」の発露でもあるのではないか。そう考えた時、「為に」という行為の持つ両義性(それは「正義」の両義性でもある)そうした価値観にとらわれることの「恐ろしさ」について、考えざるを得ない。

 「恐ろしい」というのは、ここしばらく、戦時中の詩人たちの日記や手紙を読んだり、行動について考えているせいかもしれない。戦時中の文学青年をとらえたある種のヒロイズム願望のようなもの、時代の「閉塞」を突破する為のモチベーションとなる思考。人は、何のために生きるか。レゾン・デートル、青臭い「自分探し」ともいえる、狭隘な思考かもしれないが・・・青年期だけの、あるいはある時代だけに見られる特殊なものではなくて、いつでもどこでも再び沸き起こる可能性のある感情なのではないか。その感情の渦が、熱狂的に再び「戦争」を引き起こすことに繋がりはしまいか。そして、知らぬ間に自分自身も加担することになっていく、ということになりはしまいか。その、熱狂の渦に巻き込まれずにいることと、傍観者として加担せずにいることとの相違は何か。巻き込まれないように注意喚起し続ける、という役割が、文学には求められているのではないか。

 植民地主義や物質的豊かさ、国力としての強さを得ることが「近代化」であり「進歩」であると信じ、アジアのどの国にも先駆けてその「豊かさ」を「実現(獲得)」した明治維新以降の日本。日清戦争日露戦争の「勝利」が、第一次大戦ロシア革命に揺れる「欧米列強」の勢力後退に由来するものでもあることを忘れ、「亜細亜」における「先進国」の地位を獲得したと自負していた日本。そこには西欧的近代に対するコンプレックスがあり、かつて憧憬と学びの対象であった中国や朝鮮の学問や文化への近親憎悪的な感情や、乗り越える、ために他者を矮小化し、侮蔑的に見下すことによって自らを相対的に高める、という歪んだ自尊感情の充足がある。「戦争」はもはや避けられない、武力が唯一の突破口なのだ、という「情報操作」があり、そうした中で目前に「死」が突きつけられたとき・・・(どうせ死ぬなら)野垂れ死ぬような無駄な死に方、無名の死に方ではなく、国家の「為」、英雄的な死を死ぬことによって、有名の死に方を得たい、死後に名前を残したい。なにか大きなものに自身の命を捧げることによって、無価値な死を価値ある死にしたい、というような願望が生起するだろう。同じような状況が現れた時、「国家の為」「公共の為」が強調されていくに相違ない。そのような時代的傾向が現れた時こそ・・・本来の「公共」とは何か。個々の相互的な尊重に基づく公共、権力者によって統括され、付与される公共、ではない、市民による自発的な公共をこそ、考えなければならない、と思う。

 

 今現在の政治の動きや、「嫌韓・嫌中」のヘイトスピーチや書籍の横行、歴史修正主義者の主張などが、日中戦争や太平洋戦争が始まる前の日本と重なって見えて来る。歴史が単純に「再来」「再生」されるとは思わないが、過去を学ぶ、反省的に歴史を検証し、未来へとつなげていく、その歴史の潮流の(分子レベルの微細さではあっても)個人は一部を担っている、ということを、忘れてはならないだろう。その、庶民レベルの直感、庶民レベルの警戒心を、おろそかにしてはならないとも思う。昨今の投票率の低さや、政治的話題を日常化することへの嫌悪感、最近話題になった「お笑い」が政治風刺を行うことの是非、についての議論などについても、一人一人の市民が、自覚的に引き受けて行かねばならない課題であるはずだ。

 宮沢賢治が、もう少し長生きしていたら・・・グスコーブドリのような自己犠牲を賞讃する傾向、世の為人の為、皆の幸せを考える、という生真面目さや「誠実さ」が、賢治を「国」の為に命を捧げよ、と主張する「愛国者」にしていたかもしれない。賢治の「国柱会」への入信などを見るにつけても、誠実に国家の未来を憂う青年であればあるほど、全体主義的な理想論、英雄主義に引き込まれていく恐ろしさを感じるし、それは今、現在に生きる私たちにも、突きつけられている課題であると思う。いつまた同じような選択の前に立たされるかもしれない、そのことに対する真の警戒心を、持つことができているか。

 個々の命を尊重することと、自らの死を死ぬことは、きっと同義なのだ。国家や理念、といった、大きなもの、壮大なものに、自らの死を引き渡さないこと・・・同時に、死を私物化しない、自分だけのものとはしない。自然の中に還っていく始まり、としての死を意識することが、自然の一部として生き、個物としての孤独や孤立の不安を解消していくことになるのではないか。

 

 思いが多方面に広がってなかなか自分でもまとめられずにいるのだが、以上のようなことを、『女性・戦争・アジア』を読みながら感じたり、考えたりしたのだった。

 

 一章の「女性詩人」を読みながら思い出したことについても、書いておきたい。それは、最近読んだ三十代の男性詩人が執筆したブログ記事のことだった。日本の詩の百年を、ラップミュージックや現代のネット文化に詳しい「現代っ子」の眼で読み直す、という、面白い視点の文章だったのだが・・・そして、ほぼすべての話題に、同意したり感心したりしながら、読み進めたのでもあったが・・・戦時中の特攻隊戦士の遺した詩文に、企業戦士として疲弊していく自分たち男性の視点を重ねて共感する一方で、茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」を、戦死した男たちのことなんか忘れて、新しい文化を享受しよう、そんな女性の変わり身の早さ、したたかさのようなものの現れ、という読み方をしていて、その一点に関しては、大きな違和感を覚えたのだった。(個人的に、批判のメールも送った。)もちろん、詩の読解は自由であるし、男性側からの貴重な視点として、尊重もしたいと思っている。思ってはいる、ものの・・・。

 ときどき、男性たちの視線に、自分たちは企業戦士、労働力として社会で必死に働いていて、自分のための時間も満足に取れないのに、女性は楽をしている、得をしている、そんな「専業主婦」や「パートタイム主婦」への冷ややかな眼差しを感じることがある。逆にフルタイムで仕事をする女性に対して、女性としての役割(子育て)をなおざりにしている、一番大事な「仕事(家事育児)」をおろそかにして、自己実現に躍起になっている、というような見方が(姑など、女性の側からも)なされたりすることもある。

 最近では、「女性詩」という言葉は死語になった、などと言う人もいるようだが(文学の世界で女性、男性、と分けること自体に問題もあるかもしれないが)、女性が女性の視点で女性の作品を読む、という行為は、男性が見落としたり誤解したりしている部分に光を当てていく、という意味でも、継続されていかねばならない。性差や社会的な差異を無くしていく、均質化していくという方向ではなく、むしろ差異を際立たせ、その際立つ中から立ち上がる、異なった視点、多様な視点をこそ、尊重すべきだ。多様な視点をぶつけ合い、共感は出来なくとも(安易な共感なら、むしろしない方がいい、)理解し合い、時には一定の譲歩もし、相互に尊重していく。意見、異見の尊重は、個人相互の尊重でもある。

 

 五章の「詩と会い、世界と出会う旅」にも、強い感銘を受けた。

ムハンマド・オダイマ氏からの質問への〈人は言葉の海のなかに生まれ、言葉によって養われ、そして言葉の海のなかに死んでいきます。人は言葉を手段にすることも、目的にすることもできますが、人が本当にできるのは、言葉を生きることです〉(p194)という高良の回答に、深く感動した。また、マジシ・クネーネ氏の〈世界はバランスを失ってしまった。もう一度世界に調和を、秩序をもたらすことができなければ、わたしたちは大地への責任を果たすことができない〉(p243)という言葉にも、強く心を揺さぶられた。

 人は、いのちを大地からいただき、言葉の海のなかで「人間」へと育っていくのかもしれない。そのことを忘れ、大地を所有物であるかのように切り刻み、「快適で便利」な生活の為に「役立つ物質」のみをかき集める行為。工業的物質文明が「進歩」と呼ぶもの・・・そんな、普段忘れていることを、思い出す、考え続ける、そしてそれを「言葉」にしていくことから、「言葉を生きる」ことは始まるように思う。言葉を欲望の伝達の為の手段として、「物」として使役するのではなく、「大地」の声を聴く、ということ。「言葉」が私たちの中を通り抜けていく時に、揺さぶったり満たしたり持ち去ったりしていく、その感覚を思い出す、ということ。〈人間はその土地に生える木に似てくる〉(p238)その土地こそが「ふるさと」「くに」なのだ。「国家」や「領土」は、その「くに」に生える木々をすべて無視して、模式図のように色分けできる平面と考える、そんな「いのち」を無視したやり方から生まれる発想なのではなかろうか。

 

 カーリー女神など大地母神のイメージが、母系社会から父系社会へと変わっていく過程で残虐さや恐ろしさを強調する方向に変わって行った(貶められていった)であろう、ということも興味深かった。日本でも、伊弉諾伊弉冉、両性の共同作業で世界は生み出されていったのに、火(文明)を手に入れると伊弉冉は穢れの域に追いやられて、「父」から生まれた天照が国全体を照らす、という構図に移っていく。伊弉冉は「いのち」を生み出す存在から、奪う存在としての側面ばかりが強調されていく。山姥の物語に以前から興味があるのだが、伊弉冉(大地母神)の多産、豊穣の面が「山姥」伝承に強く残されていて、興味深い。このあたりもしっかり調べていきたいと思う。

 「日本の掛け合い恋歌の伝統について」の章で、高良は折口説を検討しているが、男女の役割分担のようなものが固定化している、その枠内から見ている折口の視点を、さらに超えたところから見ていく、ということの重要性にも気付かされた。今、自分が捕らわれている思考の枠組みや、社会通念から離れて、あるいはそれができなくとも、その枠内から見ている、ということを意識して、考えていくことが大切だと思う。

 以上が、雑感的な補記も含めた、『女性・戦争・アジア』感想である。

 

Ymiko’s poetic world(https://yumikoaoki.exblog.jp/※前ブログ)

2018.1.1より転載、再掲

内容説明

女性詩をはじめ、海外の詩人たち、アジア・戦争・植民地支配について、さらには「列島」「現代詩」「詩組織」「詩と思想」等詩運動誌との関わりを通じて、女性詩の評価、戦後詩の反省、モダニズムの考察、人ともの、未来の詩への展望など、高良留美子の58年間に及ぶ評論活動を集大成。

目次

1 女性詩人
2 追悼
3 アジア、戦争、植民地支配
4 人ともの―社会主義は死んだネズミか
5 詩と会い、世界と出会う旅
6 詩誌と詩人会、詩運動へ参加
7 現代詩の地平―詩壇時評より

高良留美[コウラルミコ]
詩人・評論家・作家。1932年東京生まれ。東京藝術大学美術学部慶應義塾大学法学部に学ぶ。中学・高校時代から女の問題を考える。1956年、海路フランスに短期留学、アジアの問題に目覚める。詩集『場所』で第13回H氏賞、『仮面の声』で第6回現代詩人賞、『風の夜』で第9回丸山豊記念現代詩賞受賞。1989~96年城西大学女子短期大学客員教授。1997年「女性文化賞」を創設。日本現代詩人会、日本文芸家協会、新・フェミニズム批評の会、千年紀文学の会、日本女性学会、総合女性史学会会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)