詩の中庭

日々の読書、詩集や詩書の書評、覚書など。

『びーぐる』に採録された書評(2014~2015年)

2014年~2015年、季刊詩誌『びーぐる』に投稿した書評を転載します。

 

「私たちは、つながっている」詩集『錦繍植物園』中島真悠子著 土曜美術社出版販売 定価(本体2000円+税) 

 血だらけの「あなたの指」が、「私の皮膚」を剥ぎとって、夜ごと刺繍していく・・・タイトルポエムの「錦繍植物園」を読みながら、白い肌の上に熱帯性の植物の蔓や毛根が繁茂していく眩惑に、しばし捕らわれていた。イメージの生々しさに圧倒される。

「あなた」とは誰だろう。夜になると中島の元を訪れる、もう一人の私(「ハイド」「水棲の部屋」)。見えざる者たちに囲まれて「繕いをしながら/朝と夜を溶け合わせることを目論んでいた」私(「閉ざされて」)。「私に連なる幾千の父母が湧き出る」断崖の上に立つことが出来る私(「心臓」)。内なる異世界を痛々しいまでに鮮やかに感じ取るもう一人の「私」が、今ここで詩を書いている「私」の姿に重なっていく。

 処女詩集である本書は、目を射ぬく鮮烈な映像が印象に残るが、著者の語り方は静かで、なめらかな日本語の語感が美しい。永続する生命や、いのちの原初的なエネルギーといった「本質」に果敢に取りくみながらも、中島のもうひとつの世界への入り口は、身近な虫の蠢きや庭先の植物の生長といったささやかなものに開いている。

 たとえば、「岸辺の石を裏返すように/昼を裏返すと/幾千の蟲が湧いてくる」と始まる「蟲の夜」。都会の夜景が、蟲たちの明滅する眼を想起させた瞬間、「地球の外で石を裏返す」ように昼を裏返すひと、の存在が立ち現れる。「いまだ光の届かない星よりも遠く深い場所で/私たちすべての臍の緒が/結ばれている」ことに想いが至るとき、私たちはひとつの大いなる〝母体″に連なる胎児となる。

 あるいは、種を蒔いて育てると、新種の植物としてのファルスが、巨樹となって屹立する「種」。エロティシズムを喚起する「性」からは切り離され、「大地は宇宙をそなえて/はろばろと男根を育てる」というのびやかな風景に驚きつつ、「私」は自らが「新種の種」であり、「熱く 私から生まれたがっている」ものがあることに気づく。読者は中島の世界にいつしかとりこまれ、再生の予感の内に、生命力そのものを目撃するのである。

 生と死の繰り返しの、その堆積の上に”今”がある。普段私たちは、過去との連続性を特に意識することもなく日々を過ごしているが、ひとたびその連続が断ち切られるような災害に遭遇したり、自身の生が脅かされるような状況に陥った時、現代人は自らの生の寄る辺なさと文字通り対峙させられる。中島は過去や世界とのつながりを現代に呼び覚まし、鮮やかに描き出すことで再認しようとしている。それはどこか、シャーマンが担ってきた役割にも似ている。

 神話化された世界で精霊のような兄と妹が語り合う「沈む家」の、「海もまた見えない舌でいっぱいなのだ」という一節が、生々しい実感を伴って胸に残った。押し寄せる白い紙片の海に充満する「舌」は、過去に記された死者たちの声が、中島の内で再び生を取り戻し、謳い出す様を予感させる。

 私たちはつながっている。その生命の力を可視化しようとする意識が、詩集の芯を貫いている。繰り返しの中で永続するいのち、その様相を、心眼で鮮やかに目視する詩人の登場を祝したい。               『びーぐる』23号(2014年4月)

 

「女、汝たくましきもの」 詩集『ベットと織機』新井高子著 未知谷 定価(本体2000円+税)

 開口一番、小気味よい語りのリズムが、読者をぐいと引きずり込むのは、一昔前の織物工場(コーバ)のど真ん中。そこには「赤ンぼオブって」汗と乳をほとばしらせて、働きづめに働いている女工たちが生きている。むせ返るような機械油と髪油の臭い、耳を圧して鳴り響く力織機の凄まじい音。生きることそのものが剥き出しにされているようなコーバでは、性の喜びも悲しみもまた、あけっぴろげで誰はばかることもない。女たちを捉えて離さぬ「業」や「宿世」、からまりあう「縁(えにし)の糸」を突き抜けて、内側から噴出するエネルギーに圧倒される。

 女工、というと、過酷な労働と貧困にあえぐ悲惨な弱者、といったイメージが付きまとうが、新井の描く女工たちは、なにしろたくましい。たまたま待遇のいい工場であったのかもしれないが、仕事がきつくても陽気に闊達に、時に猥雑に生を謳歌する女たちの姿が、「ジャンガンジャンガン、力織機が騒(ぞめ)くなか」陰影も色彩も色濃く立ち昇ってくる。(「ベットと織機」)

 もちろん、工場での不慮の事故や、恋人の裏切りといった不幸な事件、破産や貧窮といったやるせない悲しみもある。だが、そうした「できごと」を語る伝奇めいた物語は、物の怪や怪かしの生きものたちが住んでいる異界と「コーバ」が隣接していることを、ぞくぞくするような生々しさで知らしめる。幽霊や地霊のような見えざる者たちと共に生きている場所が、間違いなくここにあるのだ。

 この詩集の魅力は、なによりもまず、文体の生み出すエネルギーにある。織物工場の一人娘として実際に見聞きした体験を、身に馴染んだ土地の言葉で語ることによって生まれる臨場感。浄瑠璃や歌舞伎、近現代の詩歌や演劇などへの深い造詣が、生きて蠢くような言葉の群れを立ち上げていく、その道程の鮮やかさ。

 織物とそれを生む女たち、という主題もまた、多重の魅力を備えている。アマテラスは機屋、織物に深く関わる女神であるし、岩戸に隠れた女神を呼び出した、アメノウズメのおおらかな歌謡と舞踏のイメージは、生が性であり、同時に聖でもあった時代の、多産と豊饒の祭礼を喚起する。前作の『タマシイ・ダンス』において、陽気に天宇受売命を召還した詩人が、寝台と織機を通じて呼び出そうとしているのは、生む者であり、また産む者でもある、女の力そのものではなかろうか。

 過酷な現実を笑いのめし、洒落のめすことによって乗り越えていくたくましさ、推進力としてのイロニーもまた、この詩集の大きな魅力だろう。詩集後半にまとめられた震災、特に原発事故をめぐる一群の詩は、人間の愚かさや物欲、経済欲の果ての狂態とそれが生みだした悲惨を痛烈に抉り、文字通り怒涛のように押し寄せて来る。生半可な憤りや悲痛の叫びよりも、よほど強烈である。しかしこれが、読んでいて不思議と辛くないのだ。もう、笑うっきゃないよ、という強靭な笑いの力が全篇を貫いている。

 女たちのたくましさと、痛快な反骨精神。痺れるような「読みの楽しみ」に、どっぷりと浸ってみてはいかがだろうか。        『びーぐる』25号(2014年10月)

 

「硝子絵の向こうに」 詩集『パリンプセスト』草野理恵子著 土曜美術社出版販売 定価(本体2000円+税)

 ぬかるんだ校庭に、白い便器が並んでいる。裸で陽に照らされている少女。他には誰もいない。冒頭に置かれた「土」の、あまりにも異様な静けさに息を呑む。少女は、あえて便器を使わず、大地に自らの排泄物を流す。金色に輝きながら土に吸われ、大地の滋養となっていくそれは、やがて、「たましいの菌糸」を育み、「豊饒の地になったはずだ」と過去形で語られる。神話的な転回点。ここには、草野が詩を生み出すまさに根底が、鮮やかな価値観の反転と共に示されている。

 「土は腐っている」と断じ、少女を病だと思い込ませているのは、人物としては出てこないが、社会的な倫理や常識の代弁者たる“教師”であろう。あるいは、草野自身の“良識”であるのかもしれない。たとえば羨望や憎悪のような負の感情、真面目な“優等生”たちなら水に流して、そしらぬ顔をしているはずのもの。それこそが、実は豊かな詩の土壌を作り出しているのだ、という発見と高揚が、「土は腐っていなかったと思う」という静かな抗弁に表れている。

 「半月」や「対岸の床屋」の中で喉元から這い出ようとしていたり、強制的にあふれ出させられる虫や得体の知れない「何か蠢くもの」は、負の感情が言葉となって喉からあふれ出してくる、やり場のない苦しみと諦念を物語に託して描いた作品だと言えるだろう。「深紅山」や「焼かれる街」に出てくる、赤いむくろのイメージは、自分が殺してしまった無数の自分自身でもあるような気がして、切ない。「焼かれる街」や「剥製を被る」に出てくる、人間と獣として永遠に隔てられ、意思疎通を断念させられている「君」や「彼」との関係。届かないことを知りながら、それでもなお、手紙を書き続ける、という「愚行」に駆られる私、の痛切さ。この「手紙」が、草野にとっての“詩”なのだろうか。

 草野には、生まれたときから重度の障碍を負っている息子がいる。「あとがき」を読みながら、運命を受容していく日々の重さを想った。時に抱く憎悪や呪詛に近い感情と、その反転としての自罰の感情。家族に負担を課すことへの自責、それにも増してあふれだす、抑えがたい愛情……「黒い舟」や「独房」は、息子と自分と、その二人を死後の世界へ(あるいは誰もがそこからやってくる、生まれる前の世界へ)と運んでほしい、いっそこの世から二人で抜け出してしまいたい、そんな恋慕に近い感情から生まれた抒情的な奇譚のように感じる。

 「雨期」や「青い壜」、あるいは「パリンプセスト」の奥に広がる、ガラス絵のような異界をひたす静けさ。パリンプセストとは、絵や文字の描かれた羊皮紙を削り、白紙に戻したもののことであるが、新たに重ねられていく物語の向こうに、消しても消しきれない痕跡が水の底のような冷たさで横たわっている、そんな草野の世界をそのまま体現しているかのような表題である。

 草野の描く物語は、いつも映像として立ち現れる。特異なのに、誰にもかすかに覚えがあるような、懐かしいのに初めて見るような世界。そのスクリーンに、黙って身をゆだねて欲しいと思う。              『びーぐる』26号(2015年1月)

 

「羽の生えた緑の馬が雪原を走る」『ルオーのキリストの涙まで』渡辺めぐみ著 思潮社 定価(本体2600円+税)

 テロの報が、空爆の悲惨が、テレビ画面に流れるたびに、心の中のどこかのスイッチをオフにしている自分がいる。そんな日々に、渡辺の言葉は鋭い楔を打ち込んでくる。「遠くの火は関係ないですか 生のラディッシュの硬さほどにしか もしかして関係ないのですか/流産し続けたために疲れ切った母がいた 血溜まりを愛しすぎないように泣いていた」(「遊撃」)この一節を読んだとき、なぜかヨハネ黙示録の「女と竜(12章)」を連想した。直前に、「姦淫する者の額に震えを うそぶく者のまなこに権威を 見てはいけない」という言葉があったからかもしれない。黙示録では、光をまとった女は鷲の翼を与えられ、産んだ子(救済者)を食い殺そうとする竜から無事に逃げおおせるが、「遊撃」の中では、母は子を産むことすらかなわない。「わたしは人間の奴隷ではありません」と、悲痛なつぶやきを漏らしながら、「とにかく行きます」と叫ぶ「わたし」は、使命を帯びて天界から派遣される何者かであろうか。だとすれば、渡辺はその代弁者ということになる。

 「遊撃」「晴天」「遥か」「白いもの」と続く一章の作品を通読していくと、「この世のものとあの世のもののいさかいのしるし」が「油として浮いて」いる川を「流され続け」ることを拒否し、「ハルモニアという名で/この地が眠るのはいつだろう」と慨嘆しつつ、「わたしには故郷(ふるさと)はもうありません」と決然と進んでいく「わたし」の姿が立ち現れる。続く「跛行」の中で、「羽の生えた緑の馬」に乗って飛行する「わたし」が求めているものは何だろう。親しかった死者たちに見守られつつ、「光にのみ/わたしはこの身を捧げてもいいと」願いながら、「夏が来るというのに」「雪が降る」「眠る故郷」の「地上七メートルぐらいのところを」走る緑の馬。赤い馬、の補色としての緑。テロリズムが緊迫の度を強めている現在、「子羊が第二の封印を開いたとき」「火のように赤い馬」が現れ、「その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた」(黙示録6章)という凄絶な幻視の、対極の願望としての緑であるように思われてならない。

 パセティックな使命感をにじませる一章に対して、二章では、望まない戦いを強いられたあげく、「大志のため犬になったものだけが生き残」り、「わたしは脱走した」(「娑婆」)、「明かりの足らないところに/明かりを足しにゆく仕事をしていました/その仕事のせいで/火傷をしますので」(「小笛記」)など、自らの身が負う痛苦や、逃避の願望が吐露されている。「療養型病床群の片隅で/蝋細工のように/手を組み合わせていた」祖母を看取る心象に、父や祖父や、親しい者の死の哀惜を重ね、死者を「忘れない」ことによって「喪のすべてを断ち切って」「ルオーのキリストの涙まで」進んで行こうとする三章は、死を受容してからの再生の章と言えるだろう。詩集冒頭の「夜勤」では、既に大切な人は逝去している。無人の夜の病院で、犬だけが時を超えて詩人を呼び、「犬は逆巻く星の雲海に消えていった」。詩集全篇を通じて、無言の対話者として守護霊のように何度も現れる犬。静かに、詩人の心の痛みを見守り続ける影である。                   『びーぐる』27号(2015年4月)

 

「託されたものを手のひらに受けて」 『心のてのひらに』書評 稲葉真弓著 港の人 定価(本体1800円+税)

 『エンドレス・ワルツ』など、小説家としても著名な稲葉真弓が亡くなって、一年が過ぎようとしている。遺志に添って上梓された詩集は、開くたびに、痛みは悼みでもあったことを思い出させる。

 詩集冒頭、稲葉が文明の毒気に痛めつけられたかのような「春の皮膚」を脱ぎ捨てて、「祖母あるいは父母の腕に手渡される赤ん坊へと縮み……銀色のモロコかフナか小さな川魚になって」故郷の「木曾三川の汽水域」から遡っていったのは、あの日の三陸沖の海の底だった。目の前を流されていく人々、一瞬にして奪われた団欒の悲惨を、のたうつ海のうねりの中で目撃しながら、「しかし無力であるわたしは目を見開き岩陰の洞に身を寄せたままなすすべを知らなかった」と記す時、稲葉の魂そのものであるかのような魚の心は、あの日、テレビの前で言葉を失っていた私達の心でもあった、と思う。

 「三月を過ぎてみれば/ミリシーベルトという耳慣れぬものが降り注ぐ地に/すべてのわたしたちは立っていた」。「おお 恥シラズ/私たちの心のなかに/またもそだちつつある椿の実のような胎児/私こそが文明だ と/腹を蹴りながらささやく黒いもの」を誰もが抱えて呆然としていた。確かに、そうだった。稲葉の刻む一語一語は、言葉にならなかった思いを、読む者に鮮明に思い出させる。

 お盆を迎えた故郷の海で、北の海からやってくる「無明世界のクラゲたち」に出会い、「わたしの肌を刺す鋭いとげ」の痛みを、「刺すものと刺されるものが海の上で/ともに痛みをこらえながら」過ごす夜を感じる詩人は、「海ではカツオの群れが/泡立って黒く光っている/その海底で/顔を尖らせたたくさんのたましいが/立ったまま眠っている」のを観てしまう。詩人の過敏な精神が感じ取ったものを、それを言葉にすることを、稲葉は抜き差しならない切実さで自らに課していたのかもしれない。「わたしの柔らかな肉になったものは/沈黙だけ」と嘆じ、「血肉にならなかったわたしの言葉が/少し傾いて 墓標になっている町」のありかを厳しく求めながら、「わたしの言葉は/その常世のものたちのすきまから/そこ あちら むこう かなたへとこぼれていく」「詩を書くこととは……/このこぼれていくものたちを森へと帰すこと/あの湿った大地の暗がりへと眠りに行くこと/屋根や壁のない場所で裸になること」だとつぶやく時、稲葉は、この世とあの世との間にある穏やかな広がりの中に、独りで立たされていたに違いない。それは、過ぎ去りゆくものが、ことのほか美しく映る場所である。「学校帰りの子供たちの/ビブラートを帯びた高い声」が「波打ち際の水のように……ひいては寄せる……ランドセルが/路上にふっくらとした影を落とし/子供たちは つま先で明日の背中をまさぐる」のが見える所。あの日、その穏やかな日常が突然断ち切られたのだった。「悲哀と放心と嘆きと怒り」の中で、「切り立った崖のような沈黙に金縛りになっている」詩人が、拾い上げ「森」に返そうとしていたものは何か。

 花粉となって「飛散と受粉の旅をつづけましょう」と呼びかける最後の詩篇は、こぼれていく言葉を拾い上げ、実らせ続けなさい、という、稲葉真弓が私たちに託した、深い祈りに思われてならない。           『びーぐる』28号(2015年7月)

 

「日本人と犬よ、何処へ行くのか」――戦後70年目の問い

三好豊一郎詩集 新・日本現代詩文庫122』 三好豊一郎著 土曜美術社出版販売 定価(本体1400円+税)

 詩人三好豊一郎の生涯を通覧する文庫が公刊された。七〇年代の既刊文庫には未収録の名作『夏の淵』(1983)全篇や、三好の詩論としても重要な評論「基督磔刑図」(1953)も含む意義は大きい。初期の代表作「囚人」は、1945年の春には既に鮎川ら数名の眼には触れていたが(『現代詩手帖』8月号等)、活字としての初出は敗戦の翌年。田村隆一が三好への私信風エッセイの冒頭に掲げる形で、詩誌『新詩派』六月号に公開した。本年四月発行の詩誌『午前』七号に、平林敏彦の懇切な解題と共にその時の田村のエッセイ「手紙」が再掲されている。“真実”(〈詩人の眼〉で見た〈事実〉、〈第二の現実〉)を見てしまった者が、その〈実証〉を強いる宿命のような衝動に駆られるということ……詩という〈命とりの生きものを彫琢し、君からvieの犬を生み出さねばならぬ仕事〉その苦役に耐える〈君の身体の具合〉を慮る名文。当時の田村の感動がひしひしと伝わってくる。

 戦局の悪化と病身に追い立てられる中、〈男のもてあました絶望を喰って太ってゆく〉〈一匹の犬〉(「青い酒場」)〈孤独におびえて狂奔する歯〉を剥きだした〈不眠の蒼ざめたvieの犬〉(「囚人」)を見てしまった三好の、鬼気迫る創作を支えていたものは何か。

 先に「基督磔刑図」を挙げたが、ここには戦中戦後の三好の想いが真摯に綴られている。グリューネヴァルトの壮絶な磔刑図を見つめながら、宗教戦争の嵐の中で〈彼は己が魂を描いたのだ〉と観じ、そこに〈人間としての確信と芸術家としての倫理を支えていた〉信仰を見る三好は、〈絶えざる手段の進歩と、意図の増大のみを追い止まるところを知らない〉世界大戦の時代に生きる自己の在り方について、鋭い考察の刃を向ける。〈暗愚の力を駆使する真の源泉が人間の何所にひそむのか、私は理解に苦しんだ。〉問い続けても答えは得られない。それでもなお、この時代に生きる詩人は何を為すべきか、という止むことなき問いが、孤独の中での詩作を三好に強いたのではなかったか。

 『基督磔刑図』は、戦中の心理を想起しつつ、朝鮮戦争の勃発後に書かれた。〈人間の名に於て、平和と文明と自由と平等とを掲げながら〉冷戦が苛烈さを増していく世界への激しい憂慮が、そこには重ねられている。ベトナム戦争が始まってすぐに上梓された『小さな証し』に刻まれた、〈虚栄心〉や〈偽善〉の犠牲となって死んでいく無辜の民へ寄せる、熱い共感と深い祈り。戦局が混迷を深める頃に上梓された、終末論的な世界観を示す『黙示』。『小さな証し』は抄録、『黙示』は全篇、本文庫に収録されている。

 アジアの戦禍がひとまず収まった後、『林中感懐』や『夏の淵』など、心の平安を求める境地へと向かう三好の後期の詩作と思索は、時代を覆う強大な力に打ちのめされた自己の魂を、いかに救済していくのか、という実践の記録でもあるように思う。戦後刊行の『囚人』後書きに、〈日本人と犬よ、何処に行くのか〉と、予言的な言葉を記した三好。自己を激しく切り拓くことで世界と人間に向き合い続けた詩人の言葉は、今もなお、熱く生きている。              『びーぐる』29号(2015年10月)

 

ミスター童心・・・武市八十雄さんの言葉(『みらいらん』5号2020年掲載記事)

 童心、といえば思い出す名前がある。レオ・レオーニの『あおくんときいろちゃん』やいわさきちひろの『あめのひのおるすばん』『ことりのくるひ』、谷内こうたの『のらいぬ』『にちようび』などで知られる至光社創始者武市八十雄さん。福音館の松居直さんと並んで、戦後の子どもたちの心に真の豊かさを届けようと、文字通り邁進した人だ。

 子どもにこそ、「ほんもの」を、いいものを届けたい、五感を優しく、深く慈しむように刺激する、真の芸術を届けたい……その思いを最初に抱いたのは、終戦直後、どう生きて行ったらいいのかと迷う心を抱えて、聖フランチェスコ会のガブリエル神父の勉強会に通い始めた頃だったという。我が家の目の前が、ガブリエル神父ゆかりの修道院、その付属幼稚園での講演でのお話だった。氏の印象をロールパンの葉書絵に託して講演会の感想をお送りしたところ、思いがけず『えほん万華鏡』というエッセイ集を頂き、感想の往来が続いた。いつしか毎週のように手紙を書いては、お電話を頂いて「おしゃべり」する、そんな稀有な交流に恵まれたのだった。

 昭和二年生まれ。出征していく先輩たちを明日は我が身と見送った青年が、戦後の物心共に荒廃した世相を見聞きし、信じていたものがすべて崩壊する転換に見舞われた時、何を思ったか。学生時代、十字架の聖ヨハネを読み耽った、という武市さんと、やはり学生の頃、従妹の自死に戸惑い神秘主義神学をすがるように読んでいた私との間に、通じるものがあったのかもしれない。子どもは知らずに境界を超える、今、見ているものの向こうに、光り輝く「ほんもの」を見て、そこに生きることができる。地面に置いた輪っかを踏み越えるように、容易にあちらとこちらを行き来することができる……。

 とてつもない知性と、他者の気持ちを恐ろしいほど敏感に感じ取る鋭利さを持っていた。それでいて、「こども」のような無邪気さ、茶目っ気とユーモアを備えている人だった。まさに、ミスター童心、常識にとらわれない自由さと、直観で動くヤンチャ坊主。付き合っていた画家に、ことな、と呼ばれたと言う。子供のような大人。子供っぽさ(チャイルディッシュ)は駄目だが、子供らしさ(チャイルドライク)は大歓迎、あなたも僕もおんなじコトナだよ。

 私自身が生き方に悩んでいた時期だったから、ずいぶんと内面的なこと、切迫した心境を手紙に綴っていたような気もする。子育てに「充実した」日々を過ごしながら、内心では何をやっても駄目、自分の人生は全て終わった、そんな喪失感と空白を抱えていた時期に、母でもなく、妻でもない、「私自身であること」を思い出させてくれた人。雑談を少し交わすだけで、自然に心がほぐれ、すうっと楽になる心地がするのが魔法のようだった。そうした柔らかな四方山話の後は、決まって「こどものせかい」って何だろう、という話になるのだった。

 生まれて初めて見る世界は、新鮮さに満ち満ちている。何事も、まずは自分の手で取って、触れて嗅いで確かめて、じっくり心に収めるゆとりがあれば、子どもは自ずからのびのびと生き始める。童心とは、まずは驚くこと、未知に喜んで、小躍りしたくなる気持ちに自然に身を任せること。既成の美ではなく、自分で面白さを探し出す遊びの領域にこそ、子どもの世界は広がっている。大人は手取り足取り教えたりしてはいけない、大人が子どもの目と耳、心で子どもと並び、一緒に手を取り合ってその空間に入っていく身軽さを持っていなくては……。子どもが自在に「こどもの世界」で遊ぶためには、安心、というホームを持つことが大事なんだ、どんなことがあっても受け止めてくれる、両腕を広げていつでも待ち受けてくれている人がいる、そんな確信を抱くことができるような、そんな環境が子どもには絶対に必要なんだ。

 あなたから、面白い絵が出ないかな、と思っちゃったんだよね、と、ぽつりとつぶやいたことがあった。触発されるように次々と絵を描き、ちがう、ごめんね、と戻されて見直すと、既成の何かに似ている、囚われている、その不自由に愕然としながら、がんじがらめになっている自分に気付く、そんな日々でもあった。絵にしちゃだめだ、絵になるのを待って、と言われつつ、絵で詩を描いてくれないかな、という一言がきっかけとなって、言葉で詩を書き始めた。言葉の世界に行く、と言った時の、ちょっと悲しそうな、でも嬉しそうな声が今でも忘れられない。あなたは持ってるよ、そんな力に満ちた一言を、タイミングよくポン、とかけてくれる人でもあった。

 子ども心が自然に動き出したら、大人は黙ってついて行くだけでいい。何かに目を止め、ほら、と見せてくれる時、後ろで微笑んでいる眼差しさえあれば、子どもは宝物をあっという間に探し出す。子どもを見張っていなさい、ということではないよ。安心した子どもは、親から離れて遠くへ、行ったことのない場所へ歩き出す、親の知らない秘密を持つ、その秘密が大事なんだ。自分だけが知っている、という何かが、子どもの心を明るく照らしてくれる。何しろ、子どもは遊びの天才だからね。

 ミスター童心の言葉は尽きることが無かった。コトナ心は、今も声音と言葉と共に、私の心に息づいている。

 

 

 

 

はちみつ色の記憶(『博物誌』50号2022年1月掲載記事)

 いつも、“お守り”のように大切に引き出しにしまっている一篇の詩がある。吉野弘さんの「一枚の絵」。恐らくエッセー集からコピーしたものだろう、1978年12月と吉野さんの自注があるが、吉野さんのどの本で読んだものかどうしても思い出せない。

 

 一枚の絵がある

 

 縦長の画面の下の部分で

 仰向けに寝ころんだ二、三歳の童児

 手足をばたつかせ、泣きわめいている

 上から

 若い母親のほほえみが

 泣く子を見下ろしている

 泣いてはいるが、子供は

 母親の微笑を

 陽射しのように

 小さな全身で感じている

 

 「母子像」

 誰の手に成るものか不明

 人間を見守っている運命のごときものが

 最も心和んだときの手すさびに

 ふと、描いたものであろうか

 

 人は多分救いようのない生きもので

 その生涯は

 赦すことも赦されることも

 ともにふさわしくないのに

 この絵の中の子供は

 母なる人に

 ありのまま受け入れられている

 そして、母親は

 ほとんど気付かずに

 神の代りをつとめている

 このような稀有な一時期が

 身二つになった母子の間には

 甘やかな秘密のように

 ある

 

 そんなことを思わせる

 一枚の絵

 

電車の中ですれちがった母子の景に心を動かされた吉野さんが、何度か改稿しながら得たという作品。読む・・・というよりも眺めていると、ラファエロの聖母子像が重なっていく。

 読み直すたびに、「上から」という言葉で切る吉野さんの繊細さにはっとさせられる。電車の中で他者の眼を気にしながら、早く泣き止んでちょうだいと幼子の意志を押しとどめようとする、社会人としての親の困惑と苛立ちが一瞬現れ、重なり・・・さらに、そんな自分に対する自制や自責の念がにじんでくる。その沈黙の時間と緊張感を生み出す切断、そのあとに続く空白。息を飲んで次の行に移ると、そこには上から“押さえつける”のではなく、あらゆるものを柔らかく包み込みありのままを赦してくれるような、春の陽射しのような「若い母親」の視線が、静かにあたりを満たしているのである。

 泣きわめくことを“赦す”まなざし。そんな一瞬が、間違いなく確かに存在する、と高らかに宣言するような、「ある」という断固とした一節、その切り方、置き方、潔さにも強く惹かれる。ごく平凡な母子の情景が、いつのまにか人間そのものについて、さらに人を見守るなにか大きな存在との関係へと展開していく見事さ。そして、初めてこの詩を読んだときのことを、かすかな痛みとほのかな色合いと共に思い出す。

 

 初めての子は月足らずで生まれた。他の子よりずいぶん遅れてよちよち歩きを始めたものの、数歩歩いては転ぶ危うさになかなか外に出ていくことができない。私自身の“新しい親子世界”への戸惑いやためらいもあったかもしれない。子供同士の“社会参加”は必須だから、との周囲の声に促され、かろうじて「児童館デビュー」と「公園デビュー」は果たしたものの、まだ「ママ友」との上手な付き合い方を推し量れぬまま、図書館に通っていた頃があった。帰りがけに児童コーナーに立ち寄ると、息子は決まって「のりもの」の棚から『しょうぼうじどうしゃ じぷた』を抜き出し、黙って私の前に差し出す。「そんなに好きなら、この本、買ってあげようか?」と聞くと、息子は黙って首を横に振る。それはまるで、毎日繰り返される儀式のような行為だった。

 児童コーナーの絨毯の上で、息子にだけ聞こえる声で、「じぷた」の物語を読む。僕なんか、なんの役に立つのだろう、と落ち込んでいる、小さな小さな消防自動車のお話。ジープを改良した「じぷた」は、町の建物が火事の際にもまるで役に立たない。出動の際にはいつもポツンと消防署に残されてしまう。大きな消防自動車が胸を張って帰ってくるたびに肩身の狭い思いをしていた「じぷた」だが、ある日、山小屋が火事にみまわれ緊急出動、他の消防車が入れない山道を駆け上り、大活躍するのだ。絵本を閉じると息子はすっきりした顔をして、自分で次の本を探しに行き、黙って広げて読み始める。その様子を視野の隅におさめながら、私も自分の本を探す。そんなとき、おのずと手に取るのは詩集や詩人たちの書いたエッセー集だった。

 もうすぐ四歳になるというのに、息子は二語文を話せなかった。砂場や児童館でスコップやブロックなどのおもちゃを取られても、まったく怒ろうとしない。集団お遊戯の時間になると、ふっとその場を離れて一人で何事かを始めてしまう。若い保健婦に「言語療法士」を紹介されたり、児童館の職員に発達障害に関する書籍を読むように勧められたりするたびに、笑顔で断りながらも内心では焦りや苛立ちを覚えていた。子供には、蘭のように育てるのが難しい子供とタンポポのように容易い子がいる、そんな話を拾い読みしたり、言葉遊びの本を必死に暗唱させようとしたり・・・今となっては笑い種だが、当時の私は軽いノイローゼに陥りかけていたのかもしれない。そして周囲に敏感な息子は、幼いなりに母の恐れや不安を我がことのように感じていたのかもしれなかった。

 そんなとき、吉野さんの詩がまるで陽射しのように私を暖めてくれたのだった。初めてこの詩を読んだとき、詩を読んでいる空間がはちみつ色の光に満たされているような気がしたことをはっきりと覚えている。色を持った詩というものが、確かにあるのだ。

 私と息子との間にも、そのような瞬間が“ある”のかもしれない。いや、今までにもあった、ただ、単に忘れているだけ、気づかなかっただけだ。そう思わせられるだけでなく・・・この幼子のように泣きわめいている内面の私自身を、新米の「若い母親」であるもう一人の私が、それでいいのよ、とほほえみながら見下ろしているような、そんな不思議な自己分離の感覚にうたれた。そのページをコピーし、大事に折りたたんで息子の着替えやオムツ、弁当の入った大きなトートバッグにしまい・・・鼻歌を歌いながらベビーカーを押して帰路についた。道端のイチョウ並木の黄葉が、数日前までは寒色系の緑色をおびた寂しい色だったのに、その日はオレンジ色をおびた金色となって、ひらひら、小鳥のように舞っていた。晶子がかつてうたった通りに。

 

 縁に恵まれてごく普通に結婚し、一人目の子を出産し、二人目を身籠り・・・当時の私は、大学で美術史を学んだものの取り立てて将来の展望というものも持ちえないまま、それなりに楽しく忙しく日々を過ごす専業主婦となっていた。自分の将来のことは子育てが落ち着いてから改めて考えよう、そう心の底で自分自身に言い聞かせながら、実際には、研究者の道を選んだ同期の学友たちが次々と論文を発表していくのを、焦燥感と孤立感とがないまぜになった感情で眺めていたように思う。息子が「じぷた」の物語を持ってくるたび、それを私自身の物語としても読んでいたのかもしれない。

 息子も既に大学生となった。今では当時のことはすっかり笑い話となった。パワーポイントを駆使して授業用のプレゼンテーション資料などを作成する、快活でお人よしの、ごく平凡な人懐っこい青年。小学六年生までおねしょと縁が切れなかったから(ホルモン異常や内臓疾患を疑い、入院させてまで検査したことがある)、単に他の子よりも発達のスピードが遅かったに過ぎないのだろう。

 義父母と同居だったので、あ~とか、う~と言えば「あっちに行きたいのか?」「あら、お茶がほしいのね」と、意志疎通にまったく不自由しなかった。そのことも言葉を発する遅さにつながっていたのだと思う。息子はいわゆる喃語を話すことは一切なく、いきなり文章を話し出して周囲を驚かせた。

 言葉によるコミュニケーションは、意志を伝えたい、という強い欲求が無ければ生まれないものなのだろう。大人四人に囲まれる生活と、大きなポンプ車やハシゴ車、大型救急車に囲まれた小さな小さな消防自動車の話とのアナロジー。息子は子供ながらに母親の焦りや苛立ちを敏感に感じ取り、自分を重ねていたのかもしれない。

 そんなタイミングで出会ったからこそ、この一篇の詩が、はちみつ色の光と共に私の記憶に刻まれることになったのだと思う。詩は、出会うべき時というものがあり、その「時」になると自然に目の前に現れてくるものなのだ。新川和江さんの「私を束ねないで」も、学校の授業などでも何度も読んでいるはずだが、私の心に楔を打つように飛び込んできたのは私が35歳を過ぎ、それでもなお、一生を賭して悔いないものがまだ見つからない、という焦りに追われている時だった。二人の子供の幼稚園の同級生ママと、「三原色によるお絵描きの会」を立ち上げ、画用紙は心の運動場です、と威勢のよいキャッチコピーを掲げて子供たちの生み出す多種多様な造形や色彩に瞠目し、展覧会や写生会を楽しんでいた時もある。しかしいつか子供たちは、私のもとから離れていく。その時、お前はどうするのかという問いが、空が菫色に暮れてくるたびに夕方の鐘のように鳴り響いていた。

「私を束ねないで」に再会したのは、図書館に子供たちの展覧会のチラシを配りに行った帰り道、いつものように詩集の棚に立ち寄った時だった。涙があふれて止まらなかった。調べてみたら、新川さんがこの詩を書かれたのは当時の私と同じ、37歳の時だった。心が震えた。平易な詩であればあるほど、その奥行きにたどり着くにはそれなりの心構えも体験も必要なのかもしれない。新川さんの言葉にエネルギーをもらいながら、学生時代にリルケを教えて下さった先生が思索のための詩作、と称してソネットを連作しておられたことを思い出し、見よう見まねで「詩」らしきものを書き始めた。その時は、いずれ子供たちには見せるかもしれない、とは思っていたものの、他の誰かに見せようなどとはまったく思いもしなかった。大震災が起きた2011年までは・・・。

 困惑している、ある日、ある時の、誰かの心に響くことば。それが、詩の役割なのかもしれない。私が、ふわっと心を暖めてもらったように、私の書くものが、いつか誰かの心に届くことがあればいい。そんなことを思うようになった頃に出会った一篇の詩がある。伊東静雄の「夕映」。この詩も、はちみつ色の光に満たされている。私の、もう一つのはちみつ色の記憶である。

 

わが窓にとどく夕映(ゆうばえ)は

村の十字路とそのほとりの

小さい石の祠(ほこら)の上に一際かがやく

そしてこのひとときを其処にむれる

幼い者らと

白いどくだみの花が

明るいひかりの中にある

首のとれたあの石像と殆ど同じ背丈の子らの群

けふもかれらの或る者は

地蔵の足許に野の花をならべ

或る者は形ばかりに刻まれたその肩や手を

つついたり擦つたりして遊んでゐるのだ

めいめいの家族の目から放たれて

あそこに行はれる日々のかはいい祝祭

そしてわたしもまた

夕毎(ゆふごと)にやつと活計(かっけい)からのがれて

この窓べに文字をつづる

ねがはくはこのわが行ひも

あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ

仮令(たとい)それが痛みからのものであつても

また悔いと実りのない憧れからの

たつたひとりのものであつたにしても

加藤泰義の「小さな詩論」―詩で生を思うということ

いつしか

訪れていたもの

夕べの庭に

ひびきはじめるもの

 

初めには

山萩のしげみから

小さなふくらみの

一つ二つ

 

さらに濃く

宮城野萩の

乱れ咲くなか

 

白露のとき

こぼれるような

こおろぎたちの声

 

まだ暑く蒸す

一日を終えて

帰ってゆくひとびとを

こおろぎたちが迎える

 

生け垣も

車道のわきの

小石の多い径も

ずっとつづくのに

 

ときには家のなかに

まぎれこんでくる

おそらくこの秋もまた

 

夕暮には思いを沈め

ひとびとの歩みは

ゆるやかになる

 

かつて詩人が

いのちへの愛から

節度を測りつつ

歩みを運んだ

 

往く道々は 美しく

花がひらいた

いまも

花々は咲きひらき

 

道に陽は照り

樹陰に

風が吹きわたる

 

高いビルの下

吹きつづける風に

桂の樹がひるがえる

 

かつて静かな舗道を

白い乳母車が往き

仰ぎみる楡の樹が

濃い影を落としていた

 

白い建物の

向こうから

海の音だけが

聞こえてきた

 

いま地下道を

行くひとびとが

疲れた流れになっても

 

歩いてきたそれぞれの

時を 深まる秋が

包んでゆく

 

加藤泰義『秋の歌 55のソネット』より、冒頭四歌を引いた。静かな秋の叙景から始まる連作は、やがて樹々に思いを重ねながら、はるかな時をさかのぼってゆく。

 

北の町の小川のほとりに茂るくるみの樹を思いながら〈昔から/このくにのひとびとは/樹のかたわらに住み/樹とともに老いた〉〈いつからかひとは/樹の名を/呼ぶようになり//木で家をつくり/食事のうつわと/お箸もつくった〉〈高く育った桐を/ひとはくりぬき/好みの重さに/箏をつくった〉〈ひとは箏を弾き/神に歩みをはこび/風の音を聴いた〉そのように樹々のかたわらに暮らしながら、ひとびとは〈孤独は/離れて立つ/樹のようであること〉〈言葉は/樹のように/寡黙であること〉を学んだとうたう。(11歌~13歌)

 

あるいは北の地の校庭を囲むポプラの樹と、その葉で遊ぶ子供たちを眺めながら〈昔ギリシアのひとびとが/アケロイスと呼んだポプラは/いまも/銀色に輝いている〉のを思い出す。ヘラクレスが冥府との境の川アケロンから戻ってきたとき、その頭にかざした葉が汗で白銀に輝いたことからその名が付いたというアケロイス。〈昔トロイアの地で/勇者たちは雄々しく戦い/白銀のポプラが倒れるように〉死んでいった。〈北風と西風は/夜どおし/吹きすさび〉〈ヘクトールに倒された/パトロクロスを 勇者たちは/槲(かしわ)の巨木を倒して積み重ね/燃えさかる焔のうちに葬った〉。〈しかし西風が/優しく吹きわたるとき/梨も 林檎も 葡萄も/無花果の樹もさかえ//ゆたかに実を結び/さかえた町のひとびとは/葡萄酒の甕の/蓋の開く日を待っていた/ディオニュソスは/そのようにして冥府から/また生まれてくる〉。(14歌~17歌)

 

ディオニュソスの再生をうたった後、詩人はプラタナスの植えられた都心の街路を歩みながらオデュッセウスたちに〈きらめく流れのほとりの/プラタナスが美しく映えた〉ことを、そしてギリシアの哲学者が川べりのプラタナスの樹陰で〈美について語らった〉ことを思う。また、太古の時代から生死を繰り返してきた百合の樹を思い、二階の窓から銀杏の黄葉が海のように風に波立つのを眺めながら〈風が鳴り/梢が鳴り/全部が動いている〉のを見る。(20歌~22歌)

 

すべてが動いている/場所がかわり/色が変わり/小さなものが大きくなる//なにかが生まれて/形となり/形をとったものが/消えてゆく//かすかな/風とともに/秋が立ち//いま大きく/もえ立つなかを/なにかが逝く(23)

 

地上に/ひとのいのちが/形をとるよりもまえに/はるかに永い昔があった(24)

 

ひとのいのちが/形をとり/さまざまに 形を/あとに残してゆく//形のうしろに/形がつづき/やがてひとの形が/見えなくなる//その向こうに/樹々の形が/つづき//やがて/形は/見えなくなる(25)

 

 作者は哲学者、ドイツ文学者の加藤泰義(ひろよし)――ここでは加藤先生、と呼ばせてほしい。私が二十歳の頃、従妹の自死にショックを受け身動きが取れなくなったとき、リルケとの出会いに導いてくださったのが加藤先生だった。美術史なんて”虚学”を学んでいていいのか、教育学やカウンセリングなど”実学”を学ぶべきではないのか…研究室に駆け込んだ私の話を、二時間も黙って聞いてくださった。肩に手を置いて、何も言わずに「それでいいんだよ」と一言おっしゃったときに、なぜか涙があふれたことを覚えている。その後、リルケの講読に誘っていただき…学んでいく中で美しいものや素晴らしいものがこの世にはあるのだ、そのことを告げ知らせる人もこの世には必要なのだと気づいたとき、精神的な暗がりから抜け出すことができたように思う。

 私が卒業するときご挨拶に伺うと、思いがけず『春の歌』『秋の歌』二冊の詩集を下さった。私が生まれて初めて”詩人”から頂いた詩集ということになる。それまで、加藤先生が詩を書いていることを全く知らなかった。

 折に触れて読み返してきたが、今頃ようやく気づくこともある。たとえば、秋の深まりを思い返す流れの中に置かれた第6歌。

 

木犀の香りが

帰り路に

ただよいはじめる

思い出されることも多く

 

征くものを

はしけに送るひとを

ふりしきる雨が

消した

 

十月の雨は

煙り また

ふりしきる

 

その高い樹は

木立の奥に

かすむ

 

十月の雨。1943(昭和18)年の10月21日は雨だった。明治神宮外苑で行われた学徒出陣壮行会当時、1927(昭和2)年生まれの加藤先生は中等科に入学した頃ではなかったか。雨の中、先輩たちを見送っていたかもしれない。征く、という文字に、今頃気づくとは。第8歌に〈金木犀のほかに/銀木犀があった/焼けるまえの/岡山の町に〉というフレーズもある。岡山と加藤先生との間に、どのような関わりがあったのかはわからない。岡山空襲は1945(昭和20)年6月29日のこと。第8歌の終連は〈美しく映えた/未来が/そこにあった〉と閉じられている。

 他にも、今になって気づくことがある。たとえば第50歌。〈闘いにおもむく/ヘクトールに/母親は胸を露わにして/留まることを願った//乳房から/恥じらいを受けて/やすらぎのなかに/留まることを願った//しかし恥じらいという/同じ言葉が/ヘクトールの胸には//別に響いた/勇者の恥/男の面目として〉引き続く51歌。〈アイドースといわれる/恥じらう思いから/ギリシアのひとびとは/慎ましさを育てた//しかし慎ましさを/斎きまもることへ/思いを向けてきた/そのくにも滅びた//ひとびとは/倨傲のひとを/嫌った//しかし自分自身の/傲りに気づくことは難しかった〉

 ヘクトールの逸話は授業でも何度か耳にしていて、その都度、加藤先生の思いの深さに不思議な印象を伴って聞き取ったけれども…今、この歌と共に思い出すとき、〈そのくに〉とはまた敗戦の日本のことでもあったのだとわかる。明日は自分も死地へと向かい、勇者として戦って果てる、それこそが正義と教えられた少年期の記憶と、その少年を見守る母の眼差しをそこに重ねていたのではなかったか。

 

 

 いわゆる技巧的な”現代詩”とはだいぶ感触が違う。静かな言葉は決して難しくはない。具体的に「わからない」ことも多い一方で、古代ギリシアや古代日本の世界観、旧約聖書に描かれた世界創造や新約のイエスの誕生の意味をソネットの形式で説く歌もある。(我知らず)思い出されたこと、感じとられたことをうたう歌と、(意識的に)学んだこと、説き明かすことをうたう歌が連なり、誰にともなく気づいたことを告げ知らせる緩やかな流れを持つひとつの歌となっている。

 加藤先生のことを知らない読者は、こうした歌の間から自ずから気づくものに出会っていく…そんな読書体験を持つことになるだろう。しかし私にとって、それは詩行の向こうから聞こえてくる先生の声を思い出す体験となる。

 

 ドイツ語の経験にはerfahren とerlebenがある、表面を見て触れて確かめるのと、内部を探り感じ取るのと…と身振り手振りで教えて下さった。一行の詩行を読みながら、ケレーニー、ヤスパースレヴィ=ストロースへ、柳田国男折口信夫へと話が及び、あるいは古代ギリシア神話やギリシア悲劇、日本の古代神話へと移っていく。半ば目を閉じ、左ひじをついて象牙色がかった白髪をかきあげながら、こみあげてくるものを抑えて少しずつ取り出していくように、あるいはまなうらに浮ぶ文字やイメージを写し取ろうとするかのように語る。少しかすれたバリトンのふくよかな声。三国連太郎の声に似ている、と言う人がいた。

 真珠のネックレスの一粒が地上に降りて私たちひとりひとりのいのちとなる…”大きないのち”と”小さないのち”との関係を説く天空のネックレスのイメージはケレーニーであったか。宇宙、あるいは虚空にかけわたされたやわらかな織物を風がふくらませて吹き過ぎる、その織物に折り込まれた一本の糸が私たちひとりひとり、というのはリルケであったように思う。織り糸の一本を引き出せばしわが波及し、静かな水面に石を打てばどんなに小さな粒であっても波紋を生まずにはいないように、どんなに目立たない、小さないのちであっても、全体のひろがりに影響を及ぼさずにはいない。

  

 詩集の後半を見ていこう。26歌はギリシア人の名付けたカオスについて。続く27歌には固有の国名が記されていないのでそのままギリシアの話と読んでいたけれども…〈天と地が/分かれたあとも/やがて国土となるものは/漂っていた//そこに/葦の芽が/萌えあがる〉日本の創世神話がそこに重ねられているかもしれない。28歌はイスラエル創世神話。29歌には〈旧約は始まりを示し/新約は 悪鬼の支配する/この世の/終わりを告げた〉〈十字架のイエスは/ひとびとに/高さを教えた〉とうたわれる。ディオニュソスの秘儀について、引き裂かれたオルフェウスについて、イエスの死と復活について。古代思想と教父哲学、マルティン・ブーバー、ブルトマンやカール・バルトの現代神学を行き来しながらいのちを呼び覚ますうたについて語っていた先生の声を思い出す。

 

〈太古のギリシアのひとびとに/なにかが輝き/その働きが/神を感じとらせた//このくにのひとびとに/吹く風の/ちはやぶる働きは/神を感じとらせた//ひとびとは/山と川と 花と樹に/親しんで育ち//山奥は深かった/奥をどこまでも深くして/水が流れてきた〉前連を受ければ〈このくに〉は古代ギリシアと読めるが、ちはやぶるという響きが私たちのくにへとうたを引き寄せる。いのちの水はとりわけ聖書を強く思い出させる…もちろん、あらゆる〝宗教〟にとって、水はいのちの象徴であるけれども。

 形ないものから始まった私たちひとりひとり。〈やがてひとびとは/形あるいのちの支配に/思いを向け〉〈あるいは 慣れて〉私たちのいのちを形へと生み成したものの”いる”〈ひろがりへの思い〉を見失っていく。〈しかし大地を/包むひろがりは/地上のわずかな/動きにつながり//そのしるしをみせて/大きく動いてゆく/その大きさと深さとは/ひとにいつも触れてくる〉(30~32)

 

 秋、という季節が、自ずから形をとり、この世に現れたものを通して〈ひとにいつも触れてくる〉のだ、たとえ私たちがそのことに気づかなくても。そして、実りと衰亡、再生の予感を感じる秋に、〈ひとびとは ひと年ごとの/さきわいを願い/未来は ひと年ごとの/姿をとった〉(34)さきわい、という言葉も繰り返し耳にした言葉である。無事、ということの大切さも…黒板に書かれた事という字の独特の崩し字と共に思い出す。

 

 37歌以降は神々をうたう。〈女神の大地が/男たちを産んだ/女神は すでに男の神/天空を産んでいた//男の神々は/暴虐をきわめ/大地女神は 堪えて/それを支えた〉〈形をとった/いのちは/何処から/来たのか〉〈永続のいのちの/大きな息吹は/限られた形をとって/現れてくる〉その息吹…プネウマを聖霊として感じたひとびと。イエスが生まれ、〈さきみたまくしみたま〉〈まれびと〉としておとずれるものがあり、月影としておとずれるもの、〈葦の葉の笛の音/波の鼓の打つ音〉と共におとずれるものがある。〈大きないのちは 彼方から/また異形のものとして/やってきた〉〈始原のいのちは/童子の姿をして/水の上を/漂ってくる〉。(37~43)

 

 44歌からは、再び身近な秋の叙景。しかし古の時空を旅してきた詩人は身近なささやかなものを見つめながら〈無辺際のなかに/それぞれ生み落とされた/寄る辺のないいのちを思って〉いる。〈誰もが/贈られてきたいのちを/まぎれもない自分として/けなげに負っている〉ことを、ひとは〈目立たずに立つ/藤袴〉や床の間に活けられた〈野の花のかたわらで〉学んできた。〈小さな草の花が/ひとをさらに慎ましく〉する。〈壮大な夕日の没落/それと肩を並べるようにして/時代の没落と言いたくはない〉なぜなら、〈ひとにとって/日の沈むことは/届くことのない/尺度だから〉…第3歌の〈いのちへの愛から/節度を測りつつ/歩みを運んだ〉という一節を思い出す。今の私に引き付ければ、〈手にふるる野花はそれを摘み/花とみづからをささへつつ歩みを運べ/問ひはそのままに答へであり/堪へる痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ〉という伊東静雄の一節も思い浮かべる。(44~47)

 

 野花が教えてくれた慎みが、古代ギリシアのアイドースを思い出させたのだろう…そのことが先に紹介したヘクトールの故事を思い出させ、加藤先生の若いころの思いにもつながり…52歌で〈くに破れて/ひとびとを/つつんだ山河〉へと回帰する。私たちが忘れたものはなにか。〈神々に いつも/入念な思いを/向けていること〉ではないのか。既成宗教の神ではない。古代ギリシアの人々が、流浪の哲学者が、まれびとを迎えた古代日本の人々が、ナザレのイエスに出会った人々が感じ取った、はるかな場所から吹き寄せてくる息吹、その吹き渡る場所に思いを向けているということが大切なのだ。秋の野に〈ひろがる/コスモスが/神と映った〉と詩人はうたう。コスモスは秋桜であり宇宙でもある。

 54歌、〈生み落とされたいのちは/次のいのちを生み/傲りと愚かさもまた/受けつがれてゆく〉からこそ、古人の声に、大いなるものがささやかな形、小さなしるしとしてあらわしたものに、心を向けていなくてはいけないのではないか…

 

55

 

いま萩の

小さな葉むらが

荘厳なまでに

黄金に輝き

 

ここかしこの

欅の巨木から

葉がしきりに落ちて

家のまわりを埋めはじめる

 

柚がわずかに黄ばみ

山茶花の白い蕾が

開きはじめ

 

秋は

さらに

深まってゆく

 ささやかだけれども荘厳に深まっていく秋。加藤先生が退官されたのち、千葉県の上総一宮に新築されたご自宅をお訪ねしたことがある。庭先には山野草と共に斑入りや細葉など幾種類もの芒も植えられていた。小径の奥のご自宅まで、地元の若者たちが神輿を担いで入ってきてくれるのだと喜んでおられた。

 突然の訃報に驚いたのはそれからほどない頃だったと思う。それからさらに数年、東日本大震災後に…再び詩を学び始めた私が出会ったのが、詩人でドイツ文学者の神品芳夫氏による次の文章だった。長い引用で恐縮だが、これ以上の評はないと思われるのでお許し願いたい。

 

 

 哲学者加藤泰義(1927‐2001)はハイデガーのドイツ詩との関わりを一貫して研究し、『ハイデガーヘルダーリン』『ハイデガーとトラークル』などの著作を発表したが、その皮切りは『リルケハイデガー』(1980)であった。ここで加藤はまず、ドイツ観念論からディルタイニーチェ生の哲学、さらにフッサール現象学への展開を受けてハイデガー存在論哲学が出現した経緯を解説し、ハイデガーが人間存在をテーマにしたリルケの後期の詩作に関心をもったことの必然性を指摘する。リルケに対するハイデッガーの批判も紹介しながら、むしろリルケを弁護する立場から、リルケ詩がときに開示する地上の生の「さきわい」の感覚について語る。

 加藤の生前最後の著作は『このように読めるリルケ』(2001)である。リルケは『ドゥイノの悲歌』と『オルフォイスへのソネット』の制作に並行して、1912年から1915年および1922年から1926年の間、数多くの詩を書き残している。それは両詩集への準備のような作品、その余滴のような作品、あるいは両詩集の枠から飛び出してしまったような作品などもあって、多様でまとめにくいのだが、加藤はこれらの詩を渉猟して、そこにいくつかの傾向を見いだした。女性への求愛と詩作の追求が十字路のように交差しているきびしさをうたうもの、死の領域をふくんで生きる女性の偉大さを称賛し、「永続のいのち」をうたうもの、羊飼いのように立ち尽くす姿勢を保って宇宙の全体を内面に感じ取るもの、たびたび出てくる「風と陽光」、「開かれた空間」のイメージを「さきわい」のモティーフとしてうたうものなどが挙げられる。それらがいずれも『悲歌』および『ソネット』にある詩句との関連を確かめながら論じられている。また「銅鑼(ゴング)」や「全権」のようなとびぬけた仕様の詩を扱っていると思えば、初期の連作「愛する」の立原道造訳を名訳と称えたりする。いずれにせよ、『悲歌』と『ソネット』を仕上げた1922年以後、死去するまでの足掛け5年のあいだの詩作は、大仕事を終えたあとの余韻を自ら愉しむ類のものと、これまでは思われていたが、事実は違っていて、女性をうたうにしても、実際に付き合っている人を対象にして、激しい思いを寄せたり、迫りくる死の予感のなかで、生死一如の晴朗のひろがりをひたすら呼び求めたりするように、詩人の心は最後まで安らぐことはなかったことが明らかにされた。

 加藤は自らも三冊のソネット集『春の歌、小さな詩論』(1989)『秋の歌』(1990)『飛花落葉』(1998)を発表している。それは親鳥の歌に習って、光と風の問いかけに応える健気な雛鳥の声のようである。加藤は身をもってリルケの詩世界にこれまで最も近づいた日本人であると思われる。

(「折々のリルケ―日本での受容史と今―(2)」『午前』第四号2013.10)

 

 実は、加藤先生にはもう一冊刊行詩集がある。『誰かが歌う子守歌 22のソネット』(1999)。帯に「ひとをつつむもの いのちを生むもの それを「母」と呼び 「宇宙」と呼ぶ」という、あとがきから抽出された言葉が添えられている。入手したのは近年だが、奥付を見て、私が最初の子を産んだ一月後の刊行であることを知った。

 

 思い出すエピソードがある。美術史専攻の私が、ドイツ文学や哲学専攻の学生ばかりの加藤ゼミで、なぜか発表をしたことがあった。ドイツにおける風景画の歴史について。アルトドルファーから辿り、ドイツロマン派の画家たちが憧憬し、あるいは対峙した「自然」を考えようと思ったのではなかったか…。人と自然の関わりや、聖なるもの(ヌミノーゼ)、崇高の概念などについて思いを巡らせていた時期だったように思う。スライドとレジュメを準備し、セッティングをしていた時、慌ただしく加藤先生が部屋に入ってこられた。母が危篤だという報を受けた、今から病院に行くので、あなたの発表を見てあげられない、ごめんなさい…予定通り発表してください、息を弾ませながらそれだけ言うと、また走るように去って行かれた。そんな非常時に、伝言ではなく直接、伝えに来られたことに芯から震えた。

 当時、ご母堂は90代ではなかったか。深く想っておられたのだろう、もし加藤先生が戦地に向かうことになったら、ヘクトールの母のように心の底からそれを阻止しようと強く願う、そんなお母さまであったのかもしれない。それから7、8年を経て刊行された「子守歌」には、〈お母さまは/お空のひろいところへ/宇宙のひろいところへ/ゆかれました〉〈やわらかい/お空になりました〉〈あたたかい/お空になりました〉というリフレインが記されている。同時に、〈きみの/呼ぶ声を/お母さまは/聞いておられます//宇宙の/遠いところにいらしても/お母さまに/きみの声が聞こえます〉〈きみと/お母さまを/つないでいる電話が/あるのです//思うだけで/きみの気持ちが/向こうに/届きます〉と静かな確信に満ちたうたも記されている。どんなことをしていても〈お母さまから/いつも返事が/届きます〉〈春の/街路樹の/芽吹く/あたりから〉…それが詩人の実感なのだ。開くたびに確かに声の聞こえてくる詩集もまた、詩人と私たちをつないでいる電話なのだと思う。

 

 

 

 

 

比留間一成さんの思い出

比留間一成先生のお話を伺って

(詩人 小山正孝の御子息、俳人の小山正見氏発行の『感泣亭 秋報』12号 2017に寄稿した文章を、一部補筆)

 

 ブレーメン通り・・・童話のような名前のその通りは、洒落た石畳とこざっぱりした街並み、それでいて活気にあふれた商店街だった。一歩、奥に入ると、閑静な住宅街が広がっている。小雨がそぼふる中を、「感泣亭」への道を急ぐ。前方にシャキッと背筋を伸ばして、雨の中を傘も差さずにゆく老紳士。追いついてみると、やはり比留間一成先生、その人だった。

 比留間先生の畏友である小山正孝さんを記念する「感泣亭」でのお話は、鈴木亨さんの作成された詩史年表を基に、ご自身が文学を志した初心の頃を思い起こしながら、その想いを同席者に伝える、といった心配りを感じるものだった。内容については別途掲載されるようなので、ここでは補完的に、折に触れて私が比留間先生から受け取ったものをご紹介したい。

 「日本現代詩文庫」99巻、『比留間一成詩集』に収められた年譜に、1945年、21歳時の記載がある。「終戦。会社は当分休業となり、知人より借りた宮沢賢治全集六巻をくまなく読み通し、教師になる決意を固める。死に損ないの念を強くす。」文科進学の夢を‶お国に奉公する‴ために断念させられた青年時の想い。人の心や精神を養う、もっとも基盤となる人文系の学問が、戦争の狂気の中で軽んじられ、将来のある若者たちの命が数多失われていった時代・・・教師となって、戦後の日本を立て直す、その決意は、現在に生きる私でも共感できる。しかし、「死に損ないの念」この一言は強烈だった。私の父も、高校の歴史教員となって戦争のことを考え続けていたが、終戦時10歳だった父には、そんな想いは生まれなかったろう。ましてや、私も含めた戦後世代は、何一つ、当時の青年たちの想いを知り得ていない。

 知り得ていない私たちが、夢を奪われて死んでいく仲間たちを目前にした青年の想いに、どこまで肉薄できるのか。外交的な軋轢や摩擦を、安易に武力で解決しようとする風潮が強まっている現在、実際に戦場に駆り出されることになる青年たち――私の息子も、その一人である――に、二度と同じ思いをさせてはならない、そのためにも、知っておきたい。日常感覚、主婦感覚の発想かもしれないが・・・『暮らしの手帳』編集長の花森安治の、私たちは自分たちの「暮らし」を大切にしなかった、だから戦争が起きた、という述懐や、映画『一枚のハガキ』を撮影した時の新藤兼人監督の言葉・・・戦争は一人の兵士を殺すだけではなく、そのすべての家族、家庭も壊すおろかな行為である、という明白な断言・・・そこから出発するのでなければ、私たちは真に戦争を阻止することはできないだろう。

 出来事を知ることは出来ても、当時の心情を知るには、文学作品に拠る他はないだろう。小説、随筆、ドキュメンタリ―・・・様々な文学作品に、青年たちの「心情/真情」は描かれてきた。とはいえ、どの作品も、感情移入して心情を追体験するまでには、相応の時間を要する。それでは、詩歌はどうだろう。象徴的表現や、寓意的表現を用いて凝縮されているがゆえに、腑に落ちるまでには時間がかかるかもしれない。でも、凝縮された真情が、確かにそこには保たれている。心でそれを受け取ることができれば、小説や随筆以上に、直接的に、作者の心情に触れていくことができる。豊かな想いの広がる平野に導かれる。

 比留間先生の考える詩歌とは、そのような心と心の出会いをもたらす言葉を読み、そして書く、ということに尽きるような気がする。もっとも、「現代詩」は、今、現在の知識や感覚で読み解けるものばかりではない。明治以来の口語自由詩が果敢に開拓してきたもの――イメージの飛躍がもたらす驚きや、西洋的な思想の導入、新しい文学思潮の積極的な受容――を真に受け止めるためには、日本文学の二千年の歴史が蓄積され、その中で変容し、変遷してきた歴史を、ある程度把握しておかねばならないだろう。比留間先生は、通信講座においても、対面講座においても、受講生が自ら気づくように、時に応じてピンポイントで教えて下さる。聞き逃したらアウト。そこは厳しい。

 日本語が大和言葉と漢語の双方によって生み出されてきた歴史、それぞれの言語が孕む思考法の相違、漢語の導入がもたらした思想の導入。様々な多様な思考法や文化が、混在することはあっても状況によって使い分けられ(和漢朗詠集に象徴されるような、多様性を重んじる文化。漢字と平仮名、カタカナの併用であったり、水墨画大和絵の併存など)一方が他方を打ち負かし、排除することがない。和をもって尊っとしとなす、その寛容の文化、多様を活かした、多彩な使い分けの工夫。多彩、多様を保つがゆえに、繊細なニュアンスの表現が可能となった、日本文学の特質。漢詩のこと、折口信夫、芳賀檀のこと、カントやヘーゲルなど、観念論や実存主義哲学のこと・・・。たとえば源氏物語は、古来から受け継がれてきたアニミズム的な自然との親和、美しい響きへの感性、豊かな自然への感受性といった、大和言葉が受け継いできた文化と、漢籍のもたらした仏教的思想との出会いがなければ、生まれなかった。

 人智を越えたものに訴える、称える・・・ところから始まった歌が、長歌から短歌へと変じ、さらに俳諧が生まれていく過程において、大きな役割を果たした芭蕉や蕪村は、古来からの大和文化と共に、豊かな漢籍の教養が生み出す実存的思考を有していた。しかも、漢文の読み下しは、既に「漢の国の文学」ではなく、日本の詩歌と呼んでもよい響きや詩想に溶け込んでいる。漢詩の豊かな幻想性は、より自由な和訳によって伝えられるべきだ・・・(実際に、比留間先生は実践されている)。

 比留間先生のお祖父様は、漢文の深い素養を持つ方だったという。お母様は歌に秀でていたとのこと。教育が国策に向かう時代、息子の将来を慮って実学への道に進ませようとするお父様に反発しながら、文学への情熱と憧憬を保ち続けた中学時代。その時以来の情熱が自ずから呼び寄せたような、糸屋鎌吉さん、高橋渡さんや伊勢山俊さん、鈴木亨さんや西垣脩さん、「山の樹」の先輩同人であった小山正孝さんと比留間先生との出会い・・・。 

 詩歌が繋ぐ縁に、改めて思いを馳せている。

 

 

橘しのぶ詩集『道草』(2022.11.10)七月堂 感想

道草、という白抜きのタイトル文字が、藪椿の茂みの上に置かれている。庭植えではない、枯れ蔓の絡まった路傍の、あるいは公園の片隅の茂み。丸く切り取られた写真が地球のようだ、と思う。

読みながら、悔恨、という言葉の意味を考えていた。悔いが残る、悔いを残す、クイ、喰い、杭。撃ち込まれる杭は深く傷を残すだろう。しかし、その杭に繋ぎ留められ、あるいは地に突き刺されることによって、流されずに身を留めることもできる、そんな痛みと裏腹の‶救い〟をもたらすのもまた、杭の鋭さなのではなかろうか。

奔放な想像力と、その情景を具体化する筆力がある。柔らかな筆致の中に、羽根布団の中に隠された釘のように鋭く、読者を―何よりもまず作者を―刺す一言が置かれる。その展開が自然で巧みだ。

 

巻頭作品、「おねがい」。〈ゆめのような小春日和〉眠気を誘われるような出だしに油断し、ひらがなで柔らかく記された「おねがい」の文句に気を許し、街騒のように響いてくる選挙カーの「おねがいします」の音声、足もとにまとわりつく愛してやまない猫の甘え声に口元が緩み‥‥‥たった一度だけ、発作的に(可愛くて愛しくてたまらない)愛猫に発した「死ね」という一言が、猫の逝ってしまった後になって深い‶くい〟と化し、語り手をその場に打ちつける。続けて置かれた「告白」は、幼児期の思い出を喚起するように語り出される。〈十かぞえるあいだに泣きやんだら、この耳をあげる〉という〈あなた〉。想像力の中で実際に掌に〈耳〉を乗せてしまう〈わたし〉は、かつての一言から数十年の時を経た現在の〈わたし〉なのだろうか。あるいは、思いの中で自在に記憶を遡り、〈あなた〉の後を追っている〈わたし〉なのか。〈しずかにあつくゆれながら、かかとからあかく染まってとけていった、ろうそくみたいな娘は、わたし。〉という美しい比喩に気を許した矢先、〈ことばで人を殺すことはできるが、ことばでは人を愛せない。視姦されたところで孕まないように。〉という一節が打ち込まれる。

待つことと諦めることが夢物語のように歌われる「ラプンツェル」に翳る亡き父への想い、「亀鳴くや」に寓意的に描き出された、父を恋う想い。「花葬」、「鏡葬」と続けて置かれた二篇にも、幻想と現実を混ぜ合わせていく調べの中に、肉親を見送る際にいつまでも残る空虚が刻印されている。

蛹、あるいは‶死〟からの再生や変容がキーワードとなる「きわ」、「ポーズ」、「道行」にも現実から立ち上るものと空想が招き寄せるもう一つの現実とが混在している。婚姻届け、出産届け、そして離婚届け……ライフヒストリーを無機質に凝縮したような書類を〈提出した帰り〉にいつも通り抜けた〈区役所の裏の公園〉で、〈私〉は初めて、〈ももいろの侏儒〉を見かける。童話の世界ではないもう一つの現実が、語り手の中で目覚めた瞬間だろうか。この作品は「啓蟄」と題されている。何かが〈私〉の中で目覚め、羽化するように言葉を再び、綴り出したのかもしれない。

豊かな筆力に裏付けられた、リアリティーのある想像世界が展開していく22篇。近頃では珍しくなった「あとがき」に胸を突かれるものがあるが、その思いもまた詩に昇華されていくことを願い、今、ここでは触れずにおきたい。

 

道草

道草

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北島理恵子詩集『分水』(2022.6版木舎)感想

装画がまず、印象に残る。(版木舎の装幀は見返しの色合いやカバーとの共演も含めて、いつも感嘆させられる。)裏表紙の二人の背中を照らしている日差し、長く伸びた影の余韻。逆光の中でその表情はうかがえないものの……。

 

冒頭の作品「etching」を読んで思い出したのは長谷川潔の小鳥だった。青い鳥のイメージも重なる。過去からやってくるもの、浮かび上がってくるもの。彫り付け、痛みと共に腐食させていくうちに浮上してくるもの。エッチングという手法の手順も思い描きつつ、記憶の層に刻んでいくニードルの針先、記憶を言葉として採り出していくときの微かな痛みを想起した。

「第一巻」は鮮明に立ち上がる映像に戦慄する。近代化の裏面で忍従を強いられた農村の苦悩に、アウシュビッツの写真集を閲覧した時の震えと痛みが呼び寄せられる。過去の苦難からひとりひとりを大切に救い出したい、そんな願いが込められてもいる作品のように思う。

 

第一部では、東日本大震災の追悼への思いを強く感じつつ、戦後の現代日本のそれが帰結であってよいのか、という思いがにじんでいるように感じられた。幻影というよりは幻視に近いような鮮烈な映像が印象に残る。時代や場所を変えたいくつもの映像と層になっていて、溶け合ったり一層だけが明確に現れたりする描写の美しさが見事だ。おそらくは熱意に導かれた様々な文学表現の渉猟があり、推敲を重ねる研磨の日々が著者の表現を作り上げているように思われる。

「まぶた」の、眼を見開こうとして果たし得ない蘇った死者は使者であると同時に今の私たちであり、あの時のあなたたち、であるのかもしれない。安保法案抗議集会に生々しい悔恨と共に向かう〈キヨさん〉の姿に思いを託す作品をこの位置に置く意味についても、考えさせられた。

 

家族や近親の記憶を蘇らせながら紡ぐ二章は、静かな語り口と控えめでありながら的確な喩の鮮やかさを味わえる章。一人一人の歴史ともいえる個々の歴史が、画家が記憶の底からモチーフを呼び出すように取り出されていく中で普遍性につながる記憶に変容していく。モチーフの周囲にグラデーションをかけるような光の当て方に魅力を感じた。

身体記憶と象徴性を重ねていくような三章にも、表現への果敢な意欲が感じられる。「実」の未熟で苦い青梅のような実の生ナマしさは、毒気も含むイメージと共に、言いさしたまま呑み込んでしまった言葉たちが凝って形を成したもののように思われてならなかった。果たして言葉は、豆の花のように逞しく現実と共生しながら、豊かさへと繁茂していくものであるのか、どうか……。「足音」は実際の骨折の体験から生まれたものかもしれない。私も左足の甲を骨折したことがあるが、十数年前だというのに、今でも冷えたときなどに痛み(の幻影)を感じることがある。膨れ上がった足の皮膚の内側を動く青黒い液体に辟易しながら、人は皮袋に骨や肉、臓器を収めた水の塊なのだ、と改めて実感したことを思い出す。

 

詩集のタイトルともなっている分かれゆく水の流れのイメージは、有り得たかもしれない選択とその後の行く末への想いなのか、あるいは様々な時の層を“分水”しながら流れていく意識の流れを取り出したものか。集中にも「分水」という詩があるが、作者個人の生活や日々、その中で求め続けている何かをひそやかに控えめに表している作品である。この詩が詩集全体を象徴するというよりも、分水、という言葉とそのイメージそのものがこの詩集の核となっているように感じた。

近年、環境破壊の影響なのか予想外の風雨や炎暑に見舞われているが、“大気の声”にも耳を傾け、言葉にしていくことが詩に求められているのかもしれない。流れゆく水の行く先が、再び雲に帰ることのできる豊かな大洋であり続けるように願ってやまない、そんな思いに導かれる詩集だった。