詩の中庭

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ミスター童心・・・武市八十雄さんの言葉(『みらいらん』5号2020年掲載記事)

 童心、といえば思い出す名前がある。レオ・レオーニの『あおくんときいろちゃん』やいわさきちひろの『あめのひのおるすばん』『ことりのくるひ』、谷内こうたの『のらいぬ』『にちようび』などで知られる至光社創始者武市八十雄さん。福音館の松居直さんと並んで、戦後の子どもたちの心に真の豊かさを届けようと、文字通り邁進した人だ。

 子どもにこそ、「ほんもの」を、いいものを届けたい、五感を優しく、深く慈しむように刺激する、真の芸術を届けたい……その思いを最初に抱いたのは、終戦直後、どう生きて行ったらいいのかと迷う心を抱えて、聖フランチェスコ会のガブリエル神父の勉強会に通い始めた頃だったという。我が家の目の前が、ガブリエル神父ゆかりの修道院、その付属幼稚園での講演でのお話だった。氏の印象をロールパンの葉書絵に託して講演会の感想をお送りしたところ、思いがけず『えほん万華鏡』というエッセイ集を頂き、感想の往来が続いた。いつしか毎週のように手紙を書いては、お電話を頂いて「おしゃべり」する、そんな稀有な交流に恵まれたのだった。

 昭和二年生まれ。出征していく先輩たちを明日は我が身と見送った青年が、戦後の物心共に荒廃した世相を見聞きし、信じていたものがすべて崩壊する転換に見舞われた時、何を思ったか。学生時代、十字架の聖ヨハネを読み耽った、という武市さんと、やはり学生の頃、従妹の自死に戸惑い神秘主義神学をすがるように読んでいた私との間に、通じるものがあったのかもしれない。子どもは知らずに境界を超える、今、見ているものの向こうに、光り輝く「ほんもの」を見て、そこに生きることができる。地面に置いた輪っかを踏み越えるように、容易にあちらとこちらを行き来することができる……。

 とてつもない知性と、他者の気持ちを恐ろしいほど敏感に感じ取る鋭利さを持っていた。それでいて、「こども」のような無邪気さ、茶目っ気とユーモアを備えている人だった。まさに、ミスター童心、常識にとらわれない自由さと、直観で動くヤンチャ坊主。付き合っていた画家に、ことな、と呼ばれたと言う。子供のような大人。子供っぽさ(チャイルディッシュ)は駄目だが、子供らしさ(チャイルドライク)は大歓迎、あなたも僕もおんなじコトナだよ。

 私自身が生き方に悩んでいた時期だったから、ずいぶんと内面的なこと、切迫した心境を手紙に綴っていたような気もする。子育てに「充実した」日々を過ごしながら、内心では何をやっても駄目、自分の人生は全て終わった、そんな喪失感と空白を抱えていた時期に、母でもなく、妻でもない、「私自身であること」を思い出させてくれた人。雑談を少し交わすだけで、自然に心がほぐれ、すうっと楽になる心地がするのが魔法のようだった。そうした柔らかな四方山話の後は、決まって「こどものせかい」って何だろう、という話になるのだった。

 生まれて初めて見る世界は、新鮮さに満ち満ちている。何事も、まずは自分の手で取って、触れて嗅いで確かめて、じっくり心に収めるゆとりがあれば、子どもは自ずからのびのびと生き始める。童心とは、まずは驚くこと、未知に喜んで、小躍りしたくなる気持ちに自然に身を任せること。既成の美ではなく、自分で面白さを探し出す遊びの領域にこそ、子どもの世界は広がっている。大人は手取り足取り教えたりしてはいけない、大人が子どもの目と耳、心で子どもと並び、一緒に手を取り合ってその空間に入っていく身軽さを持っていなくては……。子どもが自在に「こどもの世界」で遊ぶためには、安心、というホームを持つことが大事なんだ、どんなことがあっても受け止めてくれる、両腕を広げていつでも待ち受けてくれている人がいる、そんな確信を抱くことができるような、そんな環境が子どもには絶対に必要なんだ。

 あなたから、面白い絵が出ないかな、と思っちゃったんだよね、と、ぽつりとつぶやいたことがあった。触発されるように次々と絵を描き、ちがう、ごめんね、と戻されて見直すと、既成の何かに似ている、囚われている、その不自由に愕然としながら、がんじがらめになっている自分に気付く、そんな日々でもあった。絵にしちゃだめだ、絵になるのを待って、と言われつつ、絵で詩を描いてくれないかな、という一言がきっかけとなって、言葉で詩を書き始めた。言葉の世界に行く、と言った時の、ちょっと悲しそうな、でも嬉しそうな声が今でも忘れられない。あなたは持ってるよ、そんな力に満ちた一言を、タイミングよくポン、とかけてくれる人でもあった。

 子ども心が自然に動き出したら、大人は黙ってついて行くだけでいい。何かに目を止め、ほら、と見せてくれる時、後ろで微笑んでいる眼差しさえあれば、子どもは宝物をあっという間に探し出す。子どもを見張っていなさい、ということではないよ。安心した子どもは、親から離れて遠くへ、行ったことのない場所へ歩き出す、親の知らない秘密を持つ、その秘密が大事なんだ。自分だけが知っている、という何かが、子どもの心を明るく照らしてくれる。何しろ、子どもは遊びの天才だからね。

 ミスター童心の言葉は尽きることが無かった。コトナ心は、今も声音と言葉と共に、私の心に息づいている。