詩の中庭

日々の読書、詩集や詩書の書評、覚書など。

はちみつ色の記憶(『博物誌』50号2022年1月掲載記事)

 いつも、“お守り”のように大切に引き出しにしまっている一篇の詩がある。吉野弘さんの「一枚の絵」。恐らくエッセー集からコピーしたものだろう、1978年12月と吉野さんの自注があるが、吉野さんのどの本で読んだものかどうしても思い出せない。

 

 一枚の絵がある

 

 縦長の画面の下の部分で

 仰向けに寝ころんだ二、三歳の童児

 手足をばたつかせ、泣きわめいている

 上から

 若い母親のほほえみが

 泣く子を見下ろしている

 泣いてはいるが、子供は

 母親の微笑を

 陽射しのように

 小さな全身で感じている

 

 「母子像」

 誰の手に成るものか不明

 人間を見守っている運命のごときものが

 最も心和んだときの手すさびに

 ふと、描いたものであろうか

 

 人は多分救いようのない生きもので

 その生涯は

 赦すことも赦されることも

 ともにふさわしくないのに

 この絵の中の子供は

 母なる人に

 ありのまま受け入れられている

 そして、母親は

 ほとんど気付かずに

 神の代りをつとめている

 このような稀有な一時期が

 身二つになった母子の間には

 甘やかな秘密のように

 ある

 

 そんなことを思わせる

 一枚の絵

 

電車の中ですれちがった母子の景に心を動かされた吉野さんが、何度か改稿しながら得たという作品。読む・・・というよりも眺めていると、ラファエロの聖母子像が重なっていく。

 読み直すたびに、「上から」という言葉で切る吉野さんの繊細さにはっとさせられる。電車の中で他者の眼を気にしながら、早く泣き止んでちょうだいと幼子の意志を押しとどめようとする、社会人としての親の困惑と苛立ちが一瞬現れ、重なり・・・さらに、そんな自分に対する自制や自責の念がにじんでくる。その沈黙の時間と緊張感を生み出す切断、そのあとに続く空白。息を飲んで次の行に移ると、そこには上から“押さえつける”のではなく、あらゆるものを柔らかく包み込みありのままを赦してくれるような、春の陽射しのような「若い母親」の視線が、静かにあたりを満たしているのである。

 泣きわめくことを“赦す”まなざし。そんな一瞬が、間違いなく確かに存在する、と高らかに宣言するような、「ある」という断固とした一節、その切り方、置き方、潔さにも強く惹かれる。ごく平凡な母子の情景が、いつのまにか人間そのものについて、さらに人を見守るなにか大きな存在との関係へと展開していく見事さ。そして、初めてこの詩を読んだときのことを、かすかな痛みとほのかな色合いと共に思い出す。

 

 初めての子は月足らずで生まれた。他の子よりずいぶん遅れてよちよち歩きを始めたものの、数歩歩いては転ぶ危うさになかなか外に出ていくことができない。私自身の“新しい親子世界”への戸惑いやためらいもあったかもしれない。子供同士の“社会参加”は必須だから、との周囲の声に促され、かろうじて「児童館デビュー」と「公園デビュー」は果たしたものの、まだ「ママ友」との上手な付き合い方を推し量れぬまま、図書館に通っていた頃があった。帰りがけに児童コーナーに立ち寄ると、息子は決まって「のりもの」の棚から『しょうぼうじどうしゃ じぷた』を抜き出し、黙って私の前に差し出す。「そんなに好きなら、この本、買ってあげようか?」と聞くと、息子は黙って首を横に振る。それはまるで、毎日繰り返される儀式のような行為だった。

 児童コーナーの絨毯の上で、息子にだけ聞こえる声で、「じぷた」の物語を読む。僕なんか、なんの役に立つのだろう、と落ち込んでいる、小さな小さな消防自動車のお話。ジープを改良した「じぷた」は、町の建物が火事の際にもまるで役に立たない。出動の際にはいつもポツンと消防署に残されてしまう。大きな消防自動車が胸を張って帰ってくるたびに肩身の狭い思いをしていた「じぷた」だが、ある日、山小屋が火事にみまわれ緊急出動、他の消防車が入れない山道を駆け上り、大活躍するのだ。絵本を閉じると息子はすっきりした顔をして、自分で次の本を探しに行き、黙って広げて読み始める。その様子を視野の隅におさめながら、私も自分の本を探す。そんなとき、おのずと手に取るのは詩集や詩人たちの書いたエッセー集だった。

 もうすぐ四歳になるというのに、息子は二語文を話せなかった。砂場や児童館でスコップやブロックなどのおもちゃを取られても、まったく怒ろうとしない。集団お遊戯の時間になると、ふっとその場を離れて一人で何事かを始めてしまう。若い保健婦に「言語療法士」を紹介されたり、児童館の職員に発達障害に関する書籍を読むように勧められたりするたびに、笑顔で断りながらも内心では焦りや苛立ちを覚えていた。子供には、蘭のように育てるのが難しい子供とタンポポのように容易い子がいる、そんな話を拾い読みしたり、言葉遊びの本を必死に暗唱させようとしたり・・・今となっては笑い種だが、当時の私は軽いノイローゼに陥りかけていたのかもしれない。そして周囲に敏感な息子は、幼いなりに母の恐れや不安を我がことのように感じていたのかもしれなかった。

 そんなとき、吉野さんの詩がまるで陽射しのように私を暖めてくれたのだった。初めてこの詩を読んだとき、詩を読んでいる空間がはちみつ色の光に満たされているような気がしたことをはっきりと覚えている。色を持った詩というものが、確かにあるのだ。

 私と息子との間にも、そのような瞬間が“ある”のかもしれない。いや、今までにもあった、ただ、単に忘れているだけ、気づかなかっただけだ。そう思わせられるだけでなく・・・この幼子のように泣きわめいている内面の私自身を、新米の「若い母親」であるもう一人の私が、それでいいのよ、とほほえみながら見下ろしているような、そんな不思議な自己分離の感覚にうたれた。そのページをコピーし、大事に折りたたんで息子の着替えやオムツ、弁当の入った大きなトートバッグにしまい・・・鼻歌を歌いながらベビーカーを押して帰路についた。道端のイチョウ並木の黄葉が、数日前までは寒色系の緑色をおびた寂しい色だったのに、その日はオレンジ色をおびた金色となって、ひらひら、小鳥のように舞っていた。晶子がかつてうたった通りに。

 

 縁に恵まれてごく普通に結婚し、一人目の子を出産し、二人目を身籠り・・・当時の私は、大学で美術史を学んだものの取り立てて将来の展望というものも持ちえないまま、それなりに楽しく忙しく日々を過ごす専業主婦となっていた。自分の将来のことは子育てが落ち着いてから改めて考えよう、そう心の底で自分自身に言い聞かせながら、実際には、研究者の道を選んだ同期の学友たちが次々と論文を発表していくのを、焦燥感と孤立感とがないまぜになった感情で眺めていたように思う。息子が「じぷた」の物語を持ってくるたび、それを私自身の物語としても読んでいたのかもしれない。

 息子も既に大学生となった。今では当時のことはすっかり笑い話となった。パワーポイントを駆使して授業用のプレゼンテーション資料などを作成する、快活でお人よしの、ごく平凡な人懐っこい青年。小学六年生までおねしょと縁が切れなかったから(ホルモン異常や内臓疾患を疑い、入院させてまで検査したことがある)、単に他の子よりも発達のスピードが遅かったに過ぎないのだろう。

 義父母と同居だったので、あ~とか、う~と言えば「あっちに行きたいのか?」「あら、お茶がほしいのね」と、意志疎通にまったく不自由しなかった。そのことも言葉を発する遅さにつながっていたのだと思う。息子はいわゆる喃語を話すことは一切なく、いきなり文章を話し出して周囲を驚かせた。

 言葉によるコミュニケーションは、意志を伝えたい、という強い欲求が無ければ生まれないものなのだろう。大人四人に囲まれる生活と、大きなポンプ車やハシゴ車、大型救急車に囲まれた小さな小さな消防自動車の話とのアナロジー。息子は子供ながらに母親の焦りや苛立ちを敏感に感じ取り、自分を重ねていたのかもしれない。

 そんなタイミングで出会ったからこそ、この一篇の詩が、はちみつ色の光と共に私の記憶に刻まれることになったのだと思う。詩は、出会うべき時というものがあり、その「時」になると自然に目の前に現れてくるものなのだ。新川和江さんの「私を束ねないで」も、学校の授業などでも何度も読んでいるはずだが、私の心に楔を打つように飛び込んできたのは私が35歳を過ぎ、それでもなお、一生を賭して悔いないものがまだ見つからない、という焦りに追われている時だった。二人の子供の幼稚園の同級生ママと、「三原色によるお絵描きの会」を立ち上げ、画用紙は心の運動場です、と威勢のよいキャッチコピーを掲げて子供たちの生み出す多種多様な造形や色彩に瞠目し、展覧会や写生会を楽しんでいた時もある。しかしいつか子供たちは、私のもとから離れていく。その時、お前はどうするのかという問いが、空が菫色に暮れてくるたびに夕方の鐘のように鳴り響いていた。

「私を束ねないで」に再会したのは、図書館に子供たちの展覧会のチラシを配りに行った帰り道、いつものように詩集の棚に立ち寄った時だった。涙があふれて止まらなかった。調べてみたら、新川さんがこの詩を書かれたのは当時の私と同じ、37歳の時だった。心が震えた。平易な詩であればあるほど、その奥行きにたどり着くにはそれなりの心構えも体験も必要なのかもしれない。新川さんの言葉にエネルギーをもらいながら、学生時代にリルケを教えて下さった先生が思索のための詩作、と称してソネットを連作しておられたことを思い出し、見よう見まねで「詩」らしきものを書き始めた。その時は、いずれ子供たちには見せるかもしれない、とは思っていたものの、他の誰かに見せようなどとはまったく思いもしなかった。大震災が起きた2011年までは・・・。

 困惑している、ある日、ある時の、誰かの心に響くことば。それが、詩の役割なのかもしれない。私が、ふわっと心を暖めてもらったように、私の書くものが、いつか誰かの心に届くことがあればいい。そんなことを思うようになった頃に出会った一篇の詩がある。伊東静雄の「夕映」。この詩も、はちみつ色の光に満たされている。私の、もう一つのはちみつ色の記憶である。

 

わが窓にとどく夕映(ゆうばえ)は

村の十字路とそのほとりの

小さい石の祠(ほこら)の上に一際かがやく

そしてこのひとときを其処にむれる

幼い者らと

白いどくだみの花が

明るいひかりの中にある

首のとれたあの石像と殆ど同じ背丈の子らの群

けふもかれらの或る者は

地蔵の足許に野の花をならべ

或る者は形ばかりに刻まれたその肩や手を

つついたり擦つたりして遊んでゐるのだ

めいめいの家族の目から放たれて

あそこに行はれる日々のかはいい祝祭

そしてわたしもまた

夕毎(ゆふごと)にやつと活計(かっけい)からのがれて

この窓べに文字をつづる

ねがはくはこのわが行ひも

あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ

仮令(たとい)それが痛みからのものであつても

また悔いと実りのない憧れからの

たつたひとりのものであつたにしても