詩の中庭

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『名づけ得ぬ馬』颯木あやこ 詩集(思潮社 2021.4.9)感想

 

  淡いマゼンタがにじむように広がる。冬木立を思わせる枝は張り巡らされた血管のようにも、白く風化した水底の珊瑚のようにも見える。馬の蹄の跡が奥へと歩み入る小道の存在を浮かびあがらせる、その空間にひらく、純潔の白い百合。華やかで静かな装幀に引き込まれる。

 

  木陰で

  花びらを脱いで

  翼をはずした

 

  冬の悲しみは直立する

 

  いくつもの惑星が

  手紙のことばのように 砂金を降らせては

  軌道に戻ってゆく

 

  語りかけるものは

  かならず去りゆき

 

  わたしのからだは ことばに濡れた手紙

  とても とても遠い星のことばで 埋めつくされている

 

  わたしが泣いているのではない、

  時間が泣いている(後略)

                              (「砂金」)

 

 はるかな場所から呼びかけてくるものが降り注ぐのを待つ“わたし”。まとうものを脱ぎ捨て、与えられた自由をも取り去り、文字通りの“はだか”にならなくては受取ることができないものがある。それは冬木立が凍て空に細く震える枝を伸ばすような孤独な待機そのものだ。降り注ぐ砂金のイメージは金の雨となってダナエに降り注いだ古来の逸話を思い出させるが、ことばに埋め尽くされていく“わたし”=詩人を浸していくものはエロスではなく哀しみである。己のうちを満たしていく、他者の涙。降り注ぎ、砂金に凝縮されることによって浄化されたものが沈んでいく川底に、詩人は身を浸しているのかもしれない。

 

  私の内は がらんどう

  底には

  透けた花が 群生して

                      (「観覧車とDavidともう一人」6連)

 

 透き通る花は冬の寒さに触れた花びらを思わせる。枯れていくさだめを負わされた花が、最後に見せる一瞬の美。“私”はその花を摘み取るのにふさわしい人を探している。ふさわしい人、それは〈心臓の歯車が見えるほど皮フのうすい少年〉であり、〈会話の代わりにレスタチーヴォを歌う寡婦〉であろうと思われたものの・・・〈少年〉はあまりに傷つきやすく〈何に触れても出血してしまう〉。〈寡婦〉は〈花を愛しすぎて引き裂いてしまう〉ので摘み取れなかったという。“私”の中でせめぎあう、死と美の刹那が重なり合う一瞬、その美を“ことば”に託すことができたら、あるいは枯れ果てていくさだめから逃れることが出来るのかもしれないが・・・そして、哀しみに浸された少年や寡婦も救われるのかもしれないが・・・“私”はがらんどうの器として、それをただ見守ることしかできない。

 この詩の冒頭、〈乳房とペニスのある/David〉という鮮烈なイメージは、中性の存在と言われ少年とも少女ともつかない姿、あるいは無垢な赤子のイメージで描かれる天使が人間的な成熟に一歩踏みだした姿のようにも見える。荒海で希望の灯となる光を灯す灯台、その灯台から〈花粉〉を撒くDavidのイメージは、遠い星から砂金を降らせる何者かの姿にも重なる。

 Davidはどこにいるのだろう。がらんどうの“私”の内に広がる北の海、その海の岬に立つ灯台に独りで立つ少年/少女のようにも見える。〈母さんや 弟に似て/傷つきやすい〉Davidは、語り手の内面に住まうアニマ/アニムスの姿でもあるだろう。傷つきやすいゆえに〈ときどき 痛覚のはげしくなる指先〉を持つDavidが撒く花粉は、“私”の底に群れ咲く花々が透き通り、最後のかたちを残しながら消えようとしている刹那に、せめて実りを与えようとする彼/彼女の切ない願いなのではないだろうか。 

 〈わたしは 海を探している〉〈波が逆巻く あなたの心/しずけさ 横たわる あなたのからだ/ふかく冷たく青い あなたの思想/ああ/ときに温かな海流が わたしを抱いて放さない〉(「耳鳴り」)あるいは〈とびきりのイルカになって/あなたを抱き/あなたに砕かれ/あなたのマグマの中心に飛びこんで/まばたき一つ 手紙一枚 残さない〉(「ドルフィン」)に詠われる〈あなた〉に向けられる激しい思慕は、人というよりも全知全能の“あなた”、叡智に触れる恩寵と永遠の休息としての救済を与える存在に向かう憧憬であるように思われる。

 そのことが深く強く感じられるのは、「未完の冬」に描かれる〈冬なのね 私〉の感覚だ。雪にうずもれ〈手は 枯れ花〉となってしまった“私”は、鏡に映る“私”に〈死んだという噂はほんとうか〉と尋ねる。鏡の中は、〈こちらより幾分多い〉積雪に埋められている。〈真実を聞いたところで私の裡に信仰があるかどうかは分からないのだった〉と率直に告白される痛苦がしんしんと“私”を凍てつかせていく、まさに凍死の瀬戸際で聞こえてくる〈なにも持たずに僕のところへおいで〉という優しい呼びかけは、誘いの声を越えて召名というべき強靭さをもっていることだろう。呼びかける〈僕〉は〈園丁〉であり荒んだ世界で〈花を待ち望んでいる〉者でもある。ここは、世界を冬、あるいは荒野と感受する詩人が、この世は美しい花園であれと望む〈僕〉の願う世界を――無力であろうと非力であろうと――実現に向かわせずにはいられない、という究極の反転が起きる場所だ。〈僕〉の呼びかけを聞いて、積雪に覆われた鏡の世界の向こうに足を踏み出す決意をした瞬間、“私”は冷え切った体の中で透き通り枯れ果てようとする花を蘇生させ、待ち続ける〈僕〉の元に届けようと滅びに瀕した心身を奮い起こさねばならない。その花を摘み取るのにふさわしい人は、人の世の悲しみと痛みを誰よりも深く知る者たちであり、その者たちは悲哀の深さゆえに花を摘もうとすれば自らの心身に傷を負ってしまう。そのことを知るからこそ、代わりにその痛苦を身に引き受けて“私”=詩人はことばを求め続けなくてはいけない、そう自らに課しているのではないだろうか。(続いておかれた「冬の刑」で“わたし”は〈雪の楔〉に〈磔〉にされる。〈だれでもよかった〉〈抱きあえるなら/憎めるなら〉〈導火線をゆだね/血の貸し借りをするほどの人は〉と絞り出すように綴られる詩句は、超越的な〈僕〉に向けるべき思慕を現実の人の上に重ねてしまった“わたし”を貫く、拷罰のように烈しい痛みであるのかもしれない。)

 「今」という詩に表れる〈私 女だったかしら、男だったかしら〉〈名づけられなくても/銀河へと昇る駿馬を放つわ/直線を 終わりまで愛するわ/烈しいひかりの呪文唱えて 星々を射抜くわ〉というフレーズは、自らの使命を認めた者の覚悟であり願いの表明でもあるだろう。花の実りを求めて花粉を撒き続けるDavidが“私”に重なっていく。宇宙の果てから砂金のように降り注ぐものをただ待つのではなく、自ら駿馬を放ち、烈しく求めに行こうとする。(“わたし”と“私”の使い分けは、厳密なものではないかもしれないが、生身の肉体をもった“わたし”と、その中に息づく精神性を強く持つ“私”の相違であるようにも思う。)

 「北からの馬」、そして「おとずれ」に表れる馬のイメージは、天の果てからやってくる“ことば”を烈しく求める詩人の憧憬そのものが姿を取ったものではないだろうか。詩人がこの馬にまたがり疾駆する時、〈乙女の屍あふれる谷で 風に斬られる日もある〉ことを知っている。この馬は〈わたし全体を 駆け抜けてゆく蹄〉を持つ。Davidが立つ灯台を取り囲む北の荒海、その海を越えてやってくる花を摘むにふさわしい人を待ち続ける姿勢から、哀しみを負ったその人たちの代わりに〈園丁〉である〈僕〉に捧げる花を自ら求める道に踏み出すことを決意した詩人。その意志は、自らを思慕で貫き、一気に天へと駆け抜けていく直線的な烈しさを持つ。

 その象徴ともいう馬が駆け抜けていくとき、詩人の手元に残るものはなにか。

 

  砂漠に奔らせる馬群

  絡まりあう文字のように

 

  すぐさま逃げる

  漆黒の脚

  乱丁を残して

                                  (刹那)

 

 馬は黒い文字となって駆け抜けていくのだ。はるかな場所からやってきて、詩人の中の宇宙の果てにまで至る烈しい直線的な思慕を背に乗せて。