詩の中庭

日々の読書、詩集や詩書の書評、覚書など。

加藤泰義の「小さな詩論」―詩で生を思うということ

いつしか

訪れていたもの

夕べの庭に

ひびきはじめるもの

 

初めには

山萩のしげみから

小さなふくらみの

一つ二つ

 

さらに濃く

宮城野萩の

乱れ咲くなか

 

白露のとき

こぼれるような

こおろぎたちの声

 

まだ暑く蒸す

一日を終えて

帰ってゆくひとびとを

こおろぎたちが迎える

 

生け垣も

車道のわきの

小石の多い径も

ずっとつづくのに

 

ときには家のなかに

まぎれこんでくる

おそらくこの秋もまた

 

夕暮には思いを沈め

ひとびとの歩みは

ゆるやかになる

 

かつて詩人が

いのちへの愛から

節度を測りつつ

歩みを運んだ

 

往く道々は 美しく

花がひらいた

いまも

花々は咲きひらき

 

道に陽は照り

樹陰に

風が吹きわたる

 

高いビルの下

吹きつづける風に

桂の樹がひるがえる

 

かつて静かな舗道を

白い乳母車が往き

仰ぎみる楡の樹が

濃い影を落としていた

 

白い建物の

向こうから

海の音だけが

聞こえてきた

 

いま地下道を

行くひとびとが

疲れた流れになっても

 

歩いてきたそれぞれの

時を 深まる秋が

包んでゆく

 

加藤泰義『秋の歌 55のソネット』より、冒頭四歌を引いた。静かな秋の叙景から始まる連作は、やがて樹々に思いを重ねながら、はるかな時をさかのぼってゆく。

 

北の町の小川のほとりに茂るくるみの樹を思いながら〈昔から/このくにのひとびとは/樹のかたわらに住み/樹とともに老いた〉〈いつからかひとは/樹の名を/呼ぶようになり//木で家をつくり/食事のうつわと/お箸もつくった〉〈高く育った桐を/ひとはくりぬき/好みの重さに/箏をつくった〉〈ひとは箏を弾き/神に歩みをはこび/風の音を聴いた〉そのように樹々のかたわらに暮らしながら、ひとびとは〈孤独は/離れて立つ/樹のようであること〉〈言葉は/樹のように/寡黙であること〉を学んだとうたう。(11歌~13歌)

 

あるいは北の地の校庭を囲むポプラの樹と、その葉で遊ぶ子供たちを眺めながら〈昔ギリシアのひとびとが/アケロイスと呼んだポプラは/いまも/銀色に輝いている〉のを思い出す。ヘラクレスが冥府との境の川アケロンから戻ってきたとき、その頭にかざした葉が汗で白銀に輝いたことからその名が付いたというアケロイス。〈昔トロイアの地で/勇者たちは雄々しく戦い/白銀のポプラが倒れるように〉死んでいった。〈北風と西風は/夜どおし/吹きすさび〉〈ヘクトールに倒された/パトロクロスを 勇者たちは/槲(かしわ)の巨木を倒して積み重ね/燃えさかる焔のうちに葬った〉。〈しかし西風が/優しく吹きわたるとき/梨も 林檎も 葡萄も/無花果の樹もさかえ//ゆたかに実を結び/さかえた町のひとびとは/葡萄酒の甕の/蓋の開く日を待っていた/ディオニュソスは/そのようにして冥府から/また生まれてくる〉。(14歌~17歌)

 

ディオニュソスの再生をうたった後、詩人はプラタナスの植えられた都心の街路を歩みながらオデュッセウスたちに〈きらめく流れのほとりの/プラタナスが美しく映えた〉ことを、そしてギリシアの哲学者が川べりのプラタナスの樹陰で〈美について語らった〉ことを思う。また、太古の時代から生死を繰り返してきた百合の樹を思い、二階の窓から銀杏の黄葉が海のように風に波立つのを眺めながら〈風が鳴り/梢が鳴り/全部が動いている〉のを見る。(20歌~22歌)

 

すべてが動いている/場所がかわり/色が変わり/小さなものが大きくなる//なにかが生まれて/形となり/形をとったものが/消えてゆく//かすかな/風とともに/秋が立ち//いま大きく/もえ立つなかを/なにかが逝く(23)

 

地上に/ひとのいのちが/形をとるよりもまえに/はるかに永い昔があった(24)

 

ひとのいのちが/形をとり/さまざまに 形を/あとに残してゆく//形のうしろに/形がつづき/やがてひとの形が/見えなくなる//その向こうに/樹々の形が/つづき//やがて/形は/見えなくなる(25)

 

 作者は哲学者、ドイツ文学者の加藤泰義(ひろよし)――ここでは加藤先生、と呼ばせてほしい。私が二十歳の頃、従妹の自死にショックを受け身動きが取れなくなったとき、リルケとの出会いに導いてくださったのが加藤先生だった。美術史なんて”虚学”を学んでいていいのか、教育学やカウンセリングなど”実学”を学ぶべきではないのか…研究室に駆け込んだ私の話を、二時間も黙って聞いてくださった。肩に手を置いて、何も言わずに「それでいいんだよ」と一言おっしゃったときに、なぜか涙があふれたことを覚えている。その後、リルケの講読に誘っていただき…学んでいく中で美しいものや素晴らしいものがこの世にはあるのだ、そのことを告げ知らせる人もこの世には必要なのだと気づいたとき、精神的な暗がりから抜け出すことができたように思う。

 私が卒業するときご挨拶に伺うと、思いがけず『春の歌』『秋の歌』二冊の詩集を下さった。私が生まれて初めて”詩人”から頂いた詩集ということになる。それまで、加藤先生が詩を書いていることを全く知らなかった。

 折に触れて読み返してきたが、今頃ようやく気づくこともある。たとえば、秋の深まりを思い返す流れの中に置かれた第6歌。

 

木犀の香りが

帰り路に

ただよいはじめる

思い出されることも多く

 

征くものを

はしけに送るひとを

ふりしきる雨が

消した

 

十月の雨は

煙り また

ふりしきる

 

その高い樹は

木立の奥に

かすむ

 

十月の雨。1943(昭和18)年の10月21日は雨だった。明治神宮外苑で行われた学徒出陣壮行会当時、1927(昭和2)年生まれの加藤先生は中等科に入学した頃ではなかったか。雨の中、先輩たちを見送っていたかもしれない。征く、という文字に、今頃気づくとは。第8歌に〈金木犀のほかに/銀木犀があった/焼けるまえの/岡山の町に〉というフレーズもある。岡山と加藤先生との間に、どのような関わりがあったのかはわからない。岡山空襲は1945(昭和20)年6月29日のこと。第8歌の終連は〈美しく映えた/未来が/そこにあった〉と閉じられている。

 他にも、今になって気づくことがある。たとえば第50歌。〈闘いにおもむく/ヘクトールに/母親は胸を露わにして/留まることを願った//乳房から/恥じらいを受けて/やすらぎのなかに/留まることを願った//しかし恥じらいという/同じ言葉が/ヘクトールの胸には//別に響いた/勇者の恥/男の面目として〉引き続く51歌。〈アイドースといわれる/恥じらう思いから/ギリシアのひとびとは/慎ましさを育てた//しかし慎ましさを/斎きまもることへ/思いを向けてきた/そのくにも滅びた//ひとびとは/倨傲のひとを/嫌った//しかし自分自身の/傲りに気づくことは難しかった〉

 ヘクトールの逸話は授業でも何度か耳にしていて、その都度、加藤先生の思いの深さに不思議な印象を伴って聞き取ったけれども…今、この歌と共に思い出すとき、〈そのくに〉とはまた敗戦の日本のことでもあったのだとわかる。明日は自分も死地へと向かい、勇者として戦って果てる、それこそが正義と教えられた少年期の記憶と、その少年を見守る母の眼差しをそこに重ねていたのではなかったか。

 

 

 いわゆる技巧的な”現代詩”とはだいぶ感触が違う。静かな言葉は決して難しくはない。具体的に「わからない」ことも多い一方で、古代ギリシアや古代日本の世界観、旧約聖書に描かれた世界創造や新約のイエスの誕生の意味をソネットの形式で説く歌もある。(我知らず)思い出されたこと、感じとられたことをうたう歌と、(意識的に)学んだこと、説き明かすことをうたう歌が連なり、誰にともなく気づいたことを告げ知らせる緩やかな流れを持つひとつの歌となっている。

 加藤先生のことを知らない読者は、こうした歌の間から自ずから気づくものに出会っていく…そんな読書体験を持つことになるだろう。しかし私にとって、それは詩行の向こうから聞こえてくる先生の声を思い出す体験となる。

 

 ドイツ語の経験にはerfahren とerlebenがある、表面を見て触れて確かめるのと、内部を探り感じ取るのと…と身振り手振りで教えて下さった。一行の詩行を読みながら、ケレーニー、ヤスパースレヴィ=ストロースへ、柳田国男折口信夫へと話が及び、あるいは古代ギリシア神話やギリシア悲劇、日本の古代神話へと移っていく。半ば目を閉じ、左ひじをついて象牙色がかった白髪をかきあげながら、こみあげてくるものを抑えて少しずつ取り出していくように、あるいはまなうらに浮ぶ文字やイメージを写し取ろうとするかのように語る。少しかすれたバリトンのふくよかな声。三国連太郎の声に似ている、と言う人がいた。

 真珠のネックレスの一粒が地上に降りて私たちひとりひとりのいのちとなる…”大きないのち”と”小さないのち”との関係を説く天空のネックレスのイメージはケレーニーであったか。宇宙、あるいは虚空にかけわたされたやわらかな織物を風がふくらませて吹き過ぎる、その織物に折り込まれた一本の糸が私たちひとりひとり、というのはリルケであったように思う。織り糸の一本を引き出せばしわが波及し、静かな水面に石を打てばどんなに小さな粒であっても波紋を生まずにはいないように、どんなに目立たない、小さないのちであっても、全体のひろがりに影響を及ぼさずにはいない。

  

 詩集の後半を見ていこう。26歌はギリシア人の名付けたカオスについて。続く27歌には固有の国名が記されていないのでそのままギリシアの話と読んでいたけれども…〈天と地が/分かれたあとも/やがて国土となるものは/漂っていた//そこに/葦の芽が/萌えあがる〉日本の創世神話がそこに重ねられているかもしれない。28歌はイスラエル創世神話。29歌には〈旧約は始まりを示し/新約は 悪鬼の支配する/この世の/終わりを告げた〉〈十字架のイエスは/ひとびとに/高さを教えた〉とうたわれる。ディオニュソスの秘儀について、引き裂かれたオルフェウスについて、イエスの死と復活について。古代思想と教父哲学、マルティン・ブーバー、ブルトマンやカール・バルトの現代神学を行き来しながらいのちを呼び覚ますうたについて語っていた先生の声を思い出す。

 

〈太古のギリシアのひとびとに/なにかが輝き/その働きが/神を感じとらせた//このくにのひとびとに/吹く風の/ちはやぶる働きは/神を感じとらせた//ひとびとは/山と川と 花と樹に/親しんで育ち//山奥は深かった/奥をどこまでも深くして/水が流れてきた〉前連を受ければ〈このくに〉は古代ギリシアと読めるが、ちはやぶるという響きが私たちのくにへとうたを引き寄せる。いのちの水はとりわけ聖書を強く思い出させる…もちろん、あらゆる〝宗教〟にとって、水はいのちの象徴であるけれども。

 形ないものから始まった私たちひとりひとり。〈やがてひとびとは/形あるいのちの支配に/思いを向け〉〈あるいは 慣れて〉私たちのいのちを形へと生み成したものの”いる”〈ひろがりへの思い〉を見失っていく。〈しかし大地を/包むひろがりは/地上のわずかな/動きにつながり//そのしるしをみせて/大きく動いてゆく/その大きさと深さとは/ひとにいつも触れてくる〉(30~32)

 

 秋、という季節が、自ずから形をとり、この世に現れたものを通して〈ひとにいつも触れてくる〉のだ、たとえ私たちがそのことに気づかなくても。そして、実りと衰亡、再生の予感を感じる秋に、〈ひとびとは ひと年ごとの/さきわいを願い/未来は ひと年ごとの/姿をとった〉(34)さきわい、という言葉も繰り返し耳にした言葉である。無事、ということの大切さも…黒板に書かれた事という字の独特の崩し字と共に思い出す。

 

 37歌以降は神々をうたう。〈女神の大地が/男たちを産んだ/女神は すでに男の神/天空を産んでいた//男の神々は/暴虐をきわめ/大地女神は 堪えて/それを支えた〉〈形をとった/いのちは/何処から/来たのか〉〈永続のいのちの/大きな息吹は/限られた形をとって/現れてくる〉その息吹…プネウマを聖霊として感じたひとびと。イエスが生まれ、〈さきみたまくしみたま〉〈まれびと〉としておとずれるものがあり、月影としておとずれるもの、〈葦の葉の笛の音/波の鼓の打つ音〉と共におとずれるものがある。〈大きないのちは 彼方から/また異形のものとして/やってきた〉〈始原のいのちは/童子の姿をして/水の上を/漂ってくる〉。(37~43)

 

 44歌からは、再び身近な秋の叙景。しかし古の時空を旅してきた詩人は身近なささやかなものを見つめながら〈無辺際のなかに/それぞれ生み落とされた/寄る辺のないいのちを思って〉いる。〈誰もが/贈られてきたいのちを/まぎれもない自分として/けなげに負っている〉ことを、ひとは〈目立たずに立つ/藤袴〉や床の間に活けられた〈野の花のかたわらで〉学んできた。〈小さな草の花が/ひとをさらに慎ましく〉する。〈壮大な夕日の没落/それと肩を並べるようにして/時代の没落と言いたくはない〉なぜなら、〈ひとにとって/日の沈むことは/届くことのない/尺度だから〉…第3歌の〈いのちへの愛から/節度を測りつつ/歩みを運んだ〉という一節を思い出す。今の私に引き付ければ、〈手にふるる野花はそれを摘み/花とみづからをささへつつ歩みを運べ/問ひはそのままに答へであり/堪へる痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ〉という伊東静雄の一節も思い浮かべる。(44~47)

 

 野花が教えてくれた慎みが、古代ギリシアのアイドースを思い出させたのだろう…そのことが先に紹介したヘクトールの故事を思い出させ、加藤先生の若いころの思いにもつながり…52歌で〈くに破れて/ひとびとを/つつんだ山河〉へと回帰する。私たちが忘れたものはなにか。〈神々に いつも/入念な思いを/向けていること〉ではないのか。既成宗教の神ではない。古代ギリシアの人々が、流浪の哲学者が、まれびとを迎えた古代日本の人々が、ナザレのイエスに出会った人々が感じ取った、はるかな場所から吹き寄せてくる息吹、その吹き渡る場所に思いを向けているということが大切なのだ。秋の野に〈ひろがる/コスモスが/神と映った〉と詩人はうたう。コスモスは秋桜であり宇宙でもある。

 54歌、〈生み落とされたいのちは/次のいのちを生み/傲りと愚かさもまた/受けつがれてゆく〉からこそ、古人の声に、大いなるものがささやかな形、小さなしるしとしてあらわしたものに、心を向けていなくてはいけないのではないか…

 

55

 

いま萩の

小さな葉むらが

荘厳なまでに

黄金に輝き

 

ここかしこの

欅の巨木から

葉がしきりに落ちて

家のまわりを埋めはじめる

 

柚がわずかに黄ばみ

山茶花の白い蕾が

開きはじめ

 

秋は

さらに

深まってゆく

 ささやかだけれども荘厳に深まっていく秋。加藤先生が退官されたのち、千葉県の上総一宮に新築されたご自宅をお訪ねしたことがある。庭先には山野草と共に斑入りや細葉など幾種類もの芒も植えられていた。小径の奥のご自宅まで、地元の若者たちが神輿を担いで入ってきてくれるのだと喜んでおられた。

 突然の訃報に驚いたのはそれからほどない頃だったと思う。それからさらに数年、東日本大震災後に…再び詩を学び始めた私が出会ったのが、詩人でドイツ文学者の神品芳夫氏による次の文章だった。長い引用で恐縮だが、これ以上の評はないと思われるのでお許し願いたい。

 

 

 哲学者加藤泰義(1927‐2001)はハイデガーのドイツ詩との関わりを一貫して研究し、『ハイデガーヘルダーリン』『ハイデガーとトラークル』などの著作を発表したが、その皮切りは『リルケハイデガー』(1980)であった。ここで加藤はまず、ドイツ観念論からディルタイニーチェ生の哲学、さらにフッサール現象学への展開を受けてハイデガー存在論哲学が出現した経緯を解説し、ハイデガーが人間存在をテーマにしたリルケの後期の詩作に関心をもったことの必然性を指摘する。リルケに対するハイデッガーの批判も紹介しながら、むしろリルケを弁護する立場から、リルケ詩がときに開示する地上の生の「さきわい」の感覚について語る。

 加藤の生前最後の著作は『このように読めるリルケ』(2001)である。リルケは『ドゥイノの悲歌』と『オルフォイスへのソネット』の制作に並行して、1912年から1915年および1922年から1926年の間、数多くの詩を書き残している。それは両詩集への準備のような作品、その余滴のような作品、あるいは両詩集の枠から飛び出してしまったような作品などもあって、多様でまとめにくいのだが、加藤はこれらの詩を渉猟して、そこにいくつかの傾向を見いだした。女性への求愛と詩作の追求が十字路のように交差しているきびしさをうたうもの、死の領域をふくんで生きる女性の偉大さを称賛し、「永続のいのち」をうたうもの、羊飼いのように立ち尽くす姿勢を保って宇宙の全体を内面に感じ取るもの、たびたび出てくる「風と陽光」、「開かれた空間」のイメージを「さきわい」のモティーフとしてうたうものなどが挙げられる。それらがいずれも『悲歌』および『ソネット』にある詩句との関連を確かめながら論じられている。また「銅鑼(ゴング)」や「全権」のようなとびぬけた仕様の詩を扱っていると思えば、初期の連作「愛する」の立原道造訳を名訳と称えたりする。いずれにせよ、『悲歌』と『ソネット』を仕上げた1922年以後、死去するまでの足掛け5年のあいだの詩作は、大仕事を終えたあとの余韻を自ら愉しむ類のものと、これまでは思われていたが、事実は違っていて、女性をうたうにしても、実際に付き合っている人を対象にして、激しい思いを寄せたり、迫りくる死の予感のなかで、生死一如の晴朗のひろがりをひたすら呼び求めたりするように、詩人の心は最後まで安らぐことはなかったことが明らかにされた。

 加藤は自らも三冊のソネット集『春の歌、小さな詩論』(1989)『秋の歌』(1990)『飛花落葉』(1998)を発表している。それは親鳥の歌に習って、光と風の問いかけに応える健気な雛鳥の声のようである。加藤は身をもってリルケの詩世界にこれまで最も近づいた日本人であると思われる。

(「折々のリルケ―日本での受容史と今―(2)」『午前』第四号2013.10)

 

 実は、加藤先生にはもう一冊刊行詩集がある。『誰かが歌う子守歌 22のソネット』(1999)。帯に「ひとをつつむもの いのちを生むもの それを「母」と呼び 「宇宙」と呼ぶ」という、あとがきから抽出された言葉が添えられている。入手したのは近年だが、奥付を見て、私が最初の子を産んだ一月後の刊行であることを知った。

 

 思い出すエピソードがある。美術史専攻の私が、ドイツ文学や哲学専攻の学生ばかりの加藤ゼミで、なぜか発表をしたことがあった。ドイツにおける風景画の歴史について。アルトドルファーから辿り、ドイツロマン派の画家たちが憧憬し、あるいは対峙した「自然」を考えようと思ったのではなかったか…。人と自然の関わりや、聖なるもの(ヌミノーゼ)、崇高の概念などについて思いを巡らせていた時期だったように思う。スライドとレジュメを準備し、セッティングをしていた時、慌ただしく加藤先生が部屋に入ってこられた。母が危篤だという報を受けた、今から病院に行くので、あなたの発表を見てあげられない、ごめんなさい…予定通り発表してください、息を弾ませながらそれだけ言うと、また走るように去って行かれた。そんな非常時に、伝言ではなく直接、伝えに来られたことに芯から震えた。

 当時、ご母堂は90代ではなかったか。深く想っておられたのだろう、もし加藤先生が戦地に向かうことになったら、ヘクトールの母のように心の底からそれを阻止しようと強く願う、そんなお母さまであったのかもしれない。それから7、8年を経て刊行された「子守歌」には、〈お母さまは/お空のひろいところへ/宇宙のひろいところへ/ゆかれました〉〈やわらかい/お空になりました〉〈あたたかい/お空になりました〉というリフレインが記されている。同時に、〈きみの/呼ぶ声を/お母さまは/聞いておられます//宇宙の/遠いところにいらしても/お母さまに/きみの声が聞こえます〉〈きみと/お母さまを/つないでいる電話が/あるのです//思うだけで/きみの気持ちが/向こうに/届きます〉と静かな確信に満ちたうたも記されている。どんなことをしていても〈お母さまから/いつも返事が/届きます〉〈春の/街路樹の/芽吹く/あたりから〉…それが詩人の実感なのだ。開くたびに確かに声の聞こえてくる詩集もまた、詩人と私たちをつないでいる電話なのだと思う。